プリズム | ナノ

放課後、星野と大気は僕をおいて例の音楽室に先に行ってしまった。起こしてくれてもいいのに、と一人愚痴る。溜め息を吐いて窓の外をみると、汗を流して必死にボールを折っているサッカー部やスクワットをしてるバスケ部、野球部や陸上部がグラウンドを走り回っていた。
暑苦しい。一体何が楽しいのか、理解できない。したくないけど。
僕は机の横に掛けた鞄を取り浅く息を吐きながら席を立って誰もいない図書室を出た。


この学校は無駄に広い。
長い渡り廊下を歩いて四階まで続く階段を上る。
音楽室はA棟とC棟の二箇所に設置されている。僕がいるのはC棟の第一音楽室付近だけど、ドラムの音は聞こえないから吹奏楽部の部室はきっとA棟の第二音楽室の方なんだろう。今から第二音楽室まで行くのも面倒くさいし帰ろうと上ってきた階段を下りようとした時、かすかに優しい音色が聞こえた。
透き通るような音に、まるで催眠術にでもかかったかのように自然と体がその音がする方へ動き出していた。ピタリ、と足が止まった先に見えるのは第一音楽室の重い扉だった。
ゆっくりと、春の暖かな風のように澄んだ音色が奏でるその曲は僕たちが地球に来てからずっと叫んできた、あの方に宛てたメッセージだった。
僕は冷たいドアノブに手を掛け、音をたてないようにそっと扉を開くと、音楽室独特の香りが鼻腔を擽った。最初に僕を迎えてくれたのは壁に貼られた有名なのかよくわからない厳つい顔をしたどこかの偉人達だった。何度見てもこの肖像画を飾る人の気が知れないと思う。肖像画から目を反らし、旋律に促されるように暮れかけた日が差す音楽室の真ん中に視線を向けた。逆光で目を細めた僕の瞳に映ったのは、淡い光の中穏やかな表情を浮かべピアノを弾いている碧の姿だった。斜め後ろにいる僕に普通なら気付くはずなのに、彼女はピアノに集中しているのか全く気づく気配はなかった。
音楽室に響く清からな水の流れのような優しく切ない音色。碧の白く細い形の綺麗な指が草原を撫ぜるように滑らかな旋律を奏でる。目を閉じて音を紡ぐ碧は気持ちよさそうで、楽しそうだった。
暫くピアノを弾く彼女の姿をぼんやりと眺めていたけれど、刹那、ふと見せた切な気な横顔に心臓が大きく脈打った。碧のそんな表情を見たのは初めてだった。何時も笑ったり困ったり、感情を素直に表に出すから今何を考えてるかなんて手に取るように解るのに、どうしてか今は彼女の事が全く解らないと感じた。

「……碧…」

手を伸ばせば触れられる、こんなにもすぐ近くにいるのに届かない。その横顔がいつもと違って儚く感じて、いつか…消えてしまうんじゃないかと、何故かそう思った。僕は無意識に手を握り締めていた。

「……、何その演奏」
「!?や、夜天くん…いつ来たの?」

胸にわきあがった焦燥感を抑えられなかった僕は思わず声を掛けていた。どうして、僕らしくない。声をかけた後で少しの後悔が押し寄せた。
肩を震わせ振り向いた碧は目を見開いて吃驚していた。目を丸くしてその瞳に僕を映す彼女を見て何故か安堵した僕がいた。

「足りないでしょ。」
「え?」
「歌ってあげる」
「ど、どうしたの夜天くん?!」

何でこんなこと言ったのか僕だってわからない。だけど碧の柔らかい旋律で歌ってみたい、って思ったんだ。僕の言葉に慌てる碧は滑稽で、やっぱりいつもの彼女だと思った。

「何?その顔。文句あるの?」
「や、文句じゃなくて…」
「じゃあ早く弾いて」
「う…うん!」

躊躇いがちに出た音は、だんだん、はっきりと澄んだ旋律になり、歌声はその旋律にぴったりと調和した。碧のピアノで歌う歌は煌びやかなステージで歌うよりもずっと気持ち良くて、穏やかな気持ちになった。

「届いたらいいね。」

ピアノを弾きながら碧は優しい笑みを浮かべて言った。

「….そうだね。」

いつもより素直になれたのは彼女が心の底からそう思ってくれている事が伝わったから。
ただそれだけ。