Z.トウミツ祭の奔走


 戸惑うレオをつれて階段の下へ着いたとき、マリアにはその根拠のない直感が、決して間違っていなかったと分かった。階段の上でドアを引っかいていた黒猫が、物音に気づいてこちらを振り返り―――、ノア、と呼んだ瞬間に階段を駆け下りて、その猫が飛び込んでいったのはレオの手にしていたビスケットではなく、空っぽのマリアの腕だったのだ。
 「マリア?戻ってるの?」
 「お母さん!」
 「あら何、その猫……、もしかして」
 ノアはマリアが抱き上げると、途端に何かを訴えるように鳴きだして止まなくなった。その様子を唖然として見ていたレオが、声に気づいて出てきた母を見ておばさん、と駆けていく。ノアのどこか異様な様子が、幼い子供には敏感に伝わって怖かったのかもしれない。どうしてここに、驚いた目でレオを見た母だったが、それからすぐにマリアとノアへ視線を戻してじっと見つめた。
「……お母さん」
その眼差しが、見たこともないほど厳しい。マリアはノアを抱く腕に力を込めて、意を決して言った。
 「そこを通して。ジルのところへ行かなきゃ」
 彼の名前を口にした瞬間に、母の眸がみるみる歪み―――、しかし涙は零れなかった。代わりにどうしてと、眸が痛々しいほど語っていた。マリアはきりきりと痛み出す胸に抱いたノアの温かい体を自分の体に押しつけ、口を開く。
「……お願い」
「……」
「……お母さん」
自分の喉からこんなにも切に何かを願う声が出たのかと、耳がそれを疑って混乱しそうになる。それほどに、懇願、という言葉の浮かんでくる声だった。母のエプロンを握り締めたレオが、知らない人間を見るような目でこちらを見ている。マリアがそれに耐えられなくなってそっと目を逸らしたとき、階段の上のドアが音を立てて開き、全員の視線が向いた先には、いつもと同じ猫背がちな父が立っていた。
 「お父さん……」
 スリッパのままで階段を下りてきた父は、マリアの前を通り過ぎてしゃがみ、レオの頭をくしゃりと撫でた。そうして立ち上がって今度こそマリアのほうを向くと、何かを考えるような眼差しでじっとその眸を見つめ、やがて静かに口を開いた。
「……恋人なのか」
「ううん」
問いかけに、迷いもなく首を横に振る。マリアはそれから父を見上げ、それ以上にはっきりとした口調で言った。
「―――でも、大切な人なの。放っておけない」
その言葉を聞いた父の目が、眼鏡の奥でわずかに見開かれる。見れば母も、同じような顔をしていた。マリアは黙って、もう一度父の眸を見上げる。節くれ立った指が眼鏡を押し上げ、それからその顔が、微かに笑った。
 「……行きなさい」
 「!」
 「あなた……!」
 母が非難するような声を上げる。だが、それと同時にマリアはノアを地面に下ろした。ずっとやり取りを見守るように大人しくしていたノアが、弾かれたように駆け出す。黒くしなやかな体が足元を駆け抜けて母が思わずそちらへ視線を向けたとき、振り返って見た父の口が、マリア、と声に出さず動いた。
 「ありがとう」
 胸の痛みがかっと熱を持つのを感じて、マリアは歪みそうになる視界を堪えて走り出した。レオに一言だけごめんね、と言って、母の横を駆け抜ける。遮る手はない。
 家の敷地を飛び出して商店街の道へ出れば、ノアが待っていたというように駆け出した。追いかけて、マリアも暮れかかった空の下を全速力で走る。見慣れた景色が少しずつ上がる呼吸に上下しながら、見たことのない速さで視界の両脇を過ぎていった。古書屋までは、曲がり角を越えればすぐだ。
 マリアの見えなくなった後で、父は徐に腕を伸ばしてレオを抱き上げると、ビスケットを握り締めたままで固まっていた少年の背中をあやすようにとんとんと叩いた。そしてマリアの駆けていったほうを向いたままの母に、まるで独り言のような声でぽつりと語りかける。
「……遺伝だな。びっくりするくらいに、お前の血を受け継いだ子だ」
母が、ゆっくりと振り返った。ゆるゆると、否定というよりはどうしたらいいのか分からないというように力なく首を振った彼女の赤毛を、レオの背中を撫でていた手が一度だけ撫でる。
「びっくりするくらいに、笑うくらいに、お前と同じことを言う。こんな小さな街で暮らすのに勉強ばかりして、八百屋の子供が医者にでもなりたいのかと笑い者だった俺を、放っておけないと言ってばかりいたのは誰だったかな」
あのとき、本当に驚いたのはマリアの言葉自体ではなかった。大切な人、などという言葉が娘の口から飛び出したことに衝撃がなかったとは言わないが、本当の理由は何より、それがあまりに若かりし日の妻と重なったからだった。だから思わず、行きなさいと言ってしまった。あの眼差しで、あの声で、放っておけないと言われる男が幸福であることを、身を以って知っているものだから。
 父はため息をついた母に笑いかけると、そんな自分に苦笑して、それから腕の中の少年を見た。事の次第が分からなくて困惑しきった顔をしているが、こればかりはさすがに、今教えても分かるものではないだろう。何でもないよ、悪かったなあ、と言ってそっと地面に下ろす。その手を繋いで、母に言った。
「とりあえず、レオくんを家まで送ってくる。お前も行くか?」
母はそこでようやくわずかに表情を崩すと、首を横に振って苦笑した。マリアがもし慌てて帰ってくるようなことがあったときに、いないのではどうにもならない。父もその返事を分かっていたので、じゃあ行ってくると言い、レオの手を引いて歩き出した。商店街の長い一本道に、マリアの姿はもう見えない。見上げれば曲がり角の向こうに、古書屋の風見鶏が見て取れた。


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