夢のような木漏れ日が差し込む深い森の中。そんな森でなにも知らないような、きょとんとした表情でこちらを覗き込む動物達。
その光景はわたしが幼い頃、捨てられた時の記憶。捨てられた時の記憶なんてすぐに忘れてしまいたくなるような悲しい悲しい記憶の筈なのに。わたしは捨てられた時の記憶を断片的に、けれどしっかりと覚えていた。
一定のリズムで揺らされていた身体が突然草の上に落とされ、その衝撃で目を覚ました瞬間。目に飛び込んできたのは手を差し伸べるかのように差し込んでくる光と、一面に広がる緑の色。隣に誰もいないということを理解したとたんに襲ってきた怖さや不安…誰もいない森の中で独りきり。
そんな記憶の中でも強く強く、どんなに忘れようとしても脳裏焼き付いて離れないのは、自分が"いらないもの"だということを知ってしまった時の恐怖感と"独りぼっち"の怖さだった。

***

「あ、れ…?」

今から何十年も前の懐かしい夢を見ていたなまえは、優しいなにかに手を引かれるようにゆっくりと閉ざしていた瞼を開けた。まだぼんやりとしている視界にまず映ったのは、いつものようにお茶の用意をしている義妹の浜路の後ろ姿。そんな後ろ姿をぼうっと見つめながら起き上がると、なまえは自分の体の上にブランケットがかけられていることに気がついた。ブランケットを見て思い出すのは、つい先程まで読んでいた本の行方。寝起きのぼうっとした頭できょろきょろと周りを見回すと、見慣れた本がサイドテーブルに置かれていることに気がついた。なまえがつい先日浜路から借りたばかりの、通常の本より何倍も分厚い本。それらの要素を見てようやく、なまえは自分が居間のソファーでこの本を読んでいて、それで眠くなって眠ってしまったということを思い出した。
なまえがぼんやりしながら記憶を辿っている間に、お茶を机に運んでいた浜路も眠りから覚めたなまえに気がついたようだ。ふわふわの赤毛を揺らしながら可愛らしい顔でなまえへと視線を映した浜路は、あら?と首を傾げてなまえに問いかける。

「起こしちゃった?」
「ん…だいじょ…ぶ。」
「そう?顔色悪いわよ…嫌な夢でも見た?」

浜路の問いかけを聞いたなまえは先程見た懐かしい夢を思い返しながら、確かに嫌な夢かもしれないと少しだけ目を伏せる。そんななまえを見かねてなまえを安心させるように笑みを浮かべながら手を握った浜路に、なまえは浜路がいてくれてよかったと改めて感じた。

「うん…でも、もう大丈夫。ありがとう浜路。」
「そう。それならよかったわ。なまえったら、小さい頃から怖い夢に人一倍弱いんだもの。」

肩をすくめながらちょっぴり呆れたように言った浜路になまえも自分のことながら呆れてしまい、思わず苦笑をこぼした。なまえが先程夢で見た懐かしい記憶…あの記憶は、今から何十年も前のこと。なまえが大塚村で暮らす前の話だ。
なまえが夢での出来事を思い出しているうちに手を止めていた浜路も今お茶淹れるわね、と再び手を動かし始める。そんな浜路を見つめながらなまえもようやく眠っていたソファーから立ち上がり、浜路がお茶を運ぶテーブルへと向かった。今朝浜路が摘んで来た花が飾られているテーブルに近づくと、鼻をくすぐるお茶の不思議な香り。そんな香りを感じながら席に着いてふと窓の外を見たなまえは、外でなにやな言い争っている声が聞こえて来ることに気がついた。それらの声は、まず一つはなまえが昔からよく知る聞き慣れた声で、もう一つは見知らぬよく知らない声だ。

「この声は…信乃の声……?」
「ふふっ、そうみたいね。お茶の準備もできたしそろそろお客様をお呼びしましょうか。」

ようやくお茶の準備を終えた様子の浜路はポットを片手に持ちながらにっこりと可愛らしく笑い、居間の窓から顔を出した。

「善幸さん、鉄二さん、武さん。こんにちは。普段聞かない大きな声だから、誰だか判らなかったわ。」

浜路の声を聞いた村人の少年達は、はっとして照れて真っ赤になった顔のまま振り返る。彼らが林檎のようになっていることに気がついているのかいないのか、浜路は次に木の上にいる黒髪の小柄な少年…なまえと浜路の幼なじみである信乃に向けて声をかけた。

「しーちゃん!!お茶淹れてみたの、はやく降りてきて!!」
「へーへー」
「あ、よかったら三人もお茶、いかがですか?」
「ハ…ハイ!!喜んで!」

まさか浜路に誘われると思っていなかったのか、少年達は赤くなっていた顔を更に赤らめて裏の玄関へと走って行った。そんな彼らに呆れたような溜め息をつきながら木の上から降りてきた信乃が続く。少し気怠げに木から降りた信乃は居間を出た時には眠っていたなまえが目覚めていることに気がつき、そのまま声をかけた。

「あ、なまえ起きたんだ?」
「ん…さっき目が醒めたの。」
「お前ほんとよく寝るよな。まだ眠そうだし…」

なまえが目を擦りながら答えると、信乃は呆れたような目で窓越しになまえの顔を覗く。普段と変わらない会話を交わしながら、いつの間にか窓を飛び越えて定位置であるなまえの隣の席に座った信乃。信乃となまえが会話を交わしている間に向かい側には少年達が座っており、彼らは顔を見合わせながらこそこそと話を始めた…いくら声を小さくしていても、向かい側には丸聞こえだったのだが。 

「な、なぁ、そこに座ってる子って噂のなまえだよな…!」
「浜路にもお茶に誘われたし俺達超ラッキーじゃね?」

少年達はまずお茶を注いでいる浜路に、次になまえに向けて少年独特の好奇心に満ちた視線を向ける。好奇心だとしても絡みついてくるような視線が苦手ななまえは、視線から逃げるように俯いてしまった。そんななまえを見かねたのか、少年達のカップにお茶を注ぎ終えた浜路はにっこりと優雅な笑みを見せながら口を開く。

「さあ、どうぞ遠慮なく召し上がって。」
「あ…い、いただきます!!」

浜路に言われるまま、淹れられたお茶を口にした少年達は、あっという間にばたばたと椅子から転げ落ちた。それを向かい側で見ていた信乃は見る見るうちにその口元をひくつかせ、自分の目の前にあるカップを見つめながら浜路に向けて尋ねる。

「…本日のお茶…って、コレナニ?」
「センブリとどくだみと高麗人参とスッポンの血のブレンド。体にいいわよ?」

浜路の説明を聞いてますます口元をひくつかせ、加えて眉間まで皺を寄せた信乃だが、それに対してなまえは恒例のようにカップに口をつける。その瞬間口の中に広がった浜路こだわりの様々なもののハーモニーに、なまえはぱあっと目を輝かせた。

「わ…不思議な味!」
「おま…不思議な味って、もうこれ不思議越してるだろ…」

なまえの感想を聞いて、こちらも恒例のようにしっかりと突っ込みを入れた信乃。端に置いてあるカップに好奇心で口を付けた村雨はというと、すぐさままずっ、と嗄れた声をこぼして飲んだお茶を吐き出している。

「ったく、なまえはほんっと味覚音痴だよな…」
「そうかな…?自分ではあんまりわからないけど…あ。浜路、お茶おかわりいただきます。」
「はーい、どうぞ。」

浜路に声をかけてポットの中身を覗き込んだなまえは、ポットの中にまだまだ入っているたくさんのお茶を見て嬉しそうに口元を緩める。そんななまえの様子を見ていた信乃は、信じられないとでも言うように眉を寄せていた。

「…オレ、見てるだけで十分だわ。」
「ちょっと、捨てたら許さないわよ。」
「う…」
「え…信乃いらないの?じゃあわたしが飲んじゃうよ…?」

なまえの言葉に一瞬だけきらきらと目を輝かせた信乃だったが、そんな信乃をぎろりと睨んだ浜路の視線を感じて信乃は即座に目を伏せる。

「オ、オレ、こいつら片付けてくるわ!」
「あ、ちょっと信乃!!」

逃げるように少年達を担ぎながら開いていた窓から外へ出て行ってしまった信乃…一体どこへ連れて行くのやら。しかし、このお茶会が終わるまで戻って来ないのは確実だろう。遠のく足音にまず溜め息をついたのは、お茶会の主催者である浜路。

「…信乃、後で覚えときなさいよ。」
「ふふっ、お手柔らかにね。」

そんな信乃の"変わらない"後ろ姿を見てなまえの脳裏に浮かんだのは……五年前の出来事。五年前からすっかり成長が止まってしまった信乃。なまえがふと隣に視線を向けると、浜路も窓の外をー信乃の"変わらない"姿を見つめていた。

「……もう、あれから五年も経つんだね…」
「…そうね。」

五年前。なまえ達が住んでいた村、大塚村に突然疫病が広まった。病気が広がらないようにと村は焼かれ、なまえ達は教会に引き取られた。
五年。決して短くはない年月が流れた今でも、なまえの脳裏には大塚村での最後の光景がこびりついている。

いかないで

あの日、あの時、あの場所で。なまえはただ、ただそう叫んだ。大切なものを失わないために。大切なものを繋ぎ留めるために…それから。

傍にいるよ。ずっと…私は、おまえの傍に。

…それから?脳裏に巡っていた記憶の中で、まるで上書きされるかのように鈴の音が何度も鳴り響く。一見可愛らしく聞こえるけれど、耳をすますと重みがあって……なまえにとってはどんな音よりも、優しい。でも、その鈴の音も、なぜだか記憶の中で響いてくる懐かしいような声も、今のなまえには聞き覚えのないものだった。
またも俯いているなまえの姿を見た浜路は、今度こそ心底心配そうにどうしたの?と尋ねる。浜路の手がなまえの肩に触れたと同時に鈴の音は鳴り止み、なまえは少しほっとしたように溜め息をついた。

「ごめんなさい…心配かけて。ちょっと寝不足かも。」
「もう…ならいいけど。無理しちゃだめよ?」

諭すようにそう言った浜路に対し、なまえは少し伸ばし気味にはーいと気の抜けた返事をする。そんななまえの声を聞いてまったくなまえは…とお姉さんのようにぶつぶつと続けられるお説教は、毎日の日課になっていた。
大塚村に引き取られる以前のことがまるて煙のように消えている幼少期。朧気な五年前の記憶。聞き覚えのない声。数え切れないほどの曖昧な欠片があったとしても、なまえには今、自分を支えてくれる幼なじみ達がいる…ただ、それだけで幸せだった。


まばたきのあいだに攫っていって
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