※美作視点
この胸の苦しみの理由さえ
自覚できなかった。
つまり俺はどうしようもない…、愚か者ってこと。
――――…キーンコーンカーンコーン。
間抜けなチャイム音を聞きながら、この学園の聖域・演劇部の部室に入る。
最近、前は気にも止めなかった日常の雑音がやけに耳について胸が騒つく。
原因はわかってる。
全部、あいつのせいだ。
「はーい、部活開始時間になりましたー。これで今日はさすがの生徒会でもお前に手は出せない。無事に逃げ切れたねー」
パチパチと軽い拍手。
部室には既に大半の部員の姿はない。みんな既にジャージに着替え、体育館に行ったのだろう。
そんながらんとした部室にいたのは2人。
拍手をした奴と、心配そうにこちらを見る後輩。
「それにしてもー、日高のやつなんなんだろー。……いい加減、しつこくてムカつくんだよねぇ」
「お前がムカついてどうすんだよ…日向」
拍手をした奴、もとい演劇部の副部長で寮では同室者である日向に俺は脱力したように返事をする。
「だ、大丈夫ですか、美作先輩?あの人に何もされてません?捕まりませんでしたよね?」
「…あぁ。大丈夫だ、因幡。あいつより、日頃の練習のおかげで俺の方が体力あるし、な」
「そう…ですか。よかった…」
安心したように息を吐く後輩、もとい因幡。
心配させてしまった罪悪感から、自分の顔より低い位置にある彼の頭を安心させるように撫でれば、強張らせていた表情も少し和らぐ。
いつもハイテンションの後輩だが、ここ最近、俺のせいで妙に沈んでいる。
日頃誰が誰と付き合っているだとかか、誰が誰のセフレだとかそういった話が大好きな因幡は、正直こういった話も好きかと思ったのだが、どうやら身近な人のそういったことになると違うらしい。
思い返せば、鈍感な相模先輩と会長をくっつける時も、騒いではいたが真剣だった。
バカだけど、因幡はいい後輩だと改めて思う。
まぁ、さっき言った通りそんな彼を消沈させているのは自分なのだが……しかし、正確に言えば俺の身の上に起きたとある事件のせいである。
あのことがあったあの日、部活であまりにもぎこちなくなってしまった俺の演技に気付いた相模先輩と因幡と日向が問い詰めてきたのだ。
思わずその時は思い出して女々しくも泣いてしまったが、口を滑らせることなくあのことを黙秘した。しかし、俺の涙を見た相模先輩は憤怒の形相を浮かべていたので黙秘したことは正しい判断だったと思う。
だが、その後因幡と日向は再び俺に何があったのか問い詰めてきた。あまりにも真剣に言うものだから、こちらも悩んでいることをぶちまけたくて、俺は二人に喋ってしまったのだ。
あの『事件』のあらましを。
だけど、仰々しく『事件』などと騒いでいるのは自分の方だけであいつはきっと大きく悩んではいないのだろうなぁ、と思ってしまうと苦々しく、そして苦しい。
あいつ、………日高は遊び人でセフレが多いことで有名なのだから。
あれは合意ではなかった。
第一、……いきなり、段階をすっとばすなんて俺の理念に反するし。
普通お互いに好き合って、告白したりして、気持ちを伝え合ってから交際して、それで仲を深め、手を繋ぎ……き、キスして、そうやってやっと『ああいうこと』をするものだろう?
襲うにしたって、それは好意からくる『思い余って』の行動であると俺は思っている。
(まぁ、…親衛隊の制裁内容にレイプってものがこの学園にもあるけれど)
だけど、日高が俺を襲ったのは好意なんてものではなくただの『興味』と『性欲処理』。
なんとなく、だ。
俺みたいな自分より背の高い奴を抱く好奇心と征服欲からあの時、可愛かったとか、意味のわからないことを言い出したに違いない。
それはただの錯覚。
………あんまりだった。
ひどく裏切られた気がして、嫌なことは忘れたいのにちっとも忘れられなくて。
こびりつくみたいに、あの日のことが頭から離れない。
そうして日高のことを見ると必然的にあの日を思い出してしまうから、俺は最近ずっとあいつを避けているわけだ。
大変申し訳ないが、会長にはわざわざ演劇部に赴いてもらい様々な諸連絡を行い、俺から生徒会室に向かうことはない。
あの日から、ただの一度も。
だけど、なぜか喪失感にもにた寂しさを感じる。
避けているのは自分で、日高は避けられて当然のことを俺にしたのに。
寂しい、なんて。
おかしいだろ。普通。
―――だけど、俺は……。
こんなにも毎日逃げてるのにあいつは懲りずに追い掛けてくるから、もう俺はかなり疲労していた。
日高が俺にしたことさえ忘れてしまいそうになる。
いや、その時は無意識に忘れようとしていたのかもしれない。
逃げることが寂しくて、疲れていて。
だから、思わず逃げ回る自分が可笑しくて、俺は自嘲気味に呟いた。
「なんでこんなに必死に逃げてるんだろうな…?」
「え?」
因幡がきょとんとした顔で聞き返す。そうしてだんだんと怪訝そうな表情へとその顔を変化させていく。
「……だって、日高先輩は美作先輩に酷い事、したじゃないですか」
「あ、…そう、だよな」
そう、間の抜けた返事をした俺。
そんな俺を見て釈然としない様子の因幡を余所に、相変わらず読めない笑顔で日向は口を開く。
三日月みたいな、弧を描きながら。
「ねぇ、逃げてることが不思議に思えたのー?」
「…あぁ」
「あいつがやったこと、覚えてるんだよねー?」
「…忘れるわけ、ないだろ」
「じゃあさー、不思議に思う理由なくない?日高が酷い事してきて、嫌いになったから逃げる。ね?超自然な理論でしょー?」
「……っ」
言葉に詰まって俯く。たしかに俺はあいつに酷い事をされた。だけど、だけど。
俺がたまに生徒会室へ行って、日高にみまっち、とふざけたあだ名で呼ばれていた、あの日々を思い返す。
なんでもない、あの日常はひどく暖かなものじゃなかったのか。
「美作先輩…?」
因幡が伺うように名を呼ぶのが聞こえる。だけど、俺は返事ができない。
代わりに、擦れたような小さな声で日向に返答した。
「嫌いじゃない」と。
その瞬間、俯いていた顔を恐る恐る上げた俺は、日向の笑みが深まり、因幡の顔が驚愕の色に染まるのが見えてしまう。
罰が悪くてそれから目を逸らせば、因幡がガッと俺の肩を掴んで揺らす。
身長が低い因幡がそんなことをすると、俺は大変肩が痛いのだが、因幡の強張った表情を見て、発言は控えておくことに。
因幡は激しく動揺しているようだった。
「み、み、美作先輩!!!!!」
「な、に…?」
「ひ、日高さんのこと…、好きなんですかぁぁぁあぁああ!?」
「………あ」
いきなりの質問に咄嗟に俺は言い返せないで口を無意味に閉口させる。
だって好きって。
俺が、日高を?
呆然とする俺を置き去りに、日向までもどこか納得したように頷いていた。
「…あー、やっぱり。だから、必死で逃げてたんだねー」
「日向、なに言って…」
反射的に口を挟めば、日向は困ったように微笑んで俺にむけて言葉を返す。
「好きだから、遊びで抱かれたことが耐えられなかった。そういうことでしょー?」
「…あ……―――」
日向の言葉に、俺はあの日を思い返してあることに気付く。
合意じゃなかったとか、初めてを奪われたとか、そんなことよりも、なによりも、俺には傷付いた言葉があったんだ。
『なんとなく』の一言が、一番傷付いたんだ。
「そうか…俺、あいつのこと、好きだったのか」
ぼんやりとした、消えてしまいそうなその言葉は、俺の胸を強く締め付ける。
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前門の虎、後門の狼
(この気持ちから逃げられないだなんて、気付きたくなかった)
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