Z.トウミツ祭の奔走


 古書屋の前へやって来ると、ここへ来るのもすっかり習慣になってしまったなと感じた。細く、縦に長い建物だ。蜂蜜色の壁に古めかしいドアと真鍮の看板が、埋まるように取り付けられている。一歩下がって昨日、窓から見えた屋根を見上げてみたけれど、風見鶏はとても見えなかった。ここからでは無理か、と背伸びをしていた踵を下ろす。
 マリアはそうして、もう一度ドアの前へ戻ってノックをした。数秒待ってみたが、返事がない。また奥の部屋にでもいて聞こえないのだろうか。前の経験から返事がないからといって外出しているとも限らないことは分かっているので、ドアノブに手をかけて回してみる。
「ごめんください。ジル、いない?私よ」
ドアは抵抗なく開いた。相変わらずだ、と思いながらも、前ほど躊躇うこともなく声をかけながら中へ入る。しかしそのドアを閉めようと振り返ったところで目に入ったテーブルの上の景色に、マリアは一瞬息を呑みかけてから、気の抜けたため息を漏らした。
 「なんだ、ここにいたの」
 探そうとしていた人は、ドアのすぐ近く、テーブルの上でいつかのように突っ伏して眠っていた。あのときは中二階にいたものだから、今もドアを閉めたらまずそこを見上げようと思っていたのに。奥の部屋に至ってはノックする必要さえなかったと、マリアは店の入り口で眠る人の横顔を見つめて、思わずくすりと笑みを零した。
 「……」
 そっと、近くへ行って身を屈めてみる。これだけ間近で見つめても目を覚まさないということは、ただ眠っているのではなく、これが彼の話していた体だけが眠っている状態というものなのだろうか。片腕の下に、あまり厚さのない本が挟まっていた。タイトルはちょうど袖口が邪魔をして読み取れない。もしかしてこの物語の中に、と考えてから、マリアはテーブルを回って正面の椅子に腰かけ、眠ったままのジルの髪を指で梳いた。
 一晩中、ずっと考えていたことがある。物語の中に、なんて、それこそが物語のような話だ。けれどもし、それが現実のものとして自分に可能だったら、どうしようか。訊いてみないことには始まらないと思いながらも、ずっとそんな、もしもの話を考えていた。
 ―――もしも、彼と一緒に仮想と現実を渡ってゆけるのなら。たった一つだけ、それをしても構わないと思える可能性がある。彼一人のために、この先この世界で過ごすはずだった多くの時間を空想の世界に費やすというのは、あまりに難しいことだ。無償の愛で成し遂げるには、とても決断しがたいことである。けれどたった一つ、無償の愛が無償でなくなる方法。この世でもっとも金銭や時間を伴わず、数え切れない人々が交換し合って来たけれど、誰にもその確実な交換の手順は語れない。
 「……起きてよ、ジル。私あなたに、訊きたいことがあったのに」
 真昼の天井で光る、星の色。彼はあの部屋に浮かぶ、空へ返される前の星のようだ。表面は柔らかい光に囲まれているのに、手にするとひやりと冷たく、鉱石のように硬い。砂糖菓子のような色をしているのに、輝きを零しては遠くへ遠くへ逃れようとするから、いつだって目を眩まされまいと必死になっている。
 「でも本当は、なんて訊いたらいいのか、それだって分からないんだわ」
 その手を、彼は本当に必要としてくれるだろうか。あやふやなままでただ孤独にしたくないからと踏み込んでしまうには、ここから先はあまりに深くて狭い。踏み込んだ後で受け止めてくれる腕がそこにあると確信できないことには、これ以上足を進めることはもうできないのだ。
 マリアはそのまま昼頃まで棚を眺めたり童話を手に取ったりして店の中で過ごしてみたが、結局ジルが起きることはないまま、時間を迎えて店を後にした。


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