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空にとけた涙

「まるで恋人同士の距離」続編



「なあ敦」

朝練の後、だるそうにしている紫原に氷室は声をかけた。紫原はといえばまだ暑い日差しの下、彼にとってはいささか小さすぎる蛇口の下に頭を突っ込んで、水道水で首を冷やしていた。

「んー、なにー、室ちん」

「名前、ミスコン出場者になったんだって?」

「んー、あー、そーなのー?」

ミッション系の高校である陽泉高校では一年で最大のイベント、文化祭が近づいている。それに紫原の彼女苗字名前は推薦枠による出場が決まっていた。だが、そんなことに興味のない紫原が欠片も知らないのは当たり前。各学年から立候補枠二人、推薦枠一人の三人が三学年、つまり九人で争われる陽泉高校ミスコンは文化祭で一番の花形だ。因みに、氷室の彼女も出場が決まっていて、今年の優勝準優勝は一年コンビではないかと囁かれている。

面倒見が良く、ボーイッシュで綺麗な顔立ちの名前とは対局の可愛らしい見た目に、女の子らしさを付随させた自らの彼女を氷室は思い浮かべて苦笑した。自分の彼女のことを言うのも何だが、彼女達ははなかなかいい線いくと思う。だがしかし、他の男たちが彼女へ向ける視線を想像するだけで氷室はイライラしてしまうのだ。

「敦はそれでいいのか?」

「んー、別にいいんじゃん?名前ちんがやるって言ってんだし」

氷室は一つため息を零した。因みに彼自身はミスターコンの出場者である。上級生、下級生問わず人気な彼の優勝はほぼ確実だが、三年の福井や二年の劉も顔立ちはそれなりに整っているのでまだ優勝第一本命留まりだ。

「敦、本当に知らないのか?」

氷室は眉を寄せた。

「ミスターコンの優勝者とミスコンの優勝者がキスするのがうちの学校の伝統なんだって」

「へぇー」

だが、それを聞いても紫原の反応は対して変わらない。

「敦は名前が他の男とキスしてもいいのか?」

「うーん、決まってんならしょーがないんじゃない?」

キュッと紫原は蛇口を捻った。その時、後ろからガラガラと音がして二人が振り返ると今まさに話題に上がっていた名前がいた。

「あ、すみません。」

さみしそうに彼女は笑って落としてしまったスクイズボトルを拾い上げる。聞かれてしまったのか、と 氷室は自分のタイミングの悪さにため息を零した。

「手伝うよ」

「あ、私は大丈夫です。それより、体育館の方行ってあげてください。」

あの子、待ってましたよ、と笑う彼女は儚げで、美しかった。それに氷室が一瞬ドキリとさせられてしまった不可抗力だろう。美人は悩んでいると更に美人になると言うが、まさにその通りかもしれない。

「そうか、ありがとう。じゃあ俺は行くよ」

こんな二人を残して行くのは少々不安ではあったが、氷室は彼女の言葉に従いその場を去ることにした。


全てのボトルを拾い上げると、名前は口を開いた。

「敦、今までごめんね。」

ボトルを持った腕が、言葉を紡ぐ声が震えていた。いつも気丈で、自分の面倒を見て来てくれた彼女。まるで、母親のようだった彼女。長年幼馴染をやってきた紫原でさえ、そんなところは見たことがなかった。
違う、こんな、こんな顔が見たかったんじゃ、ない。

「もう、自由だよ。好きなところへ、あの子のところへ、行っていいんだよ」

氷室先輩に負けんな、と無理やり名前は笑顔を浮かべ、右手に拳を作って突き出した。

「今まで、ありがとう。もうあたしは敦の幼馴染でもないし、彼女でもない」

ぐっと、唇を噛み締めて名前は込み上げるものを堪えた。今泣くのは、負けた気がしていやだ。

「ばいばい、紫原」

それだけ言って彼女は部室の方へかけて行った。
最後まで、その目に溜まった涙は零れることがなかった。

「なんだし、それ」

彼女の去った水道の前で紫原は呟いた。
確かに、氷室の彼女を可愛いと思った。好きにならなかった、と言ったら嘘になる。けれど、この前二人で喋ってみて、やはり違うと思った。なにか、足りないと思った。

「なんで、痛いんだよ」

心臓が張り裂けそうなほど痛い。
それはきっと、分かっているから。
彼女を傷つけてしまったことも、そしてこのままでは彼女がいなくなってしまうことも…

「ああ、めんどくさい」

一言呟いて、真っ青な空を見上げた。
太陽が、暑い日差しを相変わらず降り注いでいた。




空にとけた涙


胸の奥が焼けるように痛かった。
でも、失うのは、もっと痛い気がした。
紫原は伸ばせなかった右手を握りしめた。


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