弐 かなし、かなし ことんと眠りに落ちた咲耶を見下ろして、雅翠は嘆息した。
咲耶に被せた衾を整え、頭の下に枕をあてがう。
長さ以外は見事な黒髪を何度か指で梳き、咲耶の頬に手を添えた。
自分のものと違って柔らかな頬は、青ざめていて冷たい。元気に振る舞ってはいても、彼女の身体は確実に瘴気の影響を受けているのだ。
咲耶から手を離す。
丁寧に折り畳まれた料紙が枕元に置かれている事に気づき、雅翠は目を眇めた。
包まれているものは咲耶の勾玉だろうかと、考えるともなく思う。
彼女を着替えさせた月草から、勾玉は砕けてしまったと聞いていた。
掴まれたままの袂を咲耶の手から引き抜き、料紙を持ち上げる。
間違えて踏まないように文机の上に移動させていると、嗅ぎ慣れた香が匂った。
妻戸へと顔を向ければ、涼暮が佇んでいる。
「……咲耶は、眠らせてくれた?」
その言葉に頷けば、彼は「そう」と呟いて咲耶の部屋に足を踏み入れた。
足音を立てずに移動し、雅翠の横に腰を落とす。
咲耶の髪を何度か撫ぜて、涼暮は深々と嘆息した。
「嫌な事を頼んでごめんね、雅翠」
ぽつりと呟いて、彼は雅翠にも手を伸ばす。
労るように頭を撫でられ、雅翠は唇を引き結んだ。
「いえ」
咲耶や雅翠も結界の一部を担ってはいるが、大本を作り上げているのは涼暮だ。結界を強くした今、彼には大きな負担がかかっている。
その彼に重要な話をしたいから咲耶を眠らせてくれと頼まれれば、聞かずにはいられない。涼暮にこれ以上の負担をかけるのは、雅翠としても望ましくなかった。
咲耶には後で怒られそうだが、こればかりは仕方がない。
「俺が眠らせても良かったんだけど、多分咲耶は俺の顔を見たくないだろうからね。……俺を恨んでいるはずだから」
「恨まれたいのですか?」
恨まれる事を望んでいるような口調に気づき、問うように彼を見据える。
雅翠には、彼が何を考えているのか理解出来なかった。
「空っぽになった心を埋めるものが、咲耶には必要だからね。
……俺を恨めば、それは咲耶の生きる気力になるだろう?」
その言葉に息を飲む。それでは、まるで――
「咲耶の為に、咲耶に恨まれる為に、偽っていた事を話したのですか?」
「そうだよ」
その問いに、彼はあっさりと頷く。
「涼暮様は……少しだけ、愚かだと思います」
「俺は親だからね。かわいい咲耶の為なら、このくらいは」
「それが愚かだと言っているんです」
わざわざ憎まれ役を買って出た彼に、つい本音を溢してしまった。ひどいなあ、と笑う彼の表情は、どこか痛々しい。
「咲耶は、涼暮様を恨んでいませんよ」
その言葉に、涼暮が不思議そうな表情を浮かべた。
「恨めるはずがないと、言っていました」
咲耶の言葉を告げれば、彼は驚いたように目を見開く。
「……そう」
穏やかな声で呟いて、彼は雅翠から手を離した。
「咲耶は」
眠っている咲耶に視線を落とし、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「咲耶は、本当に良い子だね。……恨んでくれれば、良いのに」
本当は、涼暮も雅翠も分かっている。
それが出来ない咲耶だからこそ、愛しいと、大切だと思うのだ。
「それよりも、涼暮様」
咲耶から視線を引きはがし、涼暮を見据える。
「重要な話とは何でしょう?」
まっすぐに本題に触れて、雅翠は強められた結界の外を見やった。
見鬼である雅翠と涼暮の瞳には、徒人には見えない光景が映し出されている。
清冽な気に満たされた結界の中とは違い、外は澱んだ気が取り巻いていた。圧迫された結界が軋み、悲鳴を上げている。
何か――恐らくは咲耶を襲ったモノが、結界を破ろうとしているのだ。
強力な結界を張っているのにも関わらず、モノを退ける事が出来ない。
雅翠が知る限り、初めての事だった。
「……これは、意外と」
思わず呟いた雅翠に、涼暮が頷いてみせる。
「咲耶も厄介なモノに目をつけられてしまったみたいだね」
俺の娘はすごいなあ、と笑って、彼はふとその笑みを苦いものに変えた。
「やっぱり、咲耶はサクラか」
その言葉に、雅翠は無言で彼を見据える。
サクラ。
咲耶は人だ。彼の言葉は、薄紅の花を指しているのではないだろう。
では、彼の言う「サクラ」は一体何を指しているのだろう。
「雅翠は、サクラって分かるよね。花の事じゃない。憑坐としての『サクラ』だ」
その言葉に頷く。
憑坐。神を憑かせる場所、もしくはものの事だ。
桜はしばしば、サ・クラとも表される。
サは神霊を、クラは神の
依る場所をそれぞれ意味し、それ故に桜はサ・クラ――神の降りる場所、憑坐とも言われるのだ。
雅翠の答えを聞いて、涼暮が小さく頷く。
「そう。サクラは神の降りる場所。
雅翠は知っているだろうけど、咲耶と俺は血が繋がっていない。俺は咲耶を拾ったんだ――『サクラ』と呼ばれる一族が住んでいた里で」