企画 | ナノ
僕の知らない君は

ローマの地面に敷き詰められた石畳みが峻烈な陽射しを反射して輝く。カンポ・デ・フィオーリ広場。つい600年前まで広大な花畑だったその広場は、衆人賑わう市場へと姿を変えていた。朝の市場を彩るは瑞々しいトマトやフルーツジェラート。現在(いま)は栄華に耽る広場にも、ふと鼻筋に触れるのはどこか懐かしい花の香り。だからか、涼しげな格好でパイプテントの影を踏む彼らの足取りは軽やかだ。

大袈裟な麦わら帽子を被り、店を冷やかし歩くその男も骨ばった手足をさらけ出していた。両の口端を大きく釣り上げ、隣の友人の肩を叩いて囁く。内緒話のようにこっそり告げられた言葉に、彼は整った眉を僅かに寄せた。

「尾けられてる」

束の間のアイコンタクト。強ばった顔を戻した男が踏み出す。なんの変わらない調子で路地裏に向かう彼の長い金髪を、麦わら帽子の男はニヤニヤと笑いながら追いかけていく。

――何も知らず探っているのならただの阿呆。彼の正体を知って付いてきているのなら、それも阿呆と断ずる他ない。

正義という言葉が仕事終わりに自宅で飲むワインより好きな彼の性格を、男はよく知っている。

「おい、まだか」

金髪の男が麦わら帽子の男の後ろに付き、聞いた。
「まだまだ」答える男の笑みは揺るがない。傍から見れば麦わら帽子の男が友人をどこかに案内しているような会話である。まだか――まだ、振り向いてはいけないのか。まだまだ――振り向いてはいけないよ。

狭い路地の角を何度か曲がり、金髪の男が焦れたそうに足を早め、また緩めた。背後を見てしまいそうなのを耐える。

「まさか見失ってないだろうな」
「いや、着いたよ」

そうか、と口端を上げて数歩。カツ、彼の靴底が高く鳴ると同時、彼らは動き出した。金髪の男が追跡者に迫り、その背から飛び出した麦わら帽子の男が追跡者の逃げ道を塞ぎに走る。金髪の男の手が追跡者の腕を掴み、捻りあげようとして、動きを止めた。その目に映るは動揺。なぜなら掴んだ腕があまりに細く、彼女があまりに、幼かったから。

「君は、誰だ」

額に一筋汗を浮かべ、少女は掴まれた腕を見下ろしていた。少しだけ息が荒い。その小さな頭がゆっくりと持ち上げられ、男を見る。大きな瞳だ。いつか、小さな島国で見た花の色。

男の手を振り解こうともせず、少女はただ首を傾げる。この手はなんですか、と問うように。無警戒な彼女の態度が男の手を無意識に緩ませた。だから男は手に込める力を更に強め、端正な顔を歪ませて少女を睨む。

「先に答えてもらおう。君の正体、君が私を追いかけていた、目的をな」

言葉を紡ぐ途中で、頭を覆う黒髪に気が付いた。正確には、黒髪の彼女がイタリア国民ではなく、更にイタリア語を話せない可能性の大きさに男は気が付いた。
男の唇が開き、閉じる。一連の様子を見ていたもう一人が見かねたように口を開き――次いで路地に落ちた音が、彼らの懸念が杞憂に終わったことを示していた。

「必要、ない」

言葉を覚えたての幼児のように辿々しく。しかしきっぱりと拒絶の意を唱えた彼女は、男たちが猜疑心を抱くより先に、右手に持ったそれを差し出す。

「これは……」

ハンカチだ。それも、男にとって、非常に見覚えのあるものだった。少しだけ砂のついたそれは、しかしシワひとつなく角をぴったりと合わせ折り畳まれている。それもそうだ、お気に入りの店で一目惚れをし、購入したあとも男が毎日手ずからアイロンがけをしているのだから。状況を瞬時に理解した男の額に冷たい汗が浮かぶ。市場から息を切らして追いかけてきた女の子が、男のハンカチを渡してくる。それはもう、この場においての解そのものでしかなかった。普段にやけ顔を崩さない後ろの彼が、珍しく冷めた眼で己の数少ない友人を見ているのを背中に感じる。

「ま、待ってくれ」

用は済んだとばかりに、何も言わず立ち去ろうとする彼女を男が呼び止めたのは咄嗟の行動だった。(おおやけ)の仮面が剥がれ、(わたくし)を宿らせた彼が、振り向く少女に伝えるべき言葉を探る。その様子は、見ていた男の黒髪の下に“にやけ顔”を回帰させた。――ぼかぁね、君の、そんな愚直なところが好きだよ、アーサー。そう言いたげに。

「まずは謝らせてくれ。手荒な真似をした」

言葉が伝わったのか男にはわからない。ただ少女が体の正面を男に向けたから、敵意がないことは伝わったのだろう。

「ひいては君に詫びをしたいのだが、少々付き合ってくれないか?それに、」

「手当も、させてほしい」ぼうっとしたような顔が手首を見下ろす。そこには途切れなく赤い輪が嵌っていて、時間が経てば赤紫色に変色することが見込められた。
何やら考え込んでいた少女が視線を持ち上げる。小さく、しかし確実に頷くのを認めて、アーサーはほっと息を吐いた。









麦わら帽子の男――ルーイン・ライトが湿布を買いに薬局へ行く間に、アーサーは少女を連れて近くの喫茶に入った。すんなり耳に馴染む音楽。少しの話し声と食器の音。落ち着いた色の壁紙と家具。珈琲豆の芳醇な香り。なかなか好みの店だ。

そういえば朝食がまだだったな、と、思い出せば腹が空くのだから不思議なものだ。

「好きなものを頼んでくれ」

2人の座るテーブル席にバリスタが来て注文を聞く。アーサーが注文を並べ、バリスタがそれに頷くぎりぎりまでメニューの看板と睨めっこする子供らしい少女の姿は、アーサーの心を和ませた。

「ここまで連れてきた私が言うのも何だが、君のご両親はどうした?一人で市場に来たのか?」

アーサーは、彼女が聞き取れるようにゆっくり、怯えないように優しい声を心掛けて質問した。豆を挽く様子をじっと観察していた少女が、視線を外さないまま答える。

「ひとり」
「そうか……」

まあそうだろうな、と思う。連れがいたなら連絡を取るはずだし、アーサーの誘いにもう少しくらい悩んだだろう。
心懸かりが一つ消えたところで、アーサーはここに来るまでずっと気になっていたことを聞くことにした。「もう一つ、いいか」こく、と彼女が頷く。だけれど両眼はやはりバリスタを捉えていた。

「どうして君は、俺たちに付いてきたんだ」
「……?」
「怪しいとは思わなかったのか」

「お先にこちらを」と言って、テーブルの上にパニーニと苺ジャムのブリオッシュが置かれる。
少女の頭がくるりと回ってアーサーを向いた。しかし彼女にそうさせたのは、決してアーサーではなく、赤い宝石を纏って魅力を増した菓子パンだ。対面した美丈夫に目もくれず、小さな口でブリオッシュに噛み付く少女を、アーサーはなんとなく納得いかない気持ちで眺めていた。満足そうに嚥下した彼女が、今度は音を発しようと口を開く。

「さらうなら、とっくに、してた。ちがう?」

もしアーサーが少女を攫うつもりなら、人気のない場所で、その手首を掴んだ時点で半分目的を達していた。拘束して身動きをとれなくしたり、気絶させることもできただろう。そういう意味だ。

「……危ないとわかっていたなら、路地裏まで追いかけるのはやめたまえ」

相手がアーサーやライトニングだったからいいものの、もし邪な心を持つ者だったら彼女の身に危険が及んでいたかもしれない。少女がブリオッシュを皿の上に戻してアーサーを見上げる。

「いいか、次からは気をつけるんだぞ」しっかり頷いたことに深い息を吐いて、アーサーは伸ばした手を少女の頭に置いた。丸い頭を撫でるように手を動かしてから、その行動が無意識だったことに漸く気付き、手を引っ込めてわざとらしい咳払いを一つ。ちら、と見れば彼女は首を傾げている。彼女の向こうでは、非常に都合がいいことに、手を振るライトニングと2つのカプチーノが彼らの元までやってくるところだった。









ライトニングは手早く少女の手首に処置を施し、小さなカップに入ったエスプレッソを一口で飲み干すと、「他の店でも回ろうか」とアーサーと少女の退出を促した。店内を見回したアーサーが感心したように男の笑みを眺める。いつの間にやらもともと広くもない店内は手狭になり、今なお来客を告げるベルがひっきりなしに鳴っていた。

「じゃあ改めて。ルーイン・ライト、みんなからはライトニングって呼ばれてるよ。よろしく!」
「アーサー・A・エンジェルだ。アーサーでいい」

町人行き交うローマの路地で差し出された2つの手をじっと見つめた少女は、やがて得心いったように小さく頷き、順番に己の手を絡めて言った。

「なまえ。みょうじなまえ」
「みょうじなまえ……もしかして日本人か?」
「ん」

ライトニングがぱちぱちと大袈裟に目を瞬かせる。「わお、それは良い偶然だ……」

『僕らも日本語が喋れるんだよ、ねぇアーサー?』
『ああ。日本語でいいぞ』

薄い瞼がゆっくりと開閉を繰り返す。イタリア男の口から流れる流暢な母国語にも少女は驚かない。

『……ありがとう』

けれど確かにライトニングのような反応ではないものの、そこには明らかな間があった。感情表現があまり上手くないのだろうか、とアーサーは思う。口数が少ないのは不慣れな言語故と思っていたが、元々あまり喋らない娘のようである。

「歩きながら話そうか」日本語で言ってライトニングが歩き出す。アーサーと少女がそれに追従すると、自然と二人で並ぶ形になった。アーサーは横目で隣を見下ろした。幼い顔立ちに似合わず大人びた雰囲気を持っている。子供は苦手だ。髪を力一杯引っ張るし、涎のついた手でべたべたと特注のスーツに触るし、前触れもなく泣き出す。彼女はそんな普通の“子供”とはどこか違うようだった。ほっとする一方で、ここまで静かでいられると、それもそれで調子が狂う。初対面で会話が弾まないのは当然であるし、反対に気の知れた仲であれば沈黙も心地よいものだが、なんと言えばいいのだろう、こちらから話しかけてあげなければと思うのは、大人の習性なのだろうか。

アーサーは顔を顰めて前を向きなおす。と、ライトニングがニタァ、とふざけた顔で笑っていた。

『おい……何か言いたげだな……?』
『別にぃ〜〜〜?』

アーサーはヴァチカン本部に帰ったら彼に愛剣カリバーンを叩き込むことを決意する。四大騎士(アークナイト)とあろうものが殺気を感じていないはずもないがライトニングは踊るような足取りでなまえの隣に並んだ。

「みょうじサンは、どうしてイタリアへ? 観光? 家族は? 朝市には一人で? 目的は? ボク達に着いてきて大丈夫だったの? 何か買うものがあったんじゃない?」

少女はライトニングに一瞥を寄越して再び前を向く。若干面倒くさそうに見えたのは気の所為だろうか。

「……知り合いと」
「へえ、家族旅行じゃないんだね」
「…………知り合いが、」
「え?」
「はぐれた」
「えっ」

アーサーとライトニングは仲良く足を止めた。やけに淡々とした口振りだがその内心は知れない。知り合いがどういう知り合いかは知らないけれどきっとそれは大人だろうし、子供が大人とはぐれたら心細いに違いないだろう。

少女の心を推し量るアーサーに向けられた、それって、君のせいなんじゃ……という視線にアーサーは無言で返す。と、こちらも足を止めていた少女が、

「問題ない」
「いや、問題はあるだろう……すまん、私のせいだな」
「ない。平気」

大の大人が少女に慰められる姿は傍から見ればきっと非常に情けないものに違いなかっただろう。けれど彼女その口振りがやけに確信めいていたので、アーサーは後悔より先に疑念を抱く。

「連絡手段はあるのか?」
「忘れた」
「……」

イタリア紳士とあろうものが思わず白目を向きそうになってしまう。彼女の言葉は続いた。

「場所」
「場所……? 緊急時の集合場所か?」

ふるふると首を振る。

「目的」
「アーサー、もしかして彼女、観光の目的地に行けばいいって言いたいんじゃないかな?」
「そうなのか? えー……なまえ」

ぎこちなく告げられた己の名前に少女は違和感を抱いたように首を傾げ、けれどしっかりと頷いた。ほっとしながらも釈然としない気持ちでアーサーは溜息を吐く。

「それでは人に伝わらないだろう。きちんと喋りたまえ。まったく、今までどうしていたんだ?」

言った後で、少々言い過ぎたかと少女を見下ろす。彼女もこちらを見上げていたようで目が合った。ぼんやりとした顔でぼんやりと瞬きをしている。日本語さえ通じているのか不安になるとは一体どういうことなのか。

「わかった」
「……ならいいが。で、向かう場所は……」

「8時に出発して朝市へ。11時から周囲を探索、同時に昼食。15時、サン・ピエトロ大聖堂の見学」

「しゃ、喋った……!」
「アッハッハ! 超機械的!」

道端で大笑いするライトニングを通りがかった婦人がぎょっとしたように振り向く。その様子を見ていたアーサーはライトニングの足を踏もうとして石畳を踏んだ。ライトニングは片足を上げたままぺろりと舌を出した。

「残念賞〜」

もしここがイタリアンレストランでアーサーがミートソースパスタを食べていたならフォークとスプーンをセットに皿ごとライトニングにぶん投げていただろう。だが残念ながらここにはフォークもスプーンもパスタもないのでとりあえず脳内でライトニングを数十回ほど刺しておいた。

「さて、その予定でいくとあと2時間後に大聖堂に集合だね。ここからなら30分もあれば着いてしまうけれど、どうする?」
「行く。待ってる」
「送っていこうか?」
「いい」
「僕たちはどっちでも構わないけど、きみ、道は分かるのかい?」

少女はそこで一度口を閉じる。けれど瞳が揺れる隙もなく再び開かれるので、その反応を動揺と名付ける根拠には物足りなかった。

「教えてほしい」

と言って、少女は腰を折って頭を下げた。オジギ、というやつだろう。やけに人間味のある動作だな、というのがアーサーの正直な感想であった。彼女は元かられっきとした人間であるというのに。

ポカンと口を開けたアーサーの前で重そうな黒髪が持ち上がる。「――……あ、」とアーサーを見上げると、その口が躊躇うように開かれた。

Per(ペル) favore(ファボーレ).」

握手を求めるような仕草に思わず目を見開く。アーサーは無意識に手を伸ばしかけ、華奢な指先に届く寸前でそれを拳に変えた。

「小さな娘を一人異郷に放ったとあっては、英国紳士の名が廃る」

彼女はぱたぱたと目を瞬かせる。

「送らせてもらおう」

断固とした物言いに、少女は怒るでも驚くでもなく……否、驚いているのだろうか、アーサーとライトニングの間で視線を彷徨わせているのは。彼女は背後のライトニングをもう一度見て―――その瞬間だけ物凄く冷めた眼をした―――から、最後にアーサーの顔をじっと見ると、下ろしていた腕をもう一度彼の方へ突き出す。

「ありがとう」

手首に湿布の巻かれた手を、アーサーは一瞬だけ逡巡してから、できるかぎりそっと握りしめた。

「……最初から頼りたまえ」
「……ん」

トーンは変わらないが明らかに間が合った。生返事らしい。何を考えているのかよく分からないと散々思ってきたが、よく観察してみれば案外わかりやすいのかもしれない。

「あれ? なまえ、ボクには何かないの?」
「無視していいぞ。ところで時間があるなら少しこの辺を見て回らないか」
「いいの…?」
「ああ。お勧めのスポットは大体コイツが把握している。任せておけ」
「無視しておきながら便利屋扱いするなんて! ひどいと思わないかい?」

おいおいと白々しい泣き真似を繰り広げるライトニングに、なまえは小さく首を振ると「やさしい」そうはっきりと口にした。ライトニングの蔓のようにうねる長い前髪の間から彼の眉間に皺が刻まれたのが見える。アーサーは己の口角が上がっていくのを感じた。道化のような男にまったく興味なさそうな素振りをする彼女を見ているのは気持ちが良かった。









ピスタチオとマロンのジェラート。てっぺんにはふわふわの白いパンナ。

眼は口ほどに物を言う、のだろう。人混みの中で足を動かしながらアーサーは少女を何度も見下ろしていた。可愛らしい包み紙に包まれたワッフルを手にしたなまえは、その上に乗っかったジェラートをしげしげと観察し、パンナとピスタチオを一緒にスプーンで掬って口に含み、眼を見開き、今度はパンナとマロンを一緒に掬い、含み、また見開く。

「…っふ、」
「?」

見上げた桜色に手を伸ばす。形の良い頭を撫でると心が和らいだ。近くを通った男に彼女の肩が押されてよろめいたので、慌てて体を支える。

「前を向いて歩かないと転ぶぞ」
「ん」
「それともどこかに座って食べるか?」

近くに公園があったはずだ。アーサーは朔が提案に賛成するものとばかり思っていたが、彼女はどことなく浮かない顔をした。

「残念ながら、時間がないみたいだよ」

ライトニングの言葉にこくりと頷く。自分でも腕時計を確認したが確かに寄り道している時間はなさそうだとアーサーは思った。ということは、もうすぐこのおとなしい少女ともお別れだ。己の失態からなし崩し的に始まった地元の観光ではあったが、おかげで久々に羽を伸ばすことができた。少なくともライトニングと二人きりではこうはならなかっただろう。必ずどこかで別行動が入り、いつもの店に寄り、お気に入りのブランドを買い、馴染みのレストランで食事をし、半分程の確率で再集合せずに各自解散だ。

アーサーが少女を見下ろすとこちらを見ていた彼女と目が合った。
次の瞬間、アーサーは咄嗟にその言葉を口にしていた。

「また会えるか」

またぼうっとしている。眠くて聞いていなかった、などというのは勘弁願いたい。そんなアーサーの心の内を知ってか知らずか、少女はアーサーの手をとって甲に口付ける。

Arrivederci(アリヴェデルチ).」

長い睫毛の隙間から一瞬透明な光がアーサーを捉える。声を出すより先に少女はするりとアーサーの脇を抜けていった。振り返った先に峻烈な日差しが飛び込んできて何も見えなくなる。手のひらでつくった(ひさし)の向こうでは、涼しげな格好をした人の群れが壁を作っている。前後に交差するローマの奔流の中に彼女の姿は見つけられなかった。









「あの後本部で再会したときは驚いたが、思えば偶然などではなかったんだな」

魔剣カリバーンを振り回しながらアーサーが言う。数体の悪魔が奇声をあげる暇も与えられないまま四肢を散らせて黒い液体へと変化した。飛び散った雫はひとつも純白の隊服に触れることなく地面や樹木に張り付く。

「私のことを知っていて接触した、そうだろう?」

美しい刀身が身を翻す度に悪魔が美女に誘われるようにして刃に吸い込まれていく。逃れた数体の小賢しい悪魔。刹那、彼らはケラケラと笑い声を残して消滅した。舞い散る粉塵の如く散らばり逃げ惑う黒を寸分違わず双銃で撃ち抜いていく。無駄撃ち厳禁。

「まあ、大方あの八候王(バール)の仕業だろうがな。お前自身は知っていたのか?」

上空に浮かびこちらを様子見していた悪魔の群が、突然、僕に向かって急降下してきた。補助戦闘員のこちらを先に潰すべきと判断したのだろう。まあ、それで揺らぐ聖騎士(ナンバーワン)ではないが。

「……気付いたら……置いてかれてた……」

眼前に迫る黒。片手の銃を手放し、腰元の刀を振り抜く。脅威の大群が有象無象に変わる、居合の一太刀。第二陣、第三陣も同じように斬り捨てる。猛攻の波が終止線を迎えても、休む暇はない。 はあ、と安堵でない溜息をついて、黒刀で肩の上から槍のように背後の宙を突いた。頬に飛んできた水滴が風圧に姿を消す。宙を貫いた剣の中腹に不可視の悪魔が現れ、黒い液体となって刀身を濡らした。

「災難だったな。きっとハンカチもメフィストが地面に落としたんだろう。私がお気に入りのハンカチを手放すなんておかしいと思っていたんだ」

近付く敵を端から両断ながら休符のように間が空いたところで、腕をくるりと回す。銃口を天に、切っ先を地に。上空から襲いかかる悪魔に風穴が空き、地面から飛び出た赤い舌を割きながらその喉元に刃が沈む。それからまた単純作業に戻った。

「それは……偶然……」
「………………あれ?」

間抜けな声を出したアーサーの頭上めがけ、地肌よりどす黒く染まった黒刀を真っ直ぐに投げる。投げた姿勢のまま、刀の飛んでいく更に上方を射撃しながら利き手の銃を拾う。刀身に貫かれた一際大きな図体のフグに似た悪魔と、他取り巻き。それらが一斉に花火を上げ、アーサー目掛けて黒い雨を降らした。白に飾られた彼はダンスでも踊るようなステップで華麗にそれを避けていく。彼の行く先で待ち伏せていた灰色の眼へと僕は銃弾を撃ち込んだ。破裂。しかし横から来る血飛沫すら純白の衣は危なげなく回避する。――余裕そうだ。彼の背後に潜む4体にも弾丸をお見舞いすると、黄金の剣も同じ獲物を捕らえていた。

「フッ、まだまだ甘いな……、っ!!」

振り抜きざまに僕の方を見たアーサーが表情を強張らせる。視線の先を追うとそれは僕の背後にいて、3体の悪魔が眼をぎらぎらさせながら飛び掛かってくるところだった。右足は何かに固定されて動かせない。先程散らせた悪魔の血だろうか。そのような姿になっても活動できることに感心しながら、アーサーの振る大剣が目の前で悪魔を蝿のように蹴散らす様を見ていた。

「はあ…っ、なまえ、大丈夫か?」

ふん、と足に力を入れる。無数の手を形取り足元に絡みつく血溜まりを力づくで引き剥がし、一歩下がる僕を見て、アーサーは首を傾げた。

「これで……最後、だから」

アーサーが空高く上げた悪魔の死体を銃で射抜く。それはあっけなく形を無くし、バシャ、と彼の頭上に降り注いで体を真っ黒に染めた。

「存分に、濡れて」

ああああああああああ!!! と、アーサーの雄叫びが森に木霊した。

先に隊服を汚した方が食事を奢ることになっていたのだ。彼としては奢ることよりも敗北という事実の方がが許せなかったようだが。「汚す」という条件の手前、手騎士の僕が炎や水の使い魔を召喚することができなかったのだ、多少の卑怯な手は大目に見て欲しい。また一つ彼の秘蔵のレストランが明かされるのを楽しみにしながら、僕は黒い水たまりの中から刀を拾い上げてアーサーの隊服の綺麗な部分で刀身を拭いた。


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