▼ 16.紅桜篇『終/咲かずに散る花の名を』(1/8)
病の気配が立ち込める。脂汗の匂い、尿の匂い、腐りかけの腑の匂いだ。避けられぬ死を穏やかに待つ老人の枕元に、死神はやってきた。
「刀をくれ。何者も斬れるやつを」
偉そうにぬけぬけとほざくそれは瑞々しい青年の形をしていた。年月にくすんだ瞳で胡乱げに見やり、得心がいった。そうか人の形をしているから、こんなつまらないことを言うんだなあと。
何でも斬れる刀。斬れ味の良い刀。刃こぼれのしない刀。血に錆びぬ刀。
ああ打ってきたさ、打ってきたとも。美しいだけの芸術品も、猛毒を宿した兵器も、分け隔てなく。この無信心の男に何を思ったか天目一箇神は微笑み続けた。であれば男が火の粉に片目を失明したのも、きっと神の思し召しという奴なのだろう。
けれど人を殺す形をしていても、せずとも。それはこの老人にとっては到底手に余る、重く煩わしい、鉄の塊でしかなかった。そうしてそれは、きっとただ一つの真実であったのだ。
散々聞き飽いた呪詛が、まさか最後の最後まで降りかかってくるとは。まあいいか。彼方に行けば死神は思ったより俗物だったぞと、膝を叩いて笑ってやれるから。もしかしてこの男は、女房に逃げられたこの唐変木を憐れに思って、土産話を担がせてやろうとしているのではないか。それもそれでなかなか気が利く俗物じゃァないか。
「あ、でもアレだ」
老人は満足げに口角を上げ、眠るように瞼を閉じる。
「代わりと言っちゃあ何だけどさ、その刀、何も斬れなくていいよ」
──死を宣告されていたはずの老人は、それから向こう一年、炎と鉄と戯れて爽やかな汗を流し、油に足を滑らせてぽっくり逝った。その死に顔は見る目に若々しく満足気に華やいでいたという。
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