プリズム | ナノ


「どこだ……ここ。」

遡ること30分前。
チケットを片手に私服に着替えてメイクして髪くくって、陽気に階段降りてパンプスに履き替えて大きな声で行ってきまーす!とリビングで紅茶を飲みながら料理雑誌を見ていた母の背に声をかけた。鞄から取り出した鍵で戸締りをすると踵を返し、バス停まで歩く。歩調は軽やか。ちょうどタイミングよく来ていたバスに駆け込み乗車して電子時計を確認した。まだまだ時間に余裕がある。小さく息を吐き座席に座り流れる景色を横目に、ふ、と南にスリーライツのアルバムを貸してもらい急いで取り込んだもののまだ聴いてなかったな、と思い立ちイヤホンを耳に着けた。流れる音楽が心地よく耳に響く。暫くしてそういえば、とチケットを取り出して目的地を確認し、バスの停車表を見上げた。次の瞬間あたしは全身が、さーっと冷たくなる感覚に襲われた。



「ヤバイ。ヤバイよ。どうしよう。ここどこ!」

間違ったことに気付いて咄嗟に降りたバス停でうろちょろしてみたけど、どうにもならなかった。次のバスが来るまで45分も待つことになる。歩いて向かうにも土地勘のない場所のせいでどちらに行けば目的地にたどり着くのかも分からなかった。とにかく南に電話しよう!とケータイを手に取ると、充電切れ。充電切れのケータイなんて使い物にならない。どうして充電しなかったんだろう、と数十分前の自分を恨みつつあたしは再びポケットにケータイを入れ直した。

「どうしよう…うああ〜誰か助けて〜」

なんて言ってみたってこんな閑静な住宅街にあるバス停なんかに誰が来るっていうんだか…。あたしは踞ってこれからどうしようかあんまり良くない頭で考えた。
そういえばもうライヴ始まってるのかな…あたしは空を見上げた。西の空がどんどん茜色に染まっていく。一体今何時なんだろう。ケータイが使えないせいで時間がわからない。でも夜までやるってことがまだ救いだなと思う。まだ夕方だし…夜までにはなんとか…なる、はず。

「はぁー…」
「碧?」
「ん?」



ライヴ会場の前にはたくさんの女の子が集まっていた。どうやら間に合ったらしい。張り切って家を出た時間が無駄に早かったしな、と改めて思う。だからバスを乗り間違えて途方に暮れていてもなんとか間に合ったんだ。ちら、と右隣に座る栗色の髪の人物を盗み見た。中性的な端正な顔立ちの女の人の名前は天王はるかさんいう。南やうさぎちゃん繋がりで中学生の頃に知り合ってからたまに会ったりする仲なのだ。
先程知り合いが誰も通りかからないバス停で一人途方に暮れて踞っていたあたしを偶々見つけてくれて、半泣きになりながらも事情を説明するとクスクス笑いながら送ってあげる。と言われたのでお言葉に甘えて目的地まではるかさんの愛車で連れてきてもらった。
そこで全く逆方向に向かうバスに乗っていたということをはるかさんに知らされ、乾いた笑いを漏らしながら方向音痴の自分を呪った。

「それにしても、碧がアイドルのライヴなんて珍しいな。」
「今回は南に誘われたんですよ。」

はるかさんは納得したように笑った。はるかさんはよく、まるで恋人のような仲の良さで有名な優雅で気品溢れる美女のみちるさんとドライブをしているけれど、彼女の気持ち良さそうな横顔を見ていると本当に車が好きなのだな、と感じる。緩やかにブレーキを踏み、ゆっくりと路側帯に車が停車した。

「あ、」

南に連絡を取れないことに今更ながらに気付いたあたしは周りをキョロキョロと見回した。あたしが遅いから南も今頃探している…はず。きっと充電の切れているあたしのケータイに電話をかけてくれただろうと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「今度はどうしたんだ?」
「え!ええっと…ケータイ充電切れちゃって南に連絡つかなくて……」
「何だ、そんなことか。南なら彼処に…ほら。」
「え?」

はるかさんが視線を向けている方を追うと、丁度こちらに気付いた南が何かを叫びながら走って来た。
あたしとはるかさんは二人で顔を見合わせて笑った。

「じゃあ、僕はもう行くよ。」
「あ、はい!はるかさん!本当にありがとうございました!!!」

慌てて頭を下げるとくしゃりと髪を撫でられた。
はるかさんはスポーツカーに乗り込むと、あたしに向かって優しく微笑み、颯爽と去って行った。どんどん遠ざかって行くはるかさんの乗った車を見送っていると、突然肩を掴まれて吃驚して振り返ると少し息を乱している南がいた。

「さっき、はるかいたよね?」
「う、うん、いたよ。迷ってたところを丁度はるかさんが通りかかって、此処まで送ってもらったの。」
「そうなんだ…って迷ったの?!!」
「あはは……うん。」

南は盛大な溜め息を吐いた。
ケータイは?とも聞かれたけど充電切れてると答えれば、南は本日二度目の大きな溜め息を吐いた。

「それより、時間大丈夫?」
「あ、そうだ!もう開場だって、早く行くわよ!」

南は思い出したように言うと先に歩き出した。けれど突然ピタリと立ち止まり、体ごと振り向いてツカツカとあたしに近付いてくると腕を掴んであたしをひっぱりながら再び会場へ向って歩き出した。
さすがにもう迷子にはならないよ!と心の中で叫んだことは内緒にしておこう。