Y.星読師


「どうして、この街に来たの?」
訊ねた瞬間、ジルの目がわずかに動揺したのが分かった。ここを訪れる前から、彼のことを噂でしか知らなかった頃から、気になっていたこと。古書屋が彼の持つ二つの生活の一つだと知った今でも、その疑問は変わらなかった。
「星読師の仕事にも、本が必要なんでしょう?どうして書店のたくさんある王都じゃなくて、一軒もないこの街を選んだの?」
「それ、は」
「……話したくないこと?」
彼の仕事は、表であれ裏であれ、どちらにしても書物を必要とするはずなのだ。ならばどう振舞ったところで、一軒でも多くの書店と、一人でも多くの売り買いに来る客がいたほうが楽に決まっている。彼はそれが可能な王都に店を構えていたというのに、どうしてこんな場所までやってきたというのだろう。じっと見上げるマリアに、ジルは言葉を選ぶようにゆっくりと切り出した。
「……最初から、独立できる自信がついたらすぐにでも王都は離れようと決めていた。どうしたって留守の多くなる仕事だから」
「え?」
「多くの人と関わると、この世界で過ごす時間に愛着が湧きすぎるんだ。例え一緒にいなくても、できる限りの時間を同じ土と、同じ空の間で過ごしていたいと思うようになって。星読師の仕事に支障が出る」
「ねえ、ジル。待ってよ、話がよく……」
天球儀のほうを見つめながら淡々と話された、彼の言葉の意味がよく分からない。マリアが慌てて遮ると、ジルはそれをさらに遮るようにして、逆に問いかけた。
「君は、星読師の仕事って、具体的にどんなものだと思う?」
「え?それは、ええと……流星の出てくる物語を読んで、その星を救い出して、空に―――……あ」
唐突なことに不意をつかれながらもこれまでの記憶を辿って答えていったマリアだったが、そこではっと、重要な部分を知らないことに気づいて息を呑んだ。具体的に。そう、具体的に、だ。この会話が真実だとするならば、物語の星を救うだなんて絵空事を、どうやって成し遂げるのか。
 そこへ思い当たったマリアに、彼はじっとその視線を移して、それから一度、瞬きをして言った。
「出向くんだ、物語の中に」
「……え?」
「もちろん、そんな世界、本当は存在しない。物語を読んで、記憶やイメージで創り上げた仮想の世界の中へ、精神を送る。そこで星を拾って、こちらの世界、つまり現実に持ち帰るんだよ」
物語へ、出向く。マリアは自分の頭がすうっと白くなるのを感じて、慌ててその霧を追い払った。許容できる大きさを容易に超えた内容に、脳が思考することを手放したがって、酸素が欠乏したようにぼんやりとしている。だが、霞みそうになる思考を繋ぎ合わせて彼の言葉を何とかそのまま理解しようとしたとき、マリアは背筋の冷たくなるような可能性に行き当たった。自分自身のイメージで創った仮想の世界へ、乗り込む。しかし彼はそんな世界を、存在しないものだという。それはまるで、あやふやな夢の中のような場所ではないだろうか。
 わずかに血の気の引いた顔を上げたマリアに、見たこともないほど弱々しく微笑んで、ジルは小さく頷いた。
「どこでもない世界だ。物語の記憶と、僕の想像力だけで創られている空間だよ。体はこちらの世界で眠っていて、精神が物語の中を歩き回って星を拾うと、大体その物語を読むのにかかったのと同じくらいの時間を、僕はその世界で消費する。三時間で読んだら三時間、六時間で読んだら六時間くらい眠っていることになるんだ」
「そう、なの」
「仕事を終えてしばらく歩くと、扉が見えるんだ。そこは物語の終わりで、裏表紙みたいなものだと思ってくれればいい。開くと意識がこちらの世界に戻ってきて目が覚めるし、物語の中で拾った星がポケットや手の中、本の隙間とか、色々な場所に転がっている」
その話に思い当たる記憶を見つけて、マリアはあっと呟いた。中二階に、人が倒れている。そう思ったあのときだ。目を覚ました彼が抱えていた古書から、星が溢れた。あれは疲れて眠っていたのではない。正確にはあのときが、仕事中だったのだ。
 だが、ようやく色々なことが繋がりかけたマリアがそういうことだったのかと頷くのに対して、ジルは躊躇い気味に、でもね、と続けた。
「それだけなら、いいんだ。普通だって、人間の体は六時間前後眠る。でも、体は眠っているけれど精神が活動している。これはどうなると思う?」
「……え?」
「脳が動いているから、睡眠にならないんだよ。つまり僕は、物語の世界にいる時間とは別に眠らないとならない。―――この世界に意識のある時間というものが、絶対的に少ないんだ」
最後まで迷いながら、けれどはっきりと言い聞かせるように語られた話に、マリアは何も言うことができなかった。言葉が纏まらなかったのだ。纏まったとしても声が出なかっただろう。心臓がどくどくと、壊れたように冷たく鳴っていた。目の前の“青年”が、自分の知らないもののように見えてそんなはずはないと手を握り締める。嘘のような話だ。そう思うのに、今まで見せたことのない顔で諦観したように笑う彼の纏う空気はどこか浮世離れしていて、ああこれこそがこの人の本当の姿だったのだ、と気づいたとき、マリアにはその直感の囁きが嘘だなどとはとても思えなかった。


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