土方さんと別れてひと月、経った。 「芹沢理事長、夕方近藤社長との会食がありますので、今この資料に目を通しておいていただけますか?」 「そこに置いておけ」 「いえ、今この場でお願いします。」 月に二度、芹沢理事長と近藤社長は会食をする。最初の会食の時は近藤社長は資料を私に送ってくれるのでそれを印刷して芹沢理事長に見せればいいのだが、これが案外面倒くさい。芹沢理事長がそこに置いておけと言った資料は必ずと言っていいほど彼の目に入っていないのだ。特に、近藤社長絡みのものは… 「重要なデータです。今回はどうしても芹沢理事長のご意見を伺いたい、と近藤社長がおっしゃっておられました。」 「ふん、どうでもよいわ。どうせ俺が意見せずとも土方あたりが勝手にするだろう。」 「いいえ、近藤社長が聞きたい意見は芹沢理事長の意見です。」 「貴様、随分と生意気だな」 「前の上司が鬼だったもので」 最初の頃は思い出すことすら辛過ぎたものの、今では軽口を叩けるまでに成長した。 あの後、総司には全部話した。 泣いて、苦しくて、過呼吸持ちのせいで何度も過呼吸になって、それでも総司は私の話を聞いてくれた。人を慰めるのは得意じゃないのに、ビニール袋を片手に精一杯私の背を撫でてくれた。 「夏紀、よく頑張ったね」 総司のその一言にとても救われた。 そのおかげで今こうしていられるのだと思う。 「もしどうしても読みたくないとおっしゃられるなら、僭越ながら私が資料を音読してさしあげますが…」 そこまで言うと、芹沢理事長は私の手から資料を奪って目を通し始めた。それを見届けてから、理事長室を後にしようとしたところで、一つ忘れ物をしていたことに気付いて足を止めた。 「それから、ご伝言をお預かりしております。」 「誰からだ?」 「『会食が終わったら早く帰ってきてくださいね』だそうです。」 理事長を出てため息をこぼした。女癖が荒い、というのは彼の若かりし頃の話らしく、今は奥さんのお梅さんにゾッコンらしい。今年三歳になる娘さんもいるのだとか。 だが、酒癖の悪さと人使いの荒さは事実で、この一ヶ月何度仕事に殺されると思ったか分からない。へーへーいいながら出勤して、死にそうになりながら帰る日々が続いた。けれど、限界を見極めることはできるらしく、本当にヤバイ時はちゃんと休みをくれる。 「今の貴様の顔は見れたものではないわ」と言って帰された日もあったっけ。その翌日は血を吐く思いで仕事をする羽目になったが… けれど芹沢理事長が仕事を与えてくれた(もとい押し付けてくれた)おかげで余計なことを考えずにいられるのだとも思う。もし、仕事も何もしていなければきっと身を裂かれるくらい辛かったと思うから。 こうして、少しずつ忘れていけるのかな、と思うと悲しくて、でも少し心が軽くなった。 そうなるはずだったなのに… 「すみません、本日山南くんはどうしても外せない用事が入ってしまいまして」 そう言って近藤社長が連れてきたのは、漆黒の髪に紫紺の瞳の彼。 ひゅっ、と音がして息が止まった。 「土方か。久しぶりだな」 「あんたも元気そうだな」 そんな嫌味のこもった二人の挨拶なんて全く耳に入っておらず、私はただ呼吸を落ち着ける事に専念していた。 「すまないね、唐沢くん」 近藤社長が申し訳なさそうに私に囁いた。 どこからその話を入手したのか… いや、社内ではもう衆知のことか… 「…いえ、終わったことですし。それに仕事ですから。」 大きく一つ息を吐いた。 もう、大丈夫。吹っ切れたのだから… 最初こそ過呼吸になりかけたものの、その後の会食は順調に進んだ。 「では、この件は風間コーポレーションと手を組むということでよろしいですかな?」 「ふん、好きにしろ」 途中ハラハラする場面もあったが、話し合いは上手く纏まった。とりあえず、一安心だ。 「それでは芹沢理事長、そろそろ…」 「ところで芹沢さん、場所を変えて一杯どうですかな」 早くこの場から立ち去りたい、そんな思いに反するかのように近藤さんから提案がなされた。 すると、芹沢理事長は私を見てニヤリと笑った。 「そうだな、近藤くんと二人なら悪くない」 こいつ、オッホン、芹沢理事長、絶対分かっててやっているな。きっとさっき無理やり書類を読ませた腹いせだろう。ああ、腹立たしいったら… 「では我々はもう一軒行くから先に行くよ。唐沢くん、トシ、今日はもう帰りなさい。」 笑顔で私たちに手を振る近藤さんは分かっていてやっているのだろうか?それとも、何も知らないのだろうか?いや、さっき謝ってきたんだから知らないはずはないのだ。 「お疲れ様でした」 出口で近藤さんと芹沢理事長を見送って土方さんに一礼した。 「私、電車ですのでお先に失礼致します。」 正直、これ以上は限界だった。荒くなりそうな呼吸を押さえつけるので手一杯で、一言告げて帰ろうとした。 「待て」 左手を少し体温の低い手に包まれた。 「あ、の…何か?」 「送る。乗れ。」 有無を言わせず左手を引かれた。そのまま引きずられるようにして駐車場へと連れて行かれる。 頭の中で警鐘がなった。 ダメだ… 今着いていったら、絶対また諦められなくなる。 「ひ、土方さんっ、あの、私自分で帰れますっ」 そう言ったけれど、彼は全く聞く耳を持たない。 いっそ手を振り払ってしまおうか、そうだ、出来ないほど強く握られている訳ではない。なのに… 振りほどけない。 あんなに苦しんだのに… 今だって呼吸は苦しいのに、なんで… なんでこの手を振りほどけないの? 今ついて行けば、また苦しくなるだけなのに… 結局無理やり車に乗せられ、揺られること二十分。どうやら最寄り駅ではなく家まで送ってくれるらしい。二人の間に会話はなく、その沈黙が重かった。 窓の外を景色が流れていく。 あ、あの信号。この長い信号の待ち時間にいつもキスしてたっけ。あ、あのコンビニ、いつも土方さんが帰りに寄っていたコンビニだ。あの道の一本裏の道は、確か珍しく電車で出かけた時に送ってもらって、その時に通ったっけ。 浮かんでくる思い出は苦しいような、幸せなような思い出で… 胸が苦しくて… ひゅっと、喉が鳴った。 限界はとっくに超えていた。 「はっ、はっ、はっ」 一気に呼吸が跳ね上がる。 「おい、どうした?」 落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ… ゆっくり呼吸しなきゃ… ゆっくり、ゆっくり… あ、ダメ。止まらない… どうしよう 苦しい、苦しい。 たすけて。 不意に、ぐいっと引き寄せられた。顔を上げさせられて、気がつけば土方さんの綺麗な顔が目の前にあった。 「んんっ、んむ」 荒々しくて、優しいキス。 口を塞がれたことにより体の中に入り過ぎた酸素が少しずつ元の量へ戻っていく。呼吸も、それに伴い落ち着いていった。 「大丈夫か?」 唇が離れて彼が問う。 「はっ、はい、だいじょう、ぶです。」 そうして初めて気が付いた。 車が止められていることに。 私の手を、彼が握りしめていることに… 「すみません」 「いや、謝るのはこっちの方だ。悪かったな、夏紀」 なんで、なんでこんな時にそんな声で私の名前を呼ぶの… やめて、やめて… 「散々振り回して、傷つけた。」 やめて、言わないで。 「いいんです、私が望んだんですから。だから、だから…」 その先を言わないで。 ごめんなんていらない。ひどいなんて思ってない。全部私のわがままだったから。なのに、謝られたら、全部否定されるみたいじゃないか。私と貴方の幸せな思い出までも… 「それでも、だ。聞いて欲しい。」 まっすぐな土方さんの目。 その目が、私をとらえて離さないのだ。 ああ、逆らえない。 ぎゅっと目を瞑った。 怖かった。 「好きだ」 予想していない言葉が閉ざされた空間に響いた。 「え...?」 「情けねえよな。雪村に失恋してから二年も経つってのにずっと引きずって。だが、お前と一ヶ月真剣に過ごして雪村のことを段々妹のように見えるようになった。総司に殴られるまで、お前がいなくなっちまうまで分からなかった。」 いつもより土方さんは饒舌だった。 総司、確かに笑って土方さん殴ってこようかな、なんて言ってたけど、本当にやったんだ、なんて相変わらず場違いなことを考えた。 「遅くなっちまって、悪かった」 場違いなことを考えていたはずなのに、彼の瞳に射抜かれて、動くことすらできない中、頬が濡れていた。 涙。 そっか、私、泣いてるんだ。 「沢山礼を言わなきゃなんねえし、謝らなきゃなんねえ。けどその前に言っておかなきゃなんねえだろ」 もう一度、彼が優しく微笑んで愛を口にした。 さようならの時間だね 辛く悲しい片想い。 「彼らは、上手くいきますかなあ」 バーでカクテルを持った男が呟いた。 すると、赤ワインを煽った隣の男は不敵に口元を歪めた。 「そうならなかったら土方はクビだ。」 クビ、ですかと男は苦笑してカクテルを口に含んだ。 それは二人が暗い車の中で抱き合っていた頃のお話。 完 戻る |