第三幕


 翌日、私は朝早くに起きて小屋を出た。昨晩の王宮近くでの公演は大盛況で、アンコールまで起こった。お陰で疲れが残っているが、どうせ探すなら早めのほうがいいだろう。もっとも、手がかりは朝焼け色のショールとライムの香りだけ。始めから見つかるなどとは思っていないが、それでも少し気にかかる。どんな手段でも構わない、言葉でなくても構わないから、お礼を伝えたかった。それに。
(……嫌なものを見せたかもしれない)
わずかな休暇らしく緩く編んだ髪を背中に回して、舞の衣装の上に若草色のショールを纏い、私は歩く。当てもなく。声なんて、漏らさなかったはずだ。涙はしっかり隠したはずだ。けれど、渡り鳥は跡を濁してはならない。公演の後に泣いているところなど、見つかっていいものではなかったのに。
「……!」
ぼんやりとそう思い出して目元を擦りながら歩いていた私は、ふと鼻先に触れたライムの香りに顔を上げた。あ、と出しそうになった声を空気と一緒に飲み込む。広々とした緑の公園の片隅にある、ベンチ。噴水を眺める位置に造られたそれの片側に、一人の青年が座っている。彼は、風に吹かれて膨らむ朝焼け色のショールを纏っていた。
「―――」
何から、どう口にしようか。まさか本当に会えるとは思いもしなかったという焦りと、あれははたして本当に彼なのかという疑心とが入り交じる。
「……」
少しだけ。もう少しだけ近くで見てみよう。そう思って足を進めたとき、爪先にかつんと木の根が引っかかった。
「あ……っ」
「え?」
「!」
ああ、やはり彼だ。一昨日と同じ、声。よろめいた足を立て直しながらそんなことを思って、けれども私は同時に、逃げ出したくて仕方なかった。―――今、咄嗟に声を上げてしまった。
「君、この間の……」
「……っ」
「ああ、やっぱりそうだ。その衣装。こんなところでどうしたの?」
一人なのかい。動揺に震える私に気づかず、彼は柔和な笑みを浮かべてこちらへ近づいてくる。逃げ出したくて堪らないと思うのに、数年ぶりに人前で声を発してしまったと思うだけで、走り出すどころか足を動かすことさえままならなかった。足だけではない。身体中が緊張に固まって、ろくに動けない。
「あの羽根、君のもので間違いなかったかな?一昨日はごめんね、舞台裏を覗くような真似をしてしまって」
「……」
「その……、泣き顔を見るつもりはなかったんだ。ただ、君達皆が着けていたはずの羽根が落ちていたから、誰かのものかなって探していたんだけど」
「……」
「でも、良かった」
立ち尽くす私の前へ来て、彼は続ける。
「声、出ないわけじゃないんだね」
その笑みの形を描く唇からその言葉が溢れきったとき、私は頭の奥にあった一握りの希望を砕かれたような心地がした。もしかしたら、聞かれていないかもしれない。甘いと知りながらもそんな可能性を求めていたのだ、それはもう渇くほどに。ああ、彼は次に何を言うだろう。怖い。
「君の名前は?」
「……?」
「名前、教えてくれないかな。いつまでも君っていうのも、なんだかね」
きつく耳を塞ぎたい衝動に駆られて代わりに目を閉じた私へ宛てられたのは、どんな予想とも違った言葉だった。カラス、と笑われるかもしれない。歌わないのはなぜ、と問い詰められるかもしれない。けれども彼は、そのどちらでもなく、それどころか声より先に名前を聞きたがった。思わず目を開いて合わせる。灰がかった緑の、アンティークのような眸。
「あれ、だめ?」
「……」
「まあ……、無理にとは言えないけれど」
答えようとして、けれどもこれ以上声を発したくなくて。私はどうしたら良いのか分からず、無意識に俯いた。沈黙を拒絶と取ったのか、彼は諦めたように呟く。見上げたその眼差しにきんと胸が痛んで、気がついたらその腕を強く掴んでいた。
「どうし……」
「―――」
「……え?」
声を出さず、吐息を溢すように唇だけを動かす。初めはただ驚いたようにこちらを向いただけだった彼も、やがて意味を汲み取ったのか、私の唇の動きを見つめた。数度繰り返すうち、辺りの音さえ聞こえなくなって、噴水の音だけがやたらと高鳴る胸の音に呼応しているような、そんな錯覚に陥る。


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