息を切らしながら、わたしは書物庫を出てある場所に向かっていた…あのまま書物庫にいたら、きっとわたしは建物を破壊してしまうから。そうなってしまったら、紅覇さまにもっともっと迷惑をかけてしまう。先程まできつくわたしの身体を縛っていた髪は少し力を緩めてくれたけれど、それでも強い圧迫を手足に与えてくる。その圧迫に何度も転びながらも、わたしはそのまま歩き続ける。
そのまま歩いていると、やっとわたしの目的の場所が見えてきた。
その場所にあるのは、庭園の隅にある牡丹の花。桃色の花びらは綺麗に咲き誇っていて、わたしの隣でひらひらと揺れていた。いつもだったらわたしはそれだけて喜んでしまうけれど、今はそんな気力もなくて。わたしは揺れる花びらをただ見つめることしかできない。

「ねえ見てみてなまえ〜!ほら、満開でしょ?」

わたしがこの場所に初めて来たのは、わたしが紅覇さまに拾われてすぐの時。あの時のわたしはまだまだ紅覇さまの隣にいることが不安で…きっと優しい紅覇さまは、そんなわたしを心配してこの場所に連れて来てくれたのだろう。それからわたしは、この牡丹の水やりの仕事を任されるようになった。
また痛みで少しずつ意識が薄れていく中、わたしの頭に巡るのはやっぱり彼のことで。

「え!?おまえ牡丹初めて見たの?ふうん〜じゃあよかった。今の牡丹は一番綺麗だからねぇ。」

牡丹の花を背に笑った紅覇さまはとても綺麗で、紅覇さまに慣れていなかったわたしは何も喋れなくなる程動揺してしまったんだっけ…それに、桃色の花びらは紅覇さまによく似ているのだ。どこか掴めない時もあるけれど、いつも優しくて、綺麗なあの人。

「おまえここ気に入ったんだ〜?随分楽しそうにしてるからさあ。じゃあ、この牡丹はおまえに任せるよ。」

わたしの中の紅覇さまがにっこりと微笑む…わたし、紅覇さまに笑いかけてもらうの、とっても好き。できることならもう一度、紅覇さまに笑いかけてほしい。もう一度名前を呼んでほしい。

「なまえ!!」 

ふわふわと浮かぶ意識の中で大好きな声がわたしのなまえを呼んだ…この声は。ゆらゆらと揺れる視界に少しずつ映るのは、綺麗な桃色ときらきらした瞳。

「何やってんだよ!この馬鹿!!」

ああ、紅覇さまだ。

***

"なまえの力が暴走している"…純々達が魔法の力によってそれを知り、紅覇に伝えた時には、もうなまえの姿は反応のあった書物庫から消えていた。書物庫に残されていたのは、一人の少女がやったとはとても思えない大きな傷跡と、本棚から落ちた大量の本だけ。理由はわからないが、これをやったのは恐らく暴走したなまえの筈。動揺する気持ちを抑え、まずは手分けしてなまえを探すように純々達に指示した紅覇だったが、そう指示した後、彼自身も思わずその場に座り込んでしまった。紅覇の頭に渦巻くのは言うまでもなく真っ白で小さな従者、なまえのこと。彼は深い溜め息と共にその手で自分の頭を抱えた。

「なんなんだよ…」

苛立ちを含んだその言葉は、真っ白になっている紅覇の頭の中からそのまま出たものであった。彼が思い返しているのは、先程見た異様に荒らされた書物庫。ぱっと見たらただ荒らされているように見えた書物庫だったけれど、大きな木の本棚に残された大きな傷跡は、よく見ると何かを抑えるような、もがくような痕跡が残っていた。それを見た紅覇の頭に浮かんだのは、涙を流しているなまえの姿…彼女は、とても優しい少女だから。本当は部屋をあんな風にしたくなんてなかった筈。あの部屋から彼女の姿が消えていたのも、きっと紅覇や純々達に迷惑をかけたくないからだろう。本当は一人で苦しくて苦しくて、堪らない筈なのに。

「なまえの馬鹿…なんで一人で抱え込んでんの。苦しいのに、なんで言わないの。」

紅覇は口元に痛々しい笑みを張り付けながら一人、呟いた。彼の綺麗な手のひらは、同じように綺麗に手入れされた桃色の爪が刺さって血が滲んでいる。

「…僕じゃだめなの?」

小さな声で呟かれたその一言は、紅覇の中の様々な感情が詰め込まれたものだった。
一人きり、苦しい気持ち、認めてもらえない苦しさ。孤独。"愛されたい"という気持ち。なまえが抱える様々な思いを紅覇は痛いほどに理解していた。何故なら自分も同じ思いを抱いていたから。妾の子として生まれて、いつの間にか母親は狂気に飲まれてしまって。そんな母親によく似てしまった自分はなかなか"愛"を貰えなくて。でも、色んなひとと出会って、少しずつ変わることができて。けれど、やっぱり不安を覚える時もあって。

「わたしがこうやって綺麗な格好で過ごせるのは、全部全部紅覇さまのおかげです。紅覇さまが褒めてくださったこの髪も、ここまで綺麗になったのは紅覇さまがいたからです。」

そんな時、なまえのさり気ない言葉にとても安心感を覚えて。

「おまえは、ずうっと僕の傍にいればいい。言葉も意味も、ぜんぶ僕があげる。」

紅覇となまえ…よく似たところがある二人。けれど根本的に違うところもある。だから噛み合うのだ。
記憶の中のなまえが、真っ白な髪を揺らしながらにっこりと微笑む。紅覇はなまえのこんな笑顔が好き、だった…否、今も好きなのだ。彼女の自分に向けられる笑顔はいつも真っ直ぐで、輝いていたから。紅覇は少しだけ涙が溜まった瞳をごしごしと擦り、真っ直ぐ前を向いて立ち上がった。まだ少し"幼い"彼だが、幼いからといって子供らしくここで泣いている訳にはいかないのだ。

「…なまえ。僕が、迎えに行くから。」

真っ直ぐ前を向いた彼には、先程の迷いと自分に対しての苛立ちが滲んでいた顔はどこにもない…なまえが次に行きそうな場所。少し考え込んだ紅覇はふとある場所が思いついた。
ひらひらと揺れる牡丹の花びら。なまえが従者になって間もない頃。不安ばかり滲む彼女を少しでも楽にしてあげたくて、連れて行ったお気に入りの場所。また来ようと約束をしたあの場所。

「ねえ、今行くよ。なまえ。」

***

「なまえ。」

彼の、大好きな紅覇さまの声がわたしの名前を呼ぶ。紅覇さまがまたわたしの名前を呼んでくれた。わたしを探してくれた。見つけてくれた。
わたしはそれがただ嬉しくて、思わず瞳から熱い涙が溢れた…でも、わたしは最後に、紅覇さまに会えただけでしあわせだから。もしこれ以上紅覇さまと近付いたら、わたしの暴走している力で彼を傷つけてしまうかもしれない。実際わたしの身体を締め付けていた真っ白い髪は、わたしの首まで締め付けてくるようになっていた。くるしい。けれど、紅覇さまがいてくれるなら、わたしは怖くなんてないの。

「ごめ、なさ…紅覇さ、ま。わ、たし。」
「はあ!?なまえ、おまえ何馬鹿な事言ってんの?」

紅覇さまから距離を取るために最後の力でわたしと紅覇さまの間に壁を作ろうとしたけれど、弱っているわたしが作った壁は紅覇さまの大剣の一太刀で崩れ去ってしまう…こっちへ来たらだめなのに。傷つけてしまうかもしれないのに。
そんなわたしの意志とは関係なく、わたしの髪は、鋭い剣となって紅覇さまに襲いかかる。その攻撃を次々と避けていた紅覇さまだったけれど、前後左右、同時に襲いかかってきた髪を避けることができずに、全身に切り傷を負ってしまった。傷口から流れる真っ赤な血に、わたしは気が狂いそうになる。

「いや…やめて、紅覇さま。わたしに近付かないで…」
「そんなの聞けるわけないじゃん。」
「でも…怪我しちゃう。」

一言一言、会話を交わしていくにつれて、わたしと紅覇さまの距離は少しずつ縮まっていく。けれどそれと同時に紅覇さまの怪我も増えていっていた。
わたしが守りたいと願った紅覇さま。お役に立ちたいと思った紅覇さま。だいすきな紅覇さま。わたしは、一番大切なひとを傷つけたくなんかないの。

「もう、やめて……!」

わたしは嗚咽まみれの声で叫んだ。それと同時にわたしを縛っていた髪が緩み、紅覇さまを攻撃していた髪も力をなくしたようにこちらへと戻ってきた。
残ったのは桜の木の前にうずくまる、わたしひとりだけ。

「…ねえ、なまえ。」

紅覇さまの声がわたしに呼びかける。けれどわたしは、その声に顔を上げることができない。だって今のわたしは、紅覇さまの隣に並ぶことができないくらい醜い姿をしているから。

「紅覇さま…ごめんなさい。わたしは、結局人を傷つける事しかできない、醜い化け物です。いくら綺麗にしたって、わたしが化け物なのは変わらなかった。」

ぎゅっと握り締めた手の上に、溢れた涙が落ちる。脱色して白くなった髪。血のように真っ赤な目。紅覇さまに出会うまで、わたしはこの容姿が大嫌いだった。だってこれは、人であることを捨ててまで努力しているのに何ひとつ得られなかった証拠だったから。けれど紅覇さまに出会って、こんなわたしを紅覇さまは必要としてくれて、綺麗だと言ってくれて。わたしは、自分の容姿が好きになった…でも結局、全部全部だめだった。

「人をたくさん傷つけて、大切な人も守れなくって…こんな、こんなわたしなんて、いなくなっちゃえば…っ!」

そう言いかけた瞬間、わたしの頬に鋭い痛みが走った。目の前には紅覇さまの怒った顔。わたしはなにが起きたのかよくわからなくて、痛みが走った頬を手で押さえた。

「なまえ、いい加減にしなよ。」
「紅覇…さま。」
「自分は醜いとか化け物とか、いなくなればいいとか、何言ってんの?なまえは、自分が選んだ選択を自分で否定するの?」

紅覇さまの鋭い視線がわたしに突き刺さる。その視線からは逃れることができなくて、わたしは俯いて顔を上げるしかなかった…けれど、顔を上げて紅覇さまと目を合わせたわたしは、彼を顔を見てぎょっとした。

「なまえが、いなくなっていいわけないだろ…!!」

紅覇さまも、その綺麗な瞳からぽたぽたと涙をこぼしていたのだ。そんな彼の姿をぽかんとして見ているわたしに、紅覇さまはなまえともう一度わたしを呼ぶ。

「ねえ、知ってる?僕だっておまえに必要とされたいんだよ。」
「…え?」
「おまえは自分のことを醜いって言うけど、僕はそうは思わない。おまえは綺麗だよ。それに強い。そんなおまえだから、僕は傍にいて欲しいと思う。」

そう言った紅覇さまはそのままわたしの手を引いて、わたしを彼の胸に閉じ込めた。ぎゅっと回される腕…やっぱり、何度触れても紅覇さまの身体はいつも冷たいわたしの身体とは全く違ってあたたかくて。その熱を貰って、先程までまるで止まっているかのようだった心臓が音を立てて動き出す。

「やっぱりおまえは、ちっちゃくてひんやりしてて、気持ちいいや。」

くすくすと笑っている紅覇さまの声を聞きながら、わたしも彼の背にゆっくりと震える腕を伸ばす。

「紅覇さま。」
「なあになまえ。」
「わたし、これからもお傍にいていいですか?」
「当たり前でしょ?何言ってんの、おまえ。」
「わたし、紅覇さまにいっぱい怪我を負わせてしまったのに…本当にいいんですか?」
「ん〜?まあそれは、後でゆっくりお仕置きしてあげるから楽しみにしてて。ね?」

そう言いながら色っぽく笑って見せた紅覇さまは、自然な動作で彼の肩に埋まっていたわたしの顔を上げた。そしてその細い指でわたしの頬をなぞる…その感触にどきどきしてしまうのは、しょうがないことだと思う。
にっこりと笑みを浮かべる紅覇さまに見とれていたわたしだったけれど、次の瞬間。わたしの額に柔らかい感触が走った。

「こ、紅覇さ…っ!」
「あはは、おもしろ〜い。なまえ真っ赤だねぇ。」

まるで滑るようにわたしの額に口付けをしてしまった紅覇さまは、思わず真っ赤になるわたしを見てまたくすくすと笑いをこぼしている。なんだかとても恥ずかしいけれど、頭が沸騰しそうなわたしは紅覇さまに何か言うことなんてできなくて。

「なまえ、……」
「…え?」
「…なんでもなーい。」

真っ赤になって額を押さえながら固まっていたわたしは、紅覇さまの意味深に動く唇に気がつくことができなかった。首を傾げているわたしに対し、紅覇さまはやっぱりちょっぴり色っぽい笑みを見せている。何を言っていたのかは気になるけれど、紅覇さまは満足そうだから、いいのかも。

「これからどんな事があったとしても、わたしは紅覇さまのお傍にいます。あなたはわたしに何よりも綺麗な愛を与えてくれた、誰より大切なひとだから。」

心の中で小さく呟いたわたしは、先程までは震えていた腕を優しく彼の背に回してゆっくりと目蓋を閉じた。

春が来るのはあなたのせいです

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