V.星を読む人
ニャア、とノアの鳴いた声に回想が断ち切られて、マリアは自分が随分ぼんやりとあの日のことを思い出していたことに気づいた。いつの間にか止まっていた手で首を撫でてやれば、ノアは満足そうに喉を鳴らして椅子の下で丸くなる。あれから、何度思い出した会話だろうか。無理もない。どんな噂話より、どんな学校の勉強より、マリアにとってあれは突拍子もない、物語のような出来事だったのだから。
「お待たせしました」
「……あ」
「……?どうしたの?」
「ううん、何でもないの」
奥から紅茶を持ったジルが出てきた。一瞬、いつからともなく外れていた敬語に戻った彼の口調に、先ほどの回想の名残が頭の中を過ぎる。マリアは彼の話を、今でも半信半疑だ。何度も会って、こうして言葉を交わしていれば、ある程度は信用も生まれてくる。初めの頃のような警戒はもう持っていない。だが、あの話を聞くにはあまりに早すぎた。あのときのマリアはまだ今ほど彼に対して心を許していなかったため、星読師の話をどれほど聞いたところで、すべて真に受けるようなことなど到底できなかったのである。
彼にもそれは当然伝わっていたようで、ジルは最後に星読師が国に認められたれっきとした職業であることと、ここにあるのはすべて自分が目を通して星を救い出した後の書物たちだが、物語が失われてしまうと永久に星を救えなくなるため、古いものから収集して読んでいるから、必然的に古書ばかりが集まるのだという話を付け加えて、それ以上のことは語らなかった。きっとその先はさらに物語めいてゆくから、今の自分に話しても無駄だと思わせたのだろう。マリアは薄々ではあるがそう察しており、そしてその判断を正しいと思っている。彼の話は、鵜呑みにするには空恐ろしささえ覚える。そんな自分は決して異常ではないだろう。そう思うのだけれど。
「ねえ、ジル」
「何?」
「……蜂蜜のケーキ、食べたことあるかしら?」
星の流れる物語の、古書ばかりが集まる店。時間が緻密に刻まれていくようなこの場所で、同じ紅茶を囲んで座っていると時々、唇が勝手に動きそうになる。星を救い出すって、具体的にはどういうふうに?空へ返すって、どういうこと、と。信じると決められたわけでもないのに、続きを追いたくなるのは悪いことだろうか。狡いかもしれない。
「蜂蜜のケーキ?知らないな」
信用のない人への深追いを、好奇心、と呼ぶ。近頃心の中に巣食っている、病魔の名前だ。こんなに近くで話しておきながら、結局は自分も、彼を遠巻きに噂している人々と変わりないのではないか。なんだいそれ、と興味深そうに訊いたジルに、やっぱり知らなかったのねと笑って、マリアはわずかに曇る胸の内に蓋をした。
「一切れくらいしかないでしょうけれど、良かったら後で持ってきてあげる。お母さんが焼いて、私が街の人に配りに出かけるのよ。今日、トウミツ祭なの」
「トウミツ祭?」
「うん」
「へえ、何のお祭?」
大切なものだったはずの話を信じきれない本心に目を瞑って、躓きの少ない道から近づくたび。あれをもう一度、きちんと確かめるべきではないのかと胸の奥がざわめく。今だったら、何と言っただろうか。あのときよりはきっと怯えずに、けれどもやはり、心のどこかで疑ってしまう。
深い意図はなく聞き返された言葉に、よく知ったはずの答えがすぐに出なかった。
「……ちょっとした、習慣みたいなものよ。この街の」
少し独特な香りのする、すっかり慣れた紅茶の水面を見下ろして思う。ねえ、あのときの話、本当?たった一つ、それさえも聞き出せないでいるくせに、機会が与えられたらいつもありがとうと言いたいくらいには関わりを持ってしまっている。はたして、どちらの距離が本物なのだろうか。
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