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「君を殺すわけじゃない。さっき言っただろう、忘却術だ」
満面の笑みに戻ったロックハートは、目だけが異様にらんらんと輝いていた。
「少し眠ったあと、今までと変わらない日常に戻るだけですよ。この数時間の記憶がないことを除けばですが。安心してください、私はこの術だけは失敗したことはありません」
「…それは、心強いですね」
私は無理やり軽口をたたきながら、突きつけられた杖先を見つめる。
狙いはぴたりと心臓に向かっていて外れようがない。
私の杖はといえば、さっき床にばら撒いた荷物と一緒にカバンの中だ。
これは無理だ。逃げようがない。
「怖いなら、どうぞ目を閉じて」
「大丈夫です」
「手が震えていますよ」
言われてはじめて気付く。
脈が血液を過剰に送っているせいでじんと痺れた指先に、なんとか力を入れて揺れを止めた。
私の目はまだ杖を捉えている。
彼はおそらく私を見ているだろうが、今は目を合わせたくなかった。
なら閉じてしまえばいいのか。
お言葉に甘えることにしよう。
深呼吸なのかため息なのか、どっちともつかないような長い息を吐いた。
緊張をほぐそうとしてか、そこにどうでもいいような言葉まで混じる。
「ようやくまともに話ができたのがお別れのときっていうのも、変な話ですね」
「君とはもう少し話がしたかったですよ。時間がなくて残念です」
それは私も同じかもしれない。
今の彼は、いつもと段違いで話がしやすい。
あと少し時間があれば、たぶん苦手意識を払拭できたと思う。
「しかも全部忘れちゃうし」
「いつもの姿だけ覚えておいてくれればいいんですよ。あれは私の努力の成果なんですから」
「でも私たぶん、嫌なやつが一人いなくなったって大喜びするだけですよ」
「…思い出が美化されることを祈るばかりです」
男の声が少し憮然とした色を含み、こんな状況なのにちょっと笑ってしまった。
「じゃあ…今の、本当のあなたを知っているのは、あなたしかいない、ってことですか」
「そういうことになりますね」
「寂しくない?」
「いいえ」
「嘘でしょう?」
息を呑む音がした。
どうして驚くんです、あなたもさっき言っていたでしょうに。
「通じませんよ、私には」
言いたいことは言った、と思った。
それじゃ、さよなら。
最後のセリフだけ心の中でつぶやいて、意識が途切れる時を待つ。
そこからかなり間が開いたと思う。
次に聞こえたのは、杖を振り下ろす音、ではなかった。
「…すべて喋ったといったが」
彼の声は、今までになく震えていた。
「君に言わなかったことがひとつだけある」
唇に、暖かいものが触れた。
そのまま扉の音がした。
その時の静けさを、私は今でも忘れられない。