第三幕


「レ、イ……」
「……」
「……レイ、シー?」
そうしてとうとう、私は言葉を交わさずして彼へ、名前を伝えた。頷いてみせれば安堵したように微笑まれて、心なしか私の唇も弧を描く。けれど。
「レイシー……そうか、レイシーっていうんだね」
「……」
「僕の名前は、ガラッド。……あのさ」
「?」
「喉でも痛めているの?声、出せないわけじゃないよね」
次いでかけられた当然の問いかけに、なんと答えたら良いのか。迷った挙げ句、私はそっと首を横に振った。
「僕と話すのが、嫌?」
困ったようにそう訊いた彼へ、私はまた首を振る。
「ええと……、それなら、どうして?」
呆れているだろう、きっと。落とし物を渡したのに礼も言われなかった上、今度は勝手に会いに来て、黙りを決め込んでいる。それなのに彼は、怒鳴ることも立ち去ることもしない。それなのに私は、またも首を横に振るくらいしかできなかった。
「そうか……、ええと」
座らないかとでも言うように仕草でベンチを勧めた彼へ、私はまた力なく首を振った。一瞬の沈黙の後に、彼は軽く苦笑して、ベンチへ戻る。
「……ごめんね、分からない」
「……」
「でも、じゃあ頷くか、首を振るか何かしてくれればいいよ。一昨日は大丈夫だった?」
おずおずと曖昧な距離を取って立っていた私は、彼が唐突に切り出した二つ目の本題に顔を上げた。大丈夫、と頷こうとして、けれども私が言いたいのはそこではないのだと躊躇する。そして数秒、どうしようかと悩み、私はその場にしゃがんで指を出した。
「……?」
人差し指でゆっくりと、乾いた砂に文字を書いていく。声を発してしまえば、こんなものはもっと簡単に済む話だ。我が儘をちくりと申し訳なく思いながらも、彼の視線がしっかりと指先に注がれているのを、少し嬉しく思わずにはいられなかった。言葉よりずっと遅い手の動きを、何も言わずに待ってくれる。擦れた指先の痛みも気にならないほど、私はそこに最後まで文字を書ききることが楽しかった。
『一昨日はごめんなさい』
「どうして?」
『嫌なところを見せた』
日溜まりの温度に染まった砂を掻いては手のひらで均し、また文字をつける。彼はそれをじっと見つめて、声を返した。
「嫌なところって?」
『泣いているところ』
「……気まずいと思わなかったと言ったら嘘になるよ。でも、別に謝られるようなことは思っていない」
『どうして?』
「だって、僕には分からないけれど何か事情があったんだろう?……君こそ、どうしてそんなに驚いた顔をするのかな」
幼い子供に問いかけるかのように、彼はゆっくりと言葉を繋ぐ。
『だって、私達は綺麗に歌って舞って』
「うん」
『笑顔でお辞儀をして、それが仕事で。それなのに』
「うん」
『舞台裏を見せるのは、良くないことじゃない?冷めるでしょう、気持ちが』
静かに頷いて続きを促す彼に流され、私は一気にそこまでを書ききった。渡り鳥は、旅の歌姫。私はそこの中心に立つ舞姫だ。自意識過剰なつもりはないが、公演では舞で道端の人々を魅了する。それが役目だと自覚している。その舞姫が、羽根を揺らして去った後に人間臭く泣いているなんて、余韻も冷めるというものではないか。緊迫感や焦燥感、そういったものを客の目に晒してはならない。そう教えられてきた。
「まあ……、確かに余韻も何もなくなるね」
「……」
「でも、そこに文句を言うような客はあまりに心無いよ。歌姫だって舞姫だって、人であることに変わりない。特別な一族だから特別でなくてはならない、なんて決まりはないのだし」
「……!」
「当たり前のことだと思うけれどね。気に病むことの一つや二つあれば、涙が出ることもあるんじゃないかい」
ベンチを下りて目の前に屈んだ彼は、そう言って自分も手のひらで砂を均しながら笑った。さらりと視界に溢れる朝焼け色。
「謝られるようなことじゃあ、ない」
ライムの香りが、埃っぽい砂の匂いを掻い潜って鼻先をくすぐる。柔らかな眼差しに、ひどく胸がかき毟られた。私にとってそれは、与えられたことのない視線だったから。


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