真っ白な部屋
「ただいまー」
総司が自宅の玄関に辿り着いたのは7時半ごろだった。彼方此方の家から夕飯の香りが立ち込めていたが、総司の家も例外ではなかった。
「おかえり!!」
彼と同じ猫っ毛の髪はをポニーテールにまとめた優梨がちょこん、と顔を出した。くるんと波打つすこし色素の薄い髪はまるで計算しつくされたもののようであるが、これは天然のものである。天然パーマと言えばその持ち主に嫌がられるものだが、この髪の持ち主はそれをコンプレックスと思ったことなどなかった。
「お風呂入ってきて。あと15分でご飯できるよ」
高すぎず、低すぎない丁度良い声に安心感を覚えた。
総司の両親は共働きでかつどちらも単身赴任中だ。家に帰ってくるのは三が日だけという生活ももう当たり前になっている。
年の離れた姉は昨年嫁に行って、割と近場に住んではいるものの様子を見に来るのは多くて週に2、3回。仕事もあるから、忙しい時は二週間ほど来ない時もある。それでも、二人が上手く互いの面倒をみあっているから大人たちも安心していた。総司の胸の内を知っているものは誰もいなかった。
「あ、それ…」
総司の目が止まったのは彼女のつけているエプロンだった。それは彼女の誕生日に彼が贈ったものである。淡い黄色の小さな花を沢山あしらったそれは、彼女によく似合っていた。
「お兄ちゃんがくれたやつ!!ちゃんと使ってるよ?似合う?」
ニコニコと効果音が聞こえてきそうなほど笑う優梨に吊られて、総司もまた笑顔になる。15歳の彼女。自分とは凡そ1歳半ほどしか変わらない、まだ少女の域を脱していない彼女。それでも、男心をくすぐるには充分な仕草と笑顔。ドクリ、と音を立て首をもたげ始めた感情に気が付かぬフリをして総司は笑顔のまま頷いた。
「うん、やっぱり僕の目に狂いはないね。よく似合うよ」
時々からかったりおちょくることもあるが、基本的に総司は彼女をべったべたに甘やかす。揶揄いやおちょくるのも全て愛情の裏返しでしかない。甘やかされている優梨はといえば、時々不満をこぼしながらも兄に甘えていた。今も少し恥ずかしそうにはにかんでいるが、嫌がっている訳では決してない。
「ありがと、お兄ちゃん」
ずくり、と心臓が痛む。
つい今し方までその笑顔に癒されていたというのに、幸せをもらっていたというのに、それが少し残酷なものに思えた。
『お兄ちゃん』
その響きを聞くたびに、怪我をした箇所から血が流れるように心臓が疼いて痛い。
恋は人を幸せにすると、誰かが言った。
確かにその通りだと思う。けれど、総司は思うのだ。
この恋は幸せになるよりも、辛くなることの方が多いだろうと。
叶わないと分かっている片想いは続けても苦しいだけだと頭は分かっている。実際、何度も諦めようとしたのだ。けれど諦められなかった。毎日一緒にいて諦めることなどできなかった。
「そうそう、今日はねデザートがあるの。早くお風呂入ってきてね。」
太陽の笑顔で彼女はキッチンに戻っていく。けれど、キッチンに戻ると彼女の表情は暗くなった。今まで、兄に対する違和感を感じなかったわけではなかった。甘やかされすぎだと思わないでもなかったし、普通の兄妹より仲が良いことはわかっていた。それを嫌だと思ったことはないし、このままいたいと思う。その反面、兄が時々固まるのだ。原因は分からない。何故か兄の顔から表情が消えてしまうのだ。どうしたの、と昔聞いたことがあったが兄ははぐらかして教えてくれなかった。
(私、何かしちゃったのかな)
カレーを煮込みながら彼女は考える。総司の変化に聡い優梨ではあったが、その原因に気が付けるほど恋愛経験が豊富ではなかった。むしろ兄の邪魔(された本人は邪魔とは認識していない)のおかげで恋愛経験は皆無と言っていいほどだ。これが総司にとって幸か不幸かは微妙なところだ。
(でも、最近多い気がする。やっぱり聞いてみなきゃ。)
2人分のカレーとサラダとスープを盛りつければ、丁度総司が風呂から上がってきたようだ。髪の毛がまだ水気を含んでいる。
かっこいい。
自分の兄でありながら、総司のことをかっこいいと優梨は思っていた。小さい頃からずっとそばにいて優梨を守ってくれた兄。スポーツも勉強もなんでもこなせてしまう兄。いつも笑ってくれる優しい兄。
ずっとそばにいてほしいと思う。兄にずっと甘やかされていたいと思う。
だからこそ、一瞬無表情になるあの瞬間の理由を知りたかった。
いただきますと二人で手を合わせてしばらくは他愛のない会話が続いた。
優梨がクラスのことを話し、総司が部活のことを話す。
「そうそう、はじめくんがさあ…」
はじめくん、という言葉にピクリと彼女の肩が跳ねる。
みるみるうちに、その顔に熱がともり、ほんのりと頬が赤くなる。
その瞬間に、総司は悟ってしまった。
そういえば、前々から彼女は斎藤の元へ行くことが多かった。
ただ、懐いているだけだと思っていた。
決して恋愛に疎い総司ではないけれど、彼と彼女の接点を作ってしまったのは紛れもなく総司自身だった。
(何、その顔…)
総司は頭の中が真っ白になると同時に、腹の中がどす黒い何かに支配されていく感覚を覚えた。
無表情になった彼を心配そうに見ている優梨の視線にも気が付けなかった。
真っ白な部屋世界から、色がなくなった気がした。
何を話したか分からない。
心配する適当な事を言って、総司は食卓を後にした。
彼女に好きな奴ができるなんて、考えていなかった訳じゃない。ただ、心構えが出来ていなかった。
あまりにも、早すぎた。
一人、部屋で唇を噛む。
「くそっ…」
どうしようもなくなって吐き出された言葉はモノクロの部屋に消えていった。