刀を交えて花一匁 丙 | ナノ
 05.愛された犬はお手ができない(1/1)

古くも新しくもなく、扉とはめ殺しの窓で完結した狭い部屋で、二人の男が静寂をまとう。一人の青年はパイプ椅子に腰掛け、一人の老躯は暗い窓際に鏡写しの顔を見ていた。天井の端に設置された監視カメラは予め電源を切ってあった。

「ふむ……案外早い再会だったな」

初めに沈黙を破ったのは窓際の男。上等な召し物をまとうその老人は、見るものが見れば其れと分かる政界の怪物である。幕府開闢当時より脈脈と徳川家に仕えてきた家の出、現在の幕末において上から十本の指に入るほどの大古狸。普段なら御簾に包まれ気軽に往来を歩くことも許されぬはずの雲上人は、己の視界を遮るさびれた鉄格子を見下ろし潔癖そうに眉を顰めた。

「籠の鳥が掃き溜めに飛び出した時はどうしたものかと気を揉んだものだがいやはや、元気そうで何よりだ。だが言わずとも分かっていよう、貴様の居場所はここにはない。戻ってこい、2101番……いや、Pと呼んだ方がいいか」
「………」
「単刀直入に聞こう。例のデータはどこにある? まさか捨ててはいないだろうな……」

パイプ椅子の青年は是も否も唱えず静謐を描く。僅かな光原に光沢を帯びる爪の色、渇きを知らない唇、先の末端まで墨汁に浸された睫毛。片肘をついて空を眺める、退屈そうでどこか憂いの帯びた表情は、それだけで絵になった。

「……ああ、そういえばきちんと説明したことはなかったか。思兼会の監視カメラ映像……ほとんどが使い物にならなかったが僅かながら復元に成功した。そこに映っていたのさ。畜生(ラット)が彼処を脱出する前、何かを飲み込んだ所を。しかし貴様を捕らえ切り開いたその腹からは何も出てこなかった」
「………」
「どこかに隠したのだろう、その体内以上に安全な場所へ。なあ、教えてくれまいか。それが手に入ればもうつけ回すような真似はしない。誓おう。……貴様も、もうあの地獄に戻りたくは無いだろう?」

振り向いた男が真摯な眼差しで青年を捉えると、それは短く嘆息した。頬杖はそのままにして、目線だけを男に遣る。

「置き土産は用意した。……それで満足しておくことだな」

呆れた声音。その姿勢は我儘な子供を諭すものに近い。事実、彼にとって男は己の子供のようなものだった。どうしようもなく愚かで愛らしい生き物。捉えようによってはまるで『憐れみ』にも映るそれが、男の神経を更に逆撫ですることになろうとは、彼は思いもしないのだろう。

「──中身が無ければ意味がない……!」
「中身は入ってるだろう。枝もきちんと張ってる」
「それでは()()()()と言っているんだ」

靴底を高く鳴らして青年に近付いた男が、皺一つない額を覆うようにその頭を掴む。乗せるものを無くした白い腕が空を切った。

「勘違いをするな、貴様が今こうして自由に動けるのは、私達が見逃してやっているからにすぎない。本来それは我々の手にあるべき代物だ」

否応なく顔を上げさせられた青年の髪や皮膚に太い指が食い込んでいた。幾筋も青い血管の浮かんだ男の手の中で、青年はなお朝東風を思わせる穏やかな面持ちで男を眺めている。

そのなまぬるい眼光に、男は激昂した己を思わず忘れ、着物の下に冷や汗を流した。まさか。いや。気づいている。手を出さないのではなく……出せないのだ。この青年に手を出すのは、いつどんなきっかけで爆発するか分からない爆弾をつつくようなもの。事実、奴は脱走を二度果たしている。どちらも少なくない被害を伴って。

それを分かっているから、奴の慈顔は崩れない。

──男には到底耐え難いものだった。

「その眼をやめろ、小汚い溝鼠風情が……!」

青年は頭を震わせた……否、青年の頭を持つ男の手が細かく振動していた。静謐を打ち破るがごとく、掴んだ頭を椅子ごと押し倒し、床に叩きつけた。

肺を打ったのか、青年の呼吸が一瞬止まる気配がした。だが男の腹の虫が治まるには足りえない。青年の後頭部を浮かし、再び床へ打ち付ける。次は反応が無かった。男は心臓の音が止まる瞬間を聞いた気がした。もちろん自身のものではなく、目の前でだらりと項垂れる鼠のそれである。

あの憎たらしい眼を瞼によって閉じられているのを確かめると、そこでやっと愉悦が上回ったようだった。強ばった笑みを浮かべる。

「……どうやら貴様は勘違いをしているようだ。面白いことを教えてやろう。なぜ我等が貴様のことを……あの賢しい天人どもすら知らない貴様の存在を、我等地球人が知っていたと思う?」

言葉に含まれた自信を自身の内に拾い、櫂を漕ぐようにして感情を落ち着かせる。──奴の纏う空気に飲まれてはいけない。無駄に焦る必要はないのだ。優位な立場にあるのは此方なのだから……。


「思兼会は我等の作った研究所だ。哭族と一部の幕僚は手を結んでいる……いや、“結んでいた”」


──男は口舌における勝利を確信していた。故に、青年の体を手放し、悠々と歩き出す。そして寝物語でも読み聞かせるようにゆっくりと、語った。

「その歴史は古く平安まで遡る。最初に哭族と手を結んだのは陰陽道宗家……当時禁忌とされていた不老不死に熱を上げ一度は陰陽寮を追い出された爪弾き者の一門よ。奴らの研究に興味を持ったある公卿とその派閥が密かに龍脈の支流を分け与えたのが始まり。その時どこからか一門の噂を聞きつけた哭族が話を持ちかけ、公卿派閥もそれに乗った。」

史上最古より龍脈の存在は知られてはいたが、地球人はそれを活用する術も知識も持たなかった。当然地球のそれのみが世にも二つとない「不死性」の元であるなど知るはずもあるまい。ところが宇宙の一歩二歩も先を行く哭族が地球に興味を持ったことで一部の人間だけが龍脈の本当の価値を知ってしまった。

「研究所の名は日本古来の神に倣って八意思兼(ヤゴコロオモイカネ)としたらしい。多くの期待を背に始まった研究は、当初はとても順調とは言えなかったという。研究は数多の権力者達により連綿と受け継がれ、成果が出ぬまま長い長い時が過ぎた。やがて夢想は幻想となり、待ちかねた人々が諦め去っていく中……奇跡は起きた。なあ、先駆者よ。貴様がいたから、我らはこうして希望を捨てられずにいるのだ」

そして現代、研究が再び時の政権に渡ったのは運命か必然か。思兼会がPの手によって半壊した後も、幕閣は自分たちだけで研究を続けることを決めた。越えられぬと思っていた線を飛び越えていく人間を見た……一度捨てかけた願いを抱え直すには十分だった。傭兵や浪士を端から雇い集め、Pが再び籠に戻ってきたと知った時にはどれほど嬉しかったことか。

「だが喜ぶも束の間、攘夷戦争が終結したのだ。売国奴どもの奸計によって龍脈(アルタナ)は天人の手に落ちた。支流は本流に吸い上げられ、本流の根元にはカラス共が我が物顔で居座っている。研究は完全に頓挫した」

だが今だに研究の存在は隠されている。というのも研究始動当初から代々受け紡がれてきた儀式──陰陽術による他言無用の血の誓約が情報の漏洩を許さないのだ。
破れば関係者本人どころか血族の命も奪われる非道な呪詛。これがある限りそうそう天人にも不老不死を知られることはない。

まるで諦めるなと言われているようだった。そうだ。目の前に黄金の林檎があれば、人間は手を伸ばさずにはいられない。

「なぜ哭族は戻ってこない? 此処には、この地球(ほし)には、斯くしも目覚ましい奇跡があるというのに」

足を止めた男は、草鞋の先を青年へ向ける。腰を折り、依然仰向けに寝転んだ青年の顔を上から覗き込む。

「お前は捨てられたんだ」

いつの間にやら彼の首は据わっていた。呼吸も正常に戻り、瞼はしっかりと開いている。これぞまさしく人類が追い求めた奇跡。手出しを禁じられていてなお求めてやまない神の領域。おぞましく崇高なる禁断の果実。

「戻ってこい、P。天人にも只人にも成し得ぬよ、こんな神を冒涜する禁忌は……我等にしか成せぬのだ。お前は人を救ってきた(、、、、、)。これから更に多くを救うことができる。我等にその身を預けてくれれば」

男はスルリと脇腹を撫でた。そうすると傍目にも見えるようになる──分厚い着物に隠された不気味な凹みが。男にはあるはずの器官がない。その昔、臓物と引き換えに僅かな猶予を手に入れたのだった。

──Pを使った実験は、半ば成功の兆しを見せていた。それは不老不死の人間を生み出すには到底及ばないが……病人は病を抱えたまま、腕を減らした人間は腕を減らしたまま、『失われたはずの寿命を取り戻す』という点において目覚ましい奇跡を起こしていた。

彼らは視線を交わらせ続ける。男は興奮を孕んだそれで、青年は感情を悟らせない瞳で。睨み合いというには一方的で、見つめ合いというには冷めた交わり。

ふいに男は膝を下った。懇願し縋るように、あるいは脅すように低い声音で、彼の襟元を掴み上げた。


「我等を導く八意思兼神(かみ)になれ」


男が青年を見る瞳に宿る、嘲笑、羨望、嫉妬、そして畏怖。矛盾したことだろうが、全ての感情が本物であり、本心以外の何者でもなかった。だがしかし──男は口舌における勝利を確信していた、その心は、Pと呼ばれるその男の『甘さ』にある。

そう、紛れもなく本心である……だが全てが真実だと誰が言った?

短い時間と少ない問答で青年の本質を見抜いた男は、その優しさと同情を大いに利用し『懐柔』という手を選んだのだった。畜生如きに頭を下げるのは甚だ以て不本意なことではあるが、爆弾を下手につつくより堅実であることは確か。この殊勝さと賢しさこそ古狸の蔓延る中央政府でのし上がった男の最たる才覚である。

さて反応は、と男が鷹揚に青年を見下ろす。返答は、ない。目立った反応も見られない。どころか視線の一つすら寄越さない。

放心しているのだろうと思っていた男の方も、生命維持活動だけを行う青年の様子に気付き眉根を寄せる。
待ちきれない男が返答を催促しようとした頃、ようやっと青年は口を開いた。その口で、困ったような笑みを……

「年寄りは話が長いというが、年齢に比例する訳じゃなさそうでよかった。きみと同じように話してたら俺は喉を枯らして死んでしまう」

男の顔がカッと赤く染まる。バレていた、見抜かれた、かのような家畜如きに! 机に掌を叩きつける音が小さな部屋に反響する。挑発か、嘲笑か、はたまた本心から零れ出た天然毒かは分からないが。奴の行動、表情、言葉のすべてが男の逆鱗に触れていくようだった。

「ここで貴様自身を……問い質すまでもない……! いずれ貴様は戻ってくることになるのだ。お前の教え子とやらを――」
「駄目だよ。言葉は選ぶべきだ。きみがそれを恐れるならば」

平生と一片も変わらぬ声音。いつの間にやら上体を起こした彼の花顔には、ともすれば絶世のごとき微笑みが貼り付けられている。十人いたなら十人の老若男女が振り向き頬を染めるだろうその様に、あろうことか男は背筋を寒くし、ひくりと喉を引き攣らせた。

やはり目の当たりにすると気圧される。まるで神話の一節を観劇している気分だ。人という存在の小ささを実感する。これが欲しいと――思っていたはずなのに。

奇妙な嫌悪感が男の脳髄を擽っている。警報が近づき来る。それ以上手を出すなと……理性とは遠いどこかで何かが喚く。果たして、それは正しかったらしい。


「その脇腹」
「は」
「痛くないのか?」


途端、鋭い痛みが体を迸った。筋肉の収縮、血管の破裂。空洞を包む肉が蠢きなくなったはずの物を探している。血が全身を激しくかけ巡り、心臓が胸骨を突き出て鼓膜を破る。地平線がガラガラと砕け落ちていき、遠ざかったはずの崖の端が、再び目前に迫っていた。

「(なぜ、今、治ったはずでは、いや、そんなことより、死──)」

「因果応報、悪因悪果、身から出た錆、人を呪わば……。善行であれ悪行であれ変わりはない、何事も行為には代償が付き纏う。幼子でも分かることだ。当然きみも知っているとは思うが」

あくまで静かに、嗜めるように、繰り返し言って聞かせるように。仕方のないものを見る眼で、奴は男を見下ろした。

「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけないよ」

決して鋭くはない。じわりと纏わり付き、対象の精神を蝕む、憎悪にも似た殺気。だからこそ怖ろしく、だからこそ畏ろしい。全身の肌が蛇の舌に撫でられたように粟立つ。薄く開かれた黒の奥で見え隠れする、仄暗い光を浴びて、男はかたかたと奥歯を震わせた。分からない。分からない。

今、己に見下ろされているこの生き物は、()だ?

青年が立ち上がる素振りを見せると、男の喉からヒ、とか細い息が漏れた。腰が抜けて尻から沈む。気づけば彼は化け物に背を向け、鉄扉に手を伸ばしていた。――殺される。この化け物に心臓を喰い殺されてしまう前に、早く、

「この()()()()()()()の体が欲しいんなら、自分の足で辿り着いて見せたらいいんじゃないか? 畜生の血が混じったら屈辱だものなァ」

ずるずる、ずるずる、と這い蹲って逃げる男の背を陽気な足音が追いかける。男にとっては死神の足音に他ならない。

「なあ? できるんだろう、人間さまよ……」

じゅくり、果実が潰れるような気味の悪い音と、繊維を千切るような音がした。辿り着いた鉄扉に決死の思いで縋り付く。しかしもたれかかっただけでは開くはずもなく、押すんだったか引くんだったかと男は鉄扉を見上げた。ドアノブまでの距離が酷く遠く感じる。

と、にょきりと白い手が現れ、それを回して扉を手前に引く。顔を仰け反らせた男を見下ろすは、相も変わらぬ慈愛の微笑み。

息を飲む男の丸い鼻先に、一滴、液体が垂れてきた。それは青年の瞑る片瞼から溶け出しているようだ。

「忘れもの」
「……あ、え……? 忘れもの……?」
「チュウ」

巫山戯た鳴き真似と共に、見えない器を持つようにして男の眼前へ据えられた彼の手の中には、湿った丸い何かとのっぺりした機械が赤い血に浸かっていた。その無骨な鈍色に男は覚えがある。技術班が奴の眼球の裏に差し込んだ発信機で間違いない。と、いうことは。

──青年はにこりと笑窪を深めると、ためらいもなく血溜まりの中から不気味に光る機械だけを摘み、床に落として足で踏みつけた。短い悲鳴が響く。

持ち上げた下駄の底からパラパラを粒子が落ちるのを見ながら、奴らならこうはいかないだろう、とふと青年は思う。奴らはもっと狡猾で、巧妙で、何より感情に振り回されたりしない。

「他にもあるのか? 内臓とか億劫なんだけどな」
「…………い、いや、……」
「本当に?」
「ちっ、誓って本当だ! だから、こ、殺すのだけは……」
「そ、ならいいんだ」

青褪め矜持をかなぐり捨てて首を振る男に、青年はほっと息を吐く。例え今の言葉が嘘だったとして、真実を吐かせることは簡単だ。けれどそうなればこの男は上司に処罰を受けてしまうだろう。真実だとすれば内臓を切り取らなくて済む。なら無いと信じて行動する方がよほど心にも体にも優しい。ばけもの、と震える声がした。扉を開いて踏み出す彼の口元には、少女のような微笑みが浮かんでいる。

「聞いた? 俺、ばけものだってさァ」



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