6.ぼくより愛を知る母子草

「あ、おはよー瑛姉」

まるで偶然通りかかった知り合いみたいな態度に白瑛は戸惑った。彼女が戸惑うのも当然である。ここは白瑛の部屋の前で、今は夜明け前なのだから。目の前の義妹が夜着を着ているという事実がまた白瑛の混乱を加速させた。見張りの一人と目が合ったのだが、彼女も無言で首を振った。

「朝ご飯食べた?」
「あ、ええ、部屋で摂りましたが、」
「そうかそうか。じゃあ行こ!」
「行くって、どこに?」
「何言ってるのさ、瑛姉は今からバルバッド国境に移動でしょ?」
「それはそうですが……紅燭はどうしてここに?」
「瑛姉の見送り!瑛姉だけ別れの挨拶してなかったもんね!」
「……その格好で?」
「これ着てるから大丈夫!」

と、紅燭は肩にかけた羽織りを両手で前に集め、自慢げに胸を張ってみせた。白瑛は頭を抱えた。

「紅燭、あなたももう年頃の女性なんですから……」
「瑛姉ー遅れちゃうよー」

いつの間にか随分廊下を進んでいた紅燭が元気いっぱいに手を振っている。どうやら苦言は聞こえなかったらしいと嘆息して、白瑛も歩き出した。
追い付いた先の少女は満足気に笑うと何も言わず歩を進めていくので、自分が諦めるところまで計算づくだったのではないかと、ふと思い及ぶ。――おそらく、すべて錯覚なのだろうけれど。

「…それにしても意外ですね」
「ん〜?」
「てっきり私、紅燭は『瑛姉も行くなんてずるい!』と言い出すかと思ってました」
「その癇癪はとっくに喉元を過ぎたよ」
「あるにはあったんですね……」
「なかったら私は今ここにはいない」
「まさか昨日まで口の中だったんですか」

「ううん、飲み込んだのは一昨日!」紅燭は羽織をはためかせてくるりと回った。良くも悪くも大人になってしまった白瑛には、その身軽さが羨ましい。

「でもちょうどその頃、怒りを紛らわすために没頭してた研究が完成間近になってね。昨夜まで働き詰めだったんだ。遅れてごめんね、瑛姉」
「いいえ。見送りしてくれるだけで私は嬉しいですよ」

それは白瑛の心からの言葉だった。前皇帝の長女と、現皇帝の長女。決して取れない確執があってもおかしくない関係であるにもかかわらず、こうして気楽に話ができるのは、紅燭が歩み寄ってくれるからなのだと彼女は確信していた。

地位や権力、果ては玉座に興味のない自分が皇族として異端だと自覚しているが、目の前の少女も負けず劣らず異端な存在だと白瑛は思う。大切な兄弟を自らの特等席に置くことに関しても、白瑛と紅燭はよく似ていた。

「さすがにこの格好で人前に出るのはまずいかー……」

回廊に差し掛かった辺りで紅燭が呟いた。いくら常識外れの彼女でもそれだけの分別はあったらしい。
白瑛はほっと息を吐いて、言葉で褒める代わりに紅燭の頭を撫でる。すると気持ちよさそうに目を細めて白瑛に擦り寄ってくるので、第二皇女が第一皇女にこんな態度をとれるのはきっと煌帝国だけだろうと、そう思うと笑いが零れた。

「……誰か来そうだね」

暫く微睡んでいた紅燭が人の気配に目を開いた。白瑛の手を優しく退かし、離そうとして逡巡した後、ぎゅっと大切そうに握ってから白瑛自身に突き返す。

一歩下がって膝をつき、拱手。

「白瑛姉様。どうかご無事で」

――ああ、本当に、

本当に、自分には勿体ない妹だと思うのだ。

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