\.未来への約束


 「それは、嬉しいな」
 ここはジルの深層心理と、マリア自身の記憶が混ざった場所だ。記憶の中のこのときのジルは、こんなふうに笑う無防備な人ではなかったし、嬉しいなどという率直な感想をあまり漏らす人でもなかった。ふわりと再び消えた、少年のような青年に目を瞑り、立ち上がる。ここがそんな世界だというのならば、ここで自分が成すべきことは何なのだろうか。
 しばらく行くと紅茶を淹れているジルや、蜂蜜のケーキを手にしたジルにも出会ったが、彼らはすぐに消えてしまった。この頃になるとそういった一瞬の残像のようなものが多くなり、霧ばかりだと思っていたマリアの視界には、次から次へと口を利かないジルが映るようになってきた。それは、ちょうどマリアが古書屋へ頻繁に通い出したタイミングと同じだった。中にはノアの影が過ぎることもあって、そのたび微かにどこからか、ノアを呼ぶジルの声が聞こえる。
 「意外だったな」
 さらに奥へ進もうとしたとき、久しぶりに話しかけてくるジルの姿があった。敬語が外されている。ということは、これはもう親しくなってきてからの記憶だろうかと思い、マリアは様子を窺うように訊ねた。 
「何が?」
「もっと、何これって怖がられるかと思った。落ち着いているんだね」
その言葉に、はっとある景色が甦る。あの、奥の部屋だ。これはあのときの記憶だったのかと理解して、マリアはそうね、と笑った。
「確かに、これを最初に見たら怖いと思うかもしれないわ。でも私、あなたにはもう何度も会っているから」
「そんなに?」
「ええ。あなたはまだ知らないかもしれないけれど、これから先、何度だって会うのよ。だから大丈夫」
そっと、その頬に手を伸ばす。温度はあるのに形がなかった。けれど輪郭に触れていると、同じく形のない手がそっと、形のあるマリアの手を確かめようとするかのように重ねられる。その何かを探るような眼差しが新鮮で、心の中ではいつもこんな目をして自分を見ていたのだろうかと思うと、マリアは自然と自分の頬に伸ばされたもう片方の手にも手を重ねていた。
「そんな、寂しそうな顔をしなくてもいいのよ」
目の前の青年の顔が、微かに驚きに変わり、そうしてこれまでのジルと同じように霧になって消えていった。空になった手をそっと握り締め、マリアは前を向き直す。遠くにぽつりと、小さな明かりが見えた。知っている。あれはきっと、カンテラの明かりだ。
 「ジル」
 真っ直ぐに歩み寄って、自分から声をかけた。星を返すところを見せてと言った日の、待ち合わせの夜を思い出す。思えばあの日の帰り道に、彼は私のささやかな夜遊びが見つからなかったかどうか、随分と心配してくれていたものだ。
「やあ、マリア」
「こんばんは、ジル。ここではこんばんはとか、こんにちはとか、あるのかしら」
「え?」
「ううん、何でもないのよ」
時間の概念はなさそうな空間だが、あのときと同じように、彼の持つカンテラの光は明るい。道標のようで、とても安心した。あの晩はこの後、星を返すところを見に古書屋へ入ったのだが、古書屋の像がないところを見るとこの彼とはここでお別れのようだ。懐かしいなと、ふいに思ったとき、目の前のジルが微笑んだ。
「行って」
「え、どこへ?」
「この先まで。あの道で何度も何度も出会えると聞いてから、ずっと待ってる」
あの道、と言って彼が指差したのは、マリアがたった今まで歩いてきた方向だった。そして何度も何度も、という言葉は、唇に記憶が新しい。あの、中二階の彼の思い出と出会って言った言葉だ。そしてマリアははっと、呟いた。
「……二度目に会ったとき」
カンテラを提げたジルが、静かに微笑んで消える。最後に残ったカンテラの光も、やがてぼうっと霧に溶けた。
 現実の世界で、物語の中のジルからかけられた言葉を思い出す。二度目に会ったとき、特に用がなかったと分かってとても嬉しかったよ、と。彼にとって、あの日の記憶は深いものなのかもしれない。こんなどこの世界か、それこそ空想の世界よりもあやふやに思える世界にまで、広がっているほど。
「……」
マリアにとっても、それは同じだ。あの日、目を覚ました彼が星を落として、そこから色々な話を聞いたから今がある。星読師という言葉さえ知らなかったマリアは、あの日を境に心の隅に星を飼い始めたのだ。温かく、単調だけれど優しくて穏やかだった日々の端々に、星の色が染み始めた。それはきらきらと輝いて、次第に目が離せなくなっていって。


- 36 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -