壱 咲耶 誘うように、モノが手を伸ばす。
不可視の壁が軋み、頭の中でぴしりという音が響いた。術が破られそうになっている事を理解し、息を飲む。
逃げなければと思うのに、身体が動かなかった。術を使いたいのに、声が出ない。
「――ラ」
モノが何事かを呟いている。咲耶を見て、愉悦に顔を歪めている。
視線が絡み合った瞬間に、身体が凍りついたように動かなくなった。後退る事すらできず、ただこのモノから逃れたいと願う。
心の中で悲鳴を上げ、強く目を閉じた時だった。
「咲耶!」
鋭い声が空間を切り裂く。
びくりと身体を震わせれば胴に腕が回され、担ぎ上げられた。
馴染みのある担ぎ方と気配に、そろそろと目を開く。
「雅、翠……?」
掠れた声で問えば、肯定を示すように力を込められた。
その強さに、なぜかほっとする。
口を閉ざしたまま、咲耶は大人しく身体を預けた。雅翠の身体に腕を回し、ぎゅっとしがみつく。慣れ親しんだ彼の気配に、理由もなく泣きたくなった。
「俺もいるんだけどなあ」
二人の横をすり抜けるようにして、別の人影がモノと対峙する。
それが誰であるかを悟り、咲耶は声を上げた。
「涼暮様!」
「そこはお父様、って言って欲しかったかな」
緊張感の無い声で答えて、咲耶と雅翠の養父――賀茂涼暮が笑う。
その瞬間に、心の中に安堵が広がった。
彼は養父であると同時に、師でもある。咲耶にとっては、誰よりも、何よりも信頼出来る相手だった。
「遅くなってごめんね、咲耶」
咲耶の頭をくしゃりとなでて、彼は表情を引き締める。
四十路が近いとは思えない外見と言動だが、眼差しの深さは年を重ねた者のそれだった。
首を横に振り、黙したまま見つめ合う。
涼暮は、咲耶がどうしても敵わない相手だった。
「怖かったね、咲耶」
今だって、彼は咲耶の恐怖を読み取ってしまう。
「一人でよく頑張った」
慈しむような眼差しで咲耶を労ってから、涼暮はモノを見据えた。
「……かわいい娘に手ぇ出したからには、覚悟は出来てるんだろうな?」
その瞬間に、空気が凍りつく。
急に低くなった声音と乱暴な言葉遣いに、咲耶だけではなく雅翠までもが硬直した。
放たれる怒気に、先程までとは違う意味で恐怖を覚える。彼がこんなに怒るのは、以前彼に送られてきた恋文を読み漁って勝手に返事を書いた時以来だ。
「楽に逝けると思うなよ、モノ風情が」
戦く二人を背に、涼暮が朗らかにさえ聞こえる声で言い放つ。
彼が満面の笑みを浮かべている様子が想像出来てしまい、咲耶は身体を震わせた。
ふと視線を落とせば、背後に隠れていたモノ達ががたがたと震えている。先程よりも怯えているように見えるのは目の錯覚ではない。
なぜだろう、先程まで戦っていたモノよりも涼暮の方が怖い。
そんな感想を抱いた時だった。
がさりと料紙の擦れる音がする。
慌てて前へと視線を向ければ、モノがその場から飛び退く所だった。咲耶が落とした荷を踏んだのか、包みが解けている。
首を傾げながら包みの中身を思い返し、咲耶ははっとした。あそこには干し桃が――破邪の力を持つものが入っているのだ。
ぼたぼたと腐った肉を落としながら飛び退いたモノは、そのまま闇へと身を溶け込ませる。
一拍置いて、茜色の空が砕けた。
その先に紺色の空が広がっている事に気づく。いつの間にか日が落ちていたらしい。
「……世界が、解けた?」
ぱらぱらと降ってくる茜色を払いながら、涼暮が訝しげな表情を浮かべている。
包みの中に干し桃がある事を告げようとした瞬間に、視界が歪んだ。
意識が遠のく。
全てが闇に飲まれる寸前に、ひとひらの薄紅が見えた気がした。
*