プリズム | ナノ






温かな平穏が二人を包んでいた日々は嵐の前の静けさのようだった。すれ違っていた時間を互いに埋めるように、二人は何時だって一緒に過ごした。ソールが好きだと言った背の低い草が広がる庭も、いつしかウラヌスも好きになっていた。正確には彼女がいる庭が好きなのだが。ソールがいない日々にはもう戻れないのだろうとウラヌスは感じていた。しかしそれはソールも同じだった。ウラヌスがいなくなれば自身の存在意義は無いも同然だと、彼女は思っていた。互いが互いをなくてはならない存在だと、肌を重ねる毎に強くなっていった。

 その日もいつもと変わらない穏やかな朝が来ると信じていた。しかし平穏は荒れ狂う風の唸り声によって奪われた。
「ウラヌス!!」
短剣を手にし今にも城を飛び出そうとしていたウラヌスの背に声が掛かった。
「ソール!どうして部屋から」
「ウラヌス、行かないで!お願い!」
ソールはウラヌスの手をきつく握りしめた。泣き出してしまいそうな彼女の瞳に見つめられたウラヌスは心臓を締め付けられるような苦しさを感じた。喉を見えない手で絞められるような苦しさで上手く呼吸が出来ない。震えるソールの体を今すぐにでもこの腕の中に閉じ込めてしまいたい、しかしウラヌスは奥歯を噛み締めそっとソールの手を退けた。
「…これは僕の使命だ。」
「ウラ…ヌス」
「必ず戻るから、ソールは城の中で待っててくれ。」
額に落とされた優しいキス。少女の伸ばした手は届く事はなく、風のように走って行く彼女の後ろ姿をただ見守るしか出来ない。ソールは暫くその場を離れられずにいたがウラヌスの言い付けを守り部屋に戻った。窓から見える暗黒を前に少女はきつく手を握りしめ祈った。ウラヌスが無事でありますように。


 どれ程時間がたっただろうか。この部屋に時計は無く唯一時を教えてくれる空は暗黒に染まっている。もう夜中だろうか。ソールは寝ることもなくずっと祈りを捧げていた。
「ウラヌス…」
彼女の名前を呟いた時、ずっと感じていた彼女の星の輝きが薄れたのを感じ、ソールは心臓を冷たい手で握り締められる感覚に陥った。血の気が引く。少女はいてもたってもいられず言い付けを破り城を飛び出した。走っている間にもウラヌスの輝きが消えてゆく。ごうごうと唸り地面を砕き巻き上げる黒い嵐がソールの行く手を阻むが、少女は歩みを止めなかった。こうしている間にもウラヌスの星の輝きが消えてゆく。そう思うと止まって等いられなかった。星の輝きの消失、それは死を意味している。ソールは体を鎌鼬で何度も切られ血を流しても決して諦めなかった。ウラヌスを助けたい、ウラヌスを独りにしない。その思いが少女を駆り立てた。しかし、血を流し過ぎた少女は血の気の失せた真っ青な顔を苦痛に歪めとうとう膝をついてしまった。霞む視界、荒い呼吸、力の入らない四肢。ソールは初めて死というものに直面した。自分の意思とは反して意識はどんどんと落ちて行った。
風の唸り声が止んだ。静まり返った大地は削られ罅が走っている。少女が愛した緑はもう何処にも見当たらない荒野が広がっていた。地に横たわる少女はその時閉じかけた瞳に探し求めた人物を映した。
「ウ、…ラ、ヌ…ス」
死を受け入れようとしていた自分を叱咤し、ふらふらと力の入らない体を無理矢理立たせたソールは何度も倒れ、その度に立ち上がり一歩、また一歩と重い足を引きずり漸く少女の愛した彼女の元へたどり着いた。
「、ウ、ラヌ……ス」
触れた頬は冷たかった。ソールは傷付き横たわるウラヌスの唇に自身のそれを重ねた。
「ごめ、ん…ね…」
ソールは透明な涙を流して地面へと倒れ込んだ。命の終わりが来たのだと悟った少女は、最期に一つだけ強く願った。
どうかウラヌスが独りに耐える事がないように、彼女の孤独を癒す人が側にいてくれますように…。

 銀色の光に包まれた少女の身体からまるで水面に広がる波紋のように荒れ果てた大地に光が渡ると荒野に緑が再生し瞬く間に一面の草原が広がった。穏やかに吹く風が草原を撫でて走る。緑の波に沈む二人の姿はもう見えない。月のない夜、その星は一夜だけの奇跡を見せた。