企画 | ナノ
うわさ

絶対君主制の煌帝国の中枢。すなわち王族の住む宮中には、数年前から長らく、まことしやかに流れる噂があった。なんでも、王宮に幽霊が現れるというものである。
噂の出所は誰も知らない。ただ、幽霊が現れる場所では奇妙な音が聞こえるらしい。ドン、ドン、ドン――と。振り返っても誰もいない。近くの部屋を覗いても異常はない。だというのに、音は鳴り続ける。女中の間では、王族に恨みを持つ貴族の生霊だとか、王宮に忍び込んで捕まり拷問された挙句命を亡くした間者の地縛霊だとか、妙に真実味を帯びた噂話もされていた。

――廊下に響く音を聞きながら、ある女中はそんな話を思い出していた。身を震わせながら一歩、後ずさる。一歩、また一歩。勇気を振り絞って身を翻してしまえばあとはもう早い。音の中に微かに小さな子供の声が混じったような気がしながら、彼女はなりふり構わず廊下を走り抜けていった。

女中が去った後も依然として奇妙な音は鳴り続ける。
音の発生源は、廊下に面する一つの小部屋にあった。

そこは宮人専用の物置。壁に設置された唯一の棚には欠けた壺や古臭い花瓶や並び、穴の空いた絨毯が立てかけてある。今後役目もないだろうそれらはきちんと整頓されているが、棚の前には大小様々な木箱が散らばっていた。棚の下半分には戸が付いており、そこから出したものと推測される。なら、今はその中に、何が入っているのかというと――

「……き…おと……が……」

蹲ったなまえである。ぶつぶつと呟きながら小さな拳を棚に叩き込んだ。指が赤くなっているのに痛がる様子もなく、体を微動だにせず、ただ唇と腕だけを動かし続ける。

「私はお父様が好き。お父様が好き。お父様が好き。豚と蛙を足して二で割ったようなお顔が好き。血税を餌に換えて溜め込んだ美味しそうな贅肉が好き。脳を鍋でどろどろに溶かしたように稚拙でお花畑な頭が大、大、大、大きら、ダイスキ、超絶スキ。私は、お父様が、だいすき」

彼女がなぜ戸棚の中で死んだカブトムシを見るような眼をしながら怨嗟にも似た暗示をかけ続けているのかというと、時は数年前に遡る――。









煌の第二皇女、練なまえ。
齢7歳。まだまだ甘えたがりの年頃である。

彼女はこの時分から既に紅炎への信仰心にも似た愛に目覚めていた。
その愛は紅炎を通して血の繋がる家族全体に行き渡っていたが、特に親に対してはその比ではなかった。自らを産んでくれたことへの感謝ではない。寧ろその点に関しては余計なことをしやがってと思っているし、もしこの世界に生まれ変わる前に戻れるなら寝床でセックスする両親を命を引き換えにしても止めるだろう。
しかしなまえの中には憎悪をかき消す圧倒的な感謝の心が存在している。皇位継承争いに負けた無様な父が唯一成したある偉業である。

紅炎をこの世に生み出した。なまえにとってはその事実だけで、顔も知らない母親と、金と女にしか興味のない父親を尊ぶ理由に成り得た。

彼らが何度も寝床で絡み合ったからこそなまえは紅炎に出会えたのだ。そう思うと、なまえはこの感謝を伝えずにはいられなかった。母親のことは名前も顔も知らない。よって、ほとんど毎日父の元へ通い詰め、「(紅炎を)産んでくれてありがとう!」と言ってはおざなりに追い払われる父親想いの娘が出来上がった。なるべく昼間に足を運んだのだが、それでも寝室の中からあられもない女の声が聞こえる日もあった。年の割にまだ元気が有り余っているようだ、となまえは感心した。パパの貞操観念が緩いおかげで紅炎が産まれたのだから、それは父を厭う理由にはならない。

なまえが会いに行くと父はいつも鬱陶しそうな顔をして近くの衛兵を呼んで娘を追い出し、機嫌が悪い日は何度かぶたれた。顔が腫れて数日元に戻らず兄たちに心配されたことも、身体中の痣と裂傷でお風呂に困ったこともあったが、それでも彼女は心底父のことを尊く想っていた。傷が酷いと紅炎が仏頂面で手当てをしてくれるので役得だとすら思うこともあった。兄たちから犯人を問い詰められたときは、前々から国の資産を横領している文官の名前を挙げておいた。犯人という意味なら嘘ではない。

なまえにとっては、父から暴力を受けることも、無視されることも、さしたる問題ではなかった。彼女は父へ神職者が神に捧げるものと同等の感謝を捧げていたが、決して父のことが好きなわけではなかったからだ。父が人格的に破綻していることを否定できない。父がやるべき書類仕事を精神的に成熟した自身にではなく、紅炎だけに押し付けることに対しても憤りを感じていた。再三になるが、『紅炎を産んだ』という事実だけが彼女の中で絶対なのだ。父の人間性は疑っていても、父に感謝の想いを伝えないという選択肢はない。

そんななまえの考えを破ったのは、彼女が7歳を迎えてすぐの出来事だった。

「目障りだ」

父が、紅炎をぶったのだ。

虫の居所が悪かったのだろう。紅炎となまえが父に仕事の完了を告げに来ると、突然。なんの兆候もなく。父の顔が醜く歪み、彼は息子の頬を拳で殴った。未発達な紅炎の体は、昨日のなまえと同じように軽く吹っ飛び、テーブルと椅子を巻き込みながら倒れた。父は笑っている。

――許さない。

なまえの中で、父親が『練紅徳』に変わった瞬間だった。


紅徳は一度だけでは飽き足らず、気に入らないことがあれば紅炎に怒りをぶつけるようになった。仕事をすれば必要もない口を出し、廊下ですれ違えば宮人たちの前で皮肉を告げ、嫌なことがあると紅炎を殴った。
なまえは耐えた。ひたすら耐えて耐えて耐えた。練紅徳を殺そうと決意した瞬間は数知れないが、自身の怒りよりも紅炎の身の安全を確保するのが先だったのだ。

まずなまえは辛酸を舐めながら練紅徳を観察し続けた末に、紅炎がいたぶられるのは紅徳の劣等感からだと考えた。皇位継承争いで出来の良い兄になるべくして負けたのだ。さぞ才能ある者が疎ましかろう。なら、紅炎よりも功績を挙げてなまえに眼を向けさせれば良いのだ。大人になってからはともかく、幼い紅炎より多くの実績を挙げることは造作もない。

なまえは様々なものを発明した。目立つ手段としてはそれが最も手近だったからだ。7歳で武功を上げるのは現実的ではない。意図的に大立ち回りをしているうち、彼女はいつの間にか発明家と評されるようになった。半年後には手元の資金が五倍に膨らんでいたので、研究所を設立し、人員も増やした。その頃には紅徳からの嫌がらせも皮肉も暴力も紅炎ではなく殆どがなまえに向かっていたが、それでも彼女は不安だった。足りない。まだ足りない。紅炎の才は本物だ。年を経て頭角を現せば必ず練紅徳の目に止まるだろう。

だから彼女は、紅徳の部屋に呼び付けられる度にこう唱えるのだ。

「なまえはね、なまえのものじゃないんだよ」

笑って。無邪気に笑って。

「なまえはお父様のものなの。この皮膚も、血も、肉も、心臓も、脳も。私の功績はお父様のものだよ!」

殴られそうになったら怯えるふりをして。ぎこちない顔で笑って。健気な娘を演じて。穢れたものなど何も知らない顔で嘯いて。

「私、お父様を皇帝にするために生まれてきたの」

なんでも知っている顔で告げるのだ。
遂にあの情が深く聡明な兄と衝突したのだろう、いつもより豚から蛙に近付いていた紅徳の顔がなまえを見下ろして輝く。さあ、機は熟した。

「――でも最近、なにか違うと思ったんだ」

どうした、その情けない顔は。国民に蔑まれ続けたお前がたった一度兄に見捨てられて絶望するというのか。罠を仕掛けた張本人を、そうとも知らずに希望に満ちた顔で仰ぐなんて。ああ、これほど愉快なことはない。そうだろう?

「お父様は練白徳のお下がりなんかで収まっちゃいけない。なまえのお父様は、世界の王様になるんだから!」









ドンッ、と一際大きな音が響いて、棚の揺れは収まった。

「…………よし」

何も良くはないが。あの猫撫で声で慰めを乞われて、指輪だらけの手で頭を撫でられて、血税を餌に換えて溜め込んだ不味そうな腹と腕に包まれて、豚と蛙を足して二で割ったような醜貌で微笑まれると考えただけでも鳥肌が経つが。まあ、覚悟ができたから、良し。

よし、よし、と呟きながら、人を一人殺した後のような眼付きをした少女が戸棚から這い出てくる。ぺたりと床に座って持っていた靴を床に置いて片足ずつのそのそと履き始めた。何度かため息を零しながらやっと立ち上がり、床に散乱した木箱をきっちりと戸棚の中に詰め込んでから、廊下に続くドアを開ける。俯いたまま暗がりから一歩踏み出すと、頭がとん、と何かにぶつかった。

「………にい、さま」

普段ならとてつもなく嬉しいハプニングなのだが、生憎と暗示の影響でなまえの脳は状況に付いていけていなかった。紅炎はじっとなまえを見下ろしている。

「どうしてこんなところに……」
「お前が、その呼び方をするときは」

質問には答えて貰えないようだ。唯我独尊、そんなところも素敵。真剣な表情もとってもキュート。私の兄が最高すぎる、誰かに自慢したい、大声で叫びたい。

「人前に出るときか、俺に助けを求めるときだ」

すっかり頭の茹で上がっていたなまえは危うく変な声を出しそうになった。いけないいけない、こんなことではあの農民側近に笑われてしまう。

「私が? 助けを? いつ?」
「主に父上の元へ行く前だな。眼が訴えている」

ピンポイントすぎて呆れてしまう。悟らせてしまう自分にも、それに気付く紅炎にも。どれだけ愛し合っていて、どれだけ通じ合っているのか。紅明がこのやり取りを見ればくしゃみを堪えるような顔でこう毒付くことだろう。惚気か、と。
なまえは己の脳が緩く回転し始めるのを感じた。もしかして今ここに現れたのも、この儀式を知ってのことだろうか。なまえ自身、自分の行動を奇行と自覚している。

「あの人に呼びつけられるとお前はいつもどこかに消えるな」
「なるべく不自然にならないようにしてたんだけどなあ」
「安心しろ、紅明たちは気付いていない」
「じゃあ場所は? なんで分かったの?」
「勘だ」

なまえは眼をぱちくりと瞬かせた。紅炎の直感を流石だと内心で褒め称える一方、彼との繋がりを感じて嬉しくなってしまう。つまり彼女の心の中は紅炎一色であった。

「紅炎は私のことならなんでもわかるね」
「中で何をしているのかは知らないが……」
「それは知らないままでいてね」

誰にも教えたことはないしこれからも教えるつもりはない。自室は誰かしら人の出入りがあるので、これまでは手近な物置や空き部屋に入り机の下や戸棚に閉じこもっていたが、次からはより人通りの少ない場所で行わなければならないだろう。ああ、今は頭が働かない。唸るなまえの前で紅炎がふっと微笑んだ。

「もう大丈夫だな」

容易く胸を打たれたなまえは数秒固まり、踵を返した紅炎の背中に飛び付いた。軽く硬直したが拒絶はされない。調子に乗ってくるりと紅炎の体をひっくり返し、筋肉に覆われた胸に顔を埋める。これから豚小屋で豚の腹に顔を埋めなければならないのだからこれくらいは許してほしい。紅炎の温かな手がなまえの頭に置かれた。髪型を崩さないよう慣れた手付きで撫でられる。それだけでなまえは胸がいっぱいになった。

充電もできたのでそろそろ行かなければならない。名残惜しそうに身を離したなまえの肩を紅炎が掴んで、前髪に軽くキスを落とす。にやりと笑い、マントを翻して廊下を歩いていった。その時なまえは思った。――きっと私は一生、この兄には敵わない。


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