[.物語の中に


 「……っ!」
 そんなはずはない。あれから、すでに何時間が経ったと思っているのだ。本来ならとっくに、目を覚ましていていい時間のはずである。恐ろしい可能性が脳裏を過ぎって、マリアの手から思わず力が抜けた。がん、と背表紙がテーブルを叩く。その音に意識を引き戻されて、あ、と声を漏らして本を拾い上げようとしたときだった。
「―――マリア?」
「……え?」
マリアの指が頁を捲り、その隙間から微かにくぐもった、聞き覚えのある声が聞こえたのは。
 「その声、やっぱりマリアだろう!?」
 「ジル!?あなたの声よね?」
 咄嗟に、答えると同時に聞き返してしまった。間違いようがない、ジルの声だ。だが、それはどこか壁の向こうから聞こえてくるかのようにくぐもって通らず、何だか遠い。マリアは辺りを見回して、奥の部屋のドアを目に留めたが、すぐに視線を手の中の本へ戻した。考えがたい。普通なら、信じられないようなことだ。だが。
「ねえ、ジル。あなた……」
「……」
「今、どこにいるの?」
あのドアを開けたところで、彼はいないだろう。耳がそれを分かっている。震える声で問いかけたマリアに、少しの間があってから、返答があった。
 「……ノーマンドの、城が見える岬。僕が入り込んだ神話の、最後のシーンの場所……、扉があるはずの場所だ」
 頭の中が、真っ白になりそうだった。声は、本の中から聞こえてくるのだ。マリアは本を閉じないように、きつく指先で頁を開いた。扉が、あるはずの場所。その言葉がすべてを物語っている。
「どうしてここで、君の声が?君はどこにいるんだ?」
「アークよ、ノアが私を連れてきたの。何だか鳴き止まなくて、様子がおかしかったから……、ついて来てみたら、あなたが朝と同じ格好で眠っていたんだもの。いくらなんでもこんなに目を覚まさないなんてと思って、本を開いてみたら、ジルの声が聞こえて」
「……そうだったのか、ノアが……感謝しないといけないな」
それからもちろん、君にも。くすりと、こんなときだというのに妙に安心したような笑い声を漏らしたジルに、マリアはなぜだか自分が一層不安になるのが分かった。彼の口調は至っていつも通りで、それほど慌てふためいてもいない。けれどそれが、無性に胸をざわつかせる。
「ねえ、ジル。お願いよ、本当のことを答えて」
「……」
「……扉がある“はず”の場所って、どういう意味?」
扉がある、ではない。あるはずの場所だと、彼は確かにそう言った。うっすらと、手のひらに汗が滲む。すっかり慣れたつもりの古びた紙の匂いが喉に貼りついて、声が、うまく出せない。やがて頁の向こうから躊躇うような気配と、意を決したようなため息が聞こえた。
 「―――物語の中に、閉じ込められた。扉がどこにも見当たらないんだ」
 ずっと、商店街を駆けていたときから体の奥に蟠っていた悪い予感が、呼吸のために開いた唇から溢れ出した気がした。目に映らないそれは空気を食んで重くなり、マリアの体に外側からどろりと纏わりつく。


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