[.物語の中に


 嘘だ、と言いたくなって、引き攣った笑みを浮かべながらもう一度、眠っているジルの体に手を伸ばした。なんてね、ちょっとした悪戯だよ、びっくりしたかい、と。そんな言葉の一つでもあったら今ならまだ許してあげるから、と、そう思って強く揺すっても、髪が流れるばかりで起きない。代わりに、嘘でないとでも思い知らせるかのように、開いたままの本がジルの声を届けた。
 「ノーマンド戦記を読んだことはある?」
 マリアは所々に染みのできた古い頁を見つめて、首を横に振った。そうしてすぐに、今はそれでは通じないのだと思い出してううんと答える。本の中の文字は一つも動かないのに、そう答えると確かにそうか、と返事があった。
「有名な神話でね。ノーマンドの敵国には、神様が味方していた。戦神デネスの息子だけれどね、父と同じで味方した国に必ず勝利をもたらす力を持っていたんだ。でも、ある日その息子をノーマンドの若い兵士が弓で射抜いてしまう」
「神様なのに?」
「そう。戦神の血を引いていたけれど、彼自身の体はデネスと違って普通の人間のように脆かったんだ。当然、兵士は彼の正体を知らなかった。敵国の兵士を射たつもりでいたのだけれど、やがてその話が天まで伝わって、デネスの耳へ入ってしまう」
ジルは物語を掻い摘んで、言い聞かせるように話す。マリアは本を閉じないように気をつけながら、もう一度表紙を見た。色が褪せてしまっているが、兵士の後ろ姿が描かれているのが分かる。弓矢を背負った、特別に強そうでも弱そうでもない、ごく普通そうな兵士の絵だ。彼が、主人公なのだろうか。
「デネスは怒り、初めに息子を利用しておきながら死なせてしまったノーマンドの敵国を踏み潰した。それから今度はノーマンドへ行ったけれど、兵士は城から逃げ出した後だったんだ。彼を連れてきたら国を荒らさないでやる、と言ったデネスの一言で、国中の人間が彼を探し始める」
「そんな……」
「けれど彼には、理解者もいたんだよ。でも仲間の手を借りて逃げ回る彼はなかなか見つからなくて、痺れを切らしたデネスが城を壊してしまう。国中の人間が、それに怯えて兵士を憎んだ。瓦礫になった城を山から見て、彼はついにデネスを呼び、一騎打ちを申し込む。勝負はね、引き分けたんだよ」
「え?」
「彼には戦女神の加護があったんだ、彼自身も知らなかったけれど。お陰でデネスを討ったけれど、自分も傷を負っていて、もう生きられないと悟った彼は海へ沈んだデネスを見届けてから岬へ身を投げてしまう。ノーマンドには平和が訪れたけれど、国を護った英雄が一体誰だったのか、それを国民が知ることは永遠にできなかった。そんな話だよ」
報われない、やりきれない話だ。誰にも救われることなく、水の底へ沈んだ若い兵士が目に浮かぶ。だが、思わずその神話の世界へ傾いていたマリアの意識は、次の一言で完全に現実へ引き戻された。
 「その彼が、落下しながら最後に流星を見上げた場所が、この岬。僕が今いる場所なんだ」
 「あ……!」
 「星は拾ったよ。ただ、物語の終わりがここじゃないらしいんだ。……どうやら扉は、この下に―――、水の中にあるみたいでね」
 ジルの言葉に、脳ががくりと揺すられたかと思った。口調は柔らかいが、彼の声にも隠し切れない動揺が滲んでいる。当たり前だ。マリアは頭の中で先ほど思い浮かべた兵士の青年の横顔が、うっすらと薄金色の髪に変わっていくのを感じてその想像を振り払った。最悪のシーンなど、思い浮かべるには気が早い。そんな一か八かの扉を探さなくても、きっと何か、他の方法があるはずだ。


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