\.未来への約束


 「―――ジル!」
 はっとして目を開けると、そこはもう先ほどまでの暗闇ではなく、硬い床の上だった。叫んだ声の大きさに、自分で驚く。何度張り上げようとしても出なかった声がふいに出て、代わりに吸い込んだ空気は紙の匂いがした。
「……マリア……?」
古書屋だ。見慣れた景色と天球儀を見上げて、倒れていた体を起こした耳に、自分を呼ぶ声が聞こえてマリアは顔を上げた。そしてそこに立っている人を見て、弾かれたような衝撃に目を見開いた。
 「ジル……?」
 ぼんやりと霞がかっていた脳が鮮明になり、怒涛のような記憶を一斉に再生する。夢ではない。テーブルを見れば眠っていた人はそこにおらず、目を覚まして呆然と自分の手のひらや自由になる足、それにマリアを見つめた。セピア色の眸が、まるでこれが現実なのかと信じきれずにいるように、頭の先から爪の先まで輪郭を確認する。その驚きを絵に描いたような眼差しが、今のマリアにとっては最高に嬉しかった。
 「ジル!」
 床を蹴って、わずかな距離を駆けるようにその傍へ行こうとする。その膝の上から、何かが滑り落ちてばさりと音を立てた。ノートだった。二人の視線が、そちらへ向く。スローモーションのように床に落ちたノートは、背表紙を打ちつけて二つに開き―――中から数え切れない星が、飛び出して真上へと昇っていった。
 それはまるで、薄金色の鳥の群れか何かのようだった。大小様々な光の塊が、一斉に天井へ向かって突き進む。やがてその中の一つが甲高い音を立てて天窓を破ると、それに続くように他の星たちも窓を割って空へ向かっていった。小さくなっていく薄金色と反対に、大きくなってくる透明の破片が視界いっぱいに映る。それがガラス片だと気づいたときには、何か強い力に引き寄せられて、温かくて苦しい暗闇の中にいた。
 「……眠ってしまったと思ったんだ。意識が遠退いた中で、何度も君に会えた気がしたから」
 「ジル……」
 「待っていてって言われたのに、諦めないでいてくれたのに、一人でこんな幸せな夢を見て、何をやってるんだろうと思った。でも、そうしたら急に、誰かの腕に抱き寄せられて」
 ぽつりぽつりと、記憶を確かめるように語る声が耳元で聞こえる。それがジルの腕の中だと気づくのに、時間はかからなかった。わずかに見える視界には、ガラスの雨が降り続けている。小さな破片は時々ジルの背中にも当たっているようで、本物の雨を受けているような音が聞こえたかと思うと、その髪を透明な粒が転がっていった。音が止んできたのに気づいて、そっと腕を伸ばしてみる。
「―――君だよ、マリア。そのときになってやっと、もしかしたらこれは夢じゃないのかもしれないって分かったんだ。不思議だな、君はあの岬になんていなかったのに」
自分の背中を抱く腕が、震えていた。寂しがりな人だ。一人、誰もいない世界で徐々に遠ざかる意識と戦って、どれほど寂しかっただろう。マリアはその背中に手のひらを押し当てて抱き返すと、柔らかい髪に頬を寄せて目を瞑った。
 「……ありがとう、本当に」
 「うん」
 「君とまたこの世界で会えて、心臓が止まると思うほど、嬉しい」
 言葉と鼓動が、それぞれを嘘でないのだと伝えてくる。それに気づいてしまった瞬間に、マリアの中で一つの迷いが泡のように弾けた。敵わない。秘密主義めいて見えるくせに実は臆病なだけで、そのくせ優しいものだから、本当のことが言えずに放っておくと暗闇へ迷い込んでしまう人。引き上げるほどの力があるのかは分からない。もしかしたら、一緒に迷ってしまうかもしれない。けれど一人にしたくないと、そう思った時点でこの未来は決まっていたのだろう。
 「そんなこと言ったら、これから先、何回止まっちゃうつもりなの?……私も、ジルのこと笑えないけれど」
 「マリア……」
 「お帰りなさい。……それからね」
 くすりと微笑ってセピア色の眸を見上げ、離れても未だ解けきらない腕を見て、マリアは思った。―――私があなたを一人にしないとき、あなたは私を同じように、一人にしないでいてくれる?どうやら、答えは出たようだ。
「ジル、あなたに訊きたいことがあるの」


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