刀を交えて花一匁 丙 | ナノ
 01.呼吸ができなくたって痛くない(1/2)

「なん……だ、これ……」

頭上で煌々と輝いていた太陽もとっくに山の裾へ身を隠した頃。闇に溶け込んでしまいそうな足元を月光が優しく照らしてくれる。どことも分からないまま歩み続けていた足が、ふいに止まった。民家も動物も見当たらないような不気味な竹藪を漸く抜け、最初に見たものが、俄に膨らんでいた想像を遥かに凌駕するものであったから。

叢雲が春の月を隠し、静かな陰がゆるりと身を起こす。

今やすっかり黒に馴染んでしまったこの肉叢。不気味な静けさを孕む夜の闇は、無機質な白に比べれば余程健全に人の心を掻き立てた。嫌なものを並べて、どちらの方がまだマシか、という程度の差ではあるが。

だからそう、進む先が変わらず闇だとして、それはさしたる問題ではないのだ。
しかし一体誰が予想できようか。もはや微かな残滓を追うのも億劫な幼少の記憶、その前世とも呼べる世界から隔たれた遠き地で、懐かしい光に迎えられることを。
更々覚悟もなかったが故に、衝撃は大きかった。

「一体どうなってんだ……」

そう、日本全国民深夜のお供、懐かしく目にも眩い人工的な光源、それは──

「ファミ◯じゃん」

ファ◯マだ。

フ◯ミマがある。

この時代にあるはずのないものが、江戸風の町中に堂々と。

……もしかして、俺は元の世界に帰ってきたのではないだろうか?
それとも時間感覚が狂いすぎて、いつのまにか平成になってた、などと。

深呼吸。夜の冷気が肺を満たし、疲労に火照る脳をわずかに押し鎮める。
俺が捕まっていたのは、確かに幕府の地下牢だった。撒いた追手は表には出てこない幕府の犬共だ。
故にここは江戸、それは間違いない。そして恐らく、異世界の日ノ本。よし、よし、オーケー、落ち着いた。ところでタイムマシンはどこだろう。

草むらから一歩。固い地面へ踏み出したのは無意識の行動。
人の営み、その強大な塊を視界に入れた瞬間から、胸の底に疼く寒々しさがひどくたまらなくなった。
騒々しい光の箱に意識が吸い込まれていく。ああまばゆい、人の世は。
けれどまた、足が止まる。

――帰ろう。

踵を返す。土に塗れ草臥れた草履をずりずりと、引き摺るように歩いていく。己の影の真ん中に、ぽっかり空いた穴を見た。視線を上げると、夜の景色が陽炎のように身を揺らしている。その時頭を過ぎったのは「死」の一文字。

少し笑いたくなった。遠く離れて久しい言葉だ。

拷問。断食。逃亡。
ああ、うん。
それは、死ぬな。

体力と精神がそろそろ限界だと、頭の冷えたところで考える。怪我は治れど疲労は回復しないのである。不死者であろうと腹は空くし眠いものは眠いので。

睡魔に囚われないよう、ひたすらに棒のような足を動かした。死ぬ、なんて言ったけれどまあ、冷静にならなくてもどう考えたって、不老不死と謳われる身が滅びるわけがなかろうに。それでも、いやまあ流石に死ぬかもしれない、とか思う。弱気の虫が心を巣食っている。振り払おうにも眠すぎる。

力の入らない足が縺れそうになった。意地でなんとか立て直した。くそ、あーーーー、めちゃくちゃ眠い。一度死んで回復を……いや駄目だ、ここじゃ誰が通るかわからないし、そもそも刀を持ってない。つーかそういや、さっきそっくり同じことしたわ。この思考、二度目だわ。

腰元の相棒があった場所をするりと撫でた。当然ながら何もない。きっとアイツが……高杉が持っているのだろうか。みんな俺のことは死んだものと思っているのだろう。さっさと帰ってやらないと。あんな別れだったから、流石の俺も申し訳ないと思ってるんだ。驚く顔が楽しみだ、成長した姿を見るのが楽しみだ。今更何をと憎まれても、それはそれで感慨深い。結局俺は、お前らが生きていればそれでいい。そばで生きられずとも、それで。

羽織るのが精一杯だった布切れ同然の服が肩からずり落ちた。

そうだ、寝こけてる場合じゃない。帰らなけば。帰らなければ――……帰るとは、どこに? 吉田松陽はもういない。子供たちもたぶんいない。時が経てば子供は大人になる、口にするのも馬鹿らしいほど当然のことだ。大人になれば巣立ちする、これは或いは逆なのかもしれない。じゃあ、俺は。俺は、何になればいい? どこに行けばいい? いま俺は、どこに向かっているのだろう。

もういい。早く寝床を探そう。……違う。違う、寝床じゃない、俺の探すべきものは。探すべきもの。そうだ、帰らなきゃ。あの賑やかな塾に、あいつらのところに、帰らないと。帰って、それで……

会いたいよ、俺の宝物。

ずり、足の爪先が土を引っ掻いて、止まる。そこから地面に飲み込まれてしまったように動かなくなってしまった。頭がずっしりと重い。両手が麻痺している。どろどろと体が溶けていくようだ。落ちてくる瞼に抗えない。瞼の隙間にうっすら映る、景色がぐるぐる回ってる、……



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