村雨の力によって壊された結界が消えて、先程は柵だけしか見えなかった教会本部が姿を現した。四家の屋敷を彷彿とさせる立派な西洋風の建物。その大きさは、流石教会本部と言ったところだろうか。やっと姿を見せた教会本部を見て、信乃は戻って来た村雨を自分の中に仕舞いながらふん、と鼻を鳴らした。

「なんか腹立つ位えらっそうな建物!あの里見にゃお似合いだけどな。」

早速そんなことを言った信乃に荘介はまったく、と思わず溜め息をつきたくなったが、そのまま信乃の話を聞く。

「とりあえず、二手に分かれよーぜ。荘介、お前は浜路探ししとけ!」
「信乃はどうするんです?」
「里見のバカを探し出す!それにアイツに会えば、召喚されたなまえの場所も分かるかもしれないからな。」
「確かに里見さんなら…」

信乃の計画を聞いて、荘介は納得したように頷く。
恐らく外の結界を壊したことは中にいる教会の人間も感づいている筈。それなら、"危険"とか言って他の場所に移動される前に早く見つけなければいけない。信乃は頭の中で考えを巡らせながら本部の入り口へと足を進める。
ふと頭に里見の姿を浮かべた信乃だったが、今信乃の胸に溜まっているのは里見への不満ばかり。信乃はその不満を吐き出すように、ちっとあからさまに舌打ちをした。

「あんのクソ男!なまえに浜路まで巻き込みやがって、全く使えねぇ!見つけたら後ろからどついてやる位しねーと…」

そんな信乃の言葉を聞いていた八房は、何故か"うしろから"という言葉に反応して、信乃をその大きな前足で後ろからどすっ、と"どついた"。八房不意打ちに信乃が反応できるわけもなく…わぶっ、というなんとも間抜けな声を出しながら地面とこんにちはしてしまった。そんな八房の行動に、信乃はすぐさま八房テメェ!と返す。その光景を荘介が呆れたように見ているのはいつものことだ。
けれど、彼らがこうしていられるのは今のうちだけ。教会本部では本部を守る美しい、けれど神様も裸足で逃げ出してしまう程恐ろしい、強力な"守護天使"が待ち構えているのだから。


荘介と別れ、本部に堂々と侵入した信乃。彼があまりに堂々と本部の真ん中を駆けていくので、聖書を抱えた真面目な本部の人間達がはっとした時には、もう信乃の姿は小さくなってしまっていた。
けれど"守護天使"はそんな信乃の姿を見逃さずに、しっかりと捉えていた。

「子供の侵入者とは珍しいな。それとも、その愛らしい姿は化け物が変化したものか?」

突然背後からかけられたその声に、信乃は駆けていた足を止めて振り返った。長い金色の髪に美しい容姿、そしてその手にはその美しい顔に似合わない槍を持っているその、女。全く感じなかった気配。
信乃は声をかけられた一瞬だけでその"女"が他の人間とは色々な意味で違うものだということを理解した。信乃は女に動揺を悟らせないように、ツンとした表情で静かに言葉を返す。

「…人を、探しに来ただけだし!用が済めばすぐ帰る!」
「人を?お前と関わりのある人間がここにいるとは思えんな。何よりお前は、人の匂いがしない。」

微笑を浮かべながらそう言った女に、信乃の中の村雨が反応する。信乃が心中で村雨を戒めるように言葉をかけても、村雨は全く聞かずに反応は大きくなるばかりだ…村雨が騒ぐ、ということは信乃にとって危険な状況だということ。
それを理解している信乃は女から少しずつ距離を取り、警戒を強めた。そんな信乃の"中"の物に気がついたのか、女はさらに笑みを深めながら信乃の腕を指さす。

「…それ、ずいぶん面白そうなものを飼ってるな。ちょっと私に触らせろ。」
「オバサン、それセクハラ。」

バッサリ。女の言葉を正に一刀両断した信乃。信乃は女は固まっているのをいいことに、さらに女との距離を開けた。けれど女…教会本部の"守護天使"であるリリスが、これだけで引くはずがない。
その美しい顔に青筋を浮かべている彼女は、持っていた槍を握り直しながら成程、と頷いた。

「あいにくここは治外法権でな。お前は子供の姿をしているとはいえ、ただの侵入者。しかも私は気の短い質ときた。」

リリスの言葉とともに、信乃の周りにバチバチと結界のような円が浮かびあがる。それを見てはっとした信乃は、すぐさまその場所から離れようとした。しかし。

「その腕、切り落としてからじっくり見させてもらおうか。」

次の瞬間、自分に向かって突き出された鋭い槍に、信乃は思わず目を見開いた。

***

一方、荘介はというと、要と一緒にいた浜路と無事合流することができていた。
結界が破られたことで浜路を移動する、という話もあったが、そこは要が五狐の力をちらつかせて押さえ込んだようだ。それよりも、今彼らの方でも話題になっていたのは、つい先程要が口にした"彼女に見つからないうちに"という言葉の中の"彼女"のことだった。
要が心配するほどの"彼女"は一体どのような人物なのか、純粋に疑問を感じた荘介は四白の姿から元の姿に戻り、要に尋ねる。

「"彼女"に見つからないうちに、とは、一体誰のことです?」
「んー。まあ、僕ら四家が教会の秘密兵器なら、リリス嬢は守護天使さ。
美人で力持ち。あの法力はちょっと僕らでも相手にしたくないね。」

五狐を従える要にそこまで言わせる"彼女"、リリス嬢。天使というだけではあまり恐ろしい印象がついてこず、荘介と浜路はきょとんとした顔で顔を見合わせた。

「彼女はフェネガン枢機卿の実の妹でもある。敵とみなせば顔に似合わず容赦はないよ。彼女はその為だけに兄、フェネガン氏の傍にいることを許されたのだから。」
「み…見つかったらどうなるの?」

リリス嬢の話で少し弱気になってしまった浜路は、荘介の腕を掴みながら要に尋ねた…しかし、それを見た要は一気に機嫌を損ねたようにむっと表情を変える。

「…あ、急になんだか何にも教える気がなくなっちゃった。」

そんな要の返答に、今度は浜路が機嫌を損ねたようで。浜路は彼が意識を飛ばさない程度に彼の首に手を伸ばす。じれったい気持ちは荘介も同じのようで、荘介は首を絞められている要をにこやかに見つめていた。

「浜路、一足先にあの世へご案内してさし上げるといいですよ?」
「このへんかしら?」

まさかもう信乃があの恐ろしいリリス嬢とかち合い、今も戦っている最中だとは知らない彼ら…もしも、"彼女"に見つかってしまったら。
あの気の短い天使に立ち上がることができなくなるまで痛ぶられるのは確か、である。

***

「はあ…ったく、酷い目に遭った…」

守護天使リリス嬢から命からがら逃げ出した信乃は、村雨の力を使ってまだ少しふらふらした体を押さえ込みながら、ただ必死に走っていた。逃げ出した、といってもあの凶暴な天使。少しでも油断したら見つかってしまうだろう…それに、次に真正面から戦ったら、今度こそ勝てる見込みはない。

「里見も、なまえも見つけてやらなきゃなんねーのに…!」

信乃は、まだ思い通りに動かない自分の体を恨めしく感じた。どうしようもない苛立ちを拳で壁にぶつけるが、残るのは結局苛立ちだけ。苛立っているだけではどうにもならないということに改めて気がついた信乃は、足は必死に動かしながら一度冷静になることにした。
この広い屋敷のどこかにいるなまえ。しかしこんな広い屋敷をしらみつぶしに探すのは時間と体力ばかりを喰う最悪のパターンだ。ここはやはり、まず里見を探すしかないのだろうか。

「っ、クソっ。里見のヤツどこにいんだよ。どうでもいい時はすぐ出てくる癖に!」

里見への悪態をつきなからひたすら走っていた信乃は、いつの間にか先程までいた場所とは一風変わった所へ来ていた。
美しい装飾が施された大きな窓が並ぶ廊下の先には、外の庭園が近くなる渡り廊下が繋がっている…リリスを撒けたはのはいいが、これでは自分が迷子になりそうだ。渡り廊下は庭園に繋がっているだけだろうと考えた信乃は、来た道を少し戻ることにした。方向を変えるために後ろを振り返ろうとした、その時。
ステンドグラスが反射する廊下の突き当たりで、見慣れた銀色が視界の端を横切った。

「…!!なまえ!」

銀色、その色で信乃が思い浮かべるのはなまえ一人しかいない。
自分が追われていることも忘れて彼女の名前を呼んだ信乃だったが、信乃の声に対する返答は、ない…けれど、確かに先程の"銀色"は信乃が見慣れているものだった。
渡り廊下へと続く長い長いステンドグラスの廊下。一本にひかれた赤い絨毯は、信乃もよく知っている教会の礼拝堂によく似ていた。

「……」

もしかしたらあの渡り廊下の先になまえがいるのかもしれない。自分を、待っているのかもしれない。
彼女の姿をはっきりと見た訳ではないが、信乃はなんとなく、本当にこの先になまえがいるような気がしてきた。
開いた窓から通り抜ける優しい花の匂い。そして、それと一緒に耳に入ってくる小さな小さな鈴の音。
村雨をぎゅっと握り締めた信乃は止まっていた足を上げ、その音の在処へと足を進めた。

***

礼拝堂によく似たステンドグラスの長い長い廊下を抜けた信乃は、やっと先程銀色がちらついた渡り廊下にたどり着いた。
ステンドグラスの廊下のあまりの長さに思わず溜め息をつきそうになった信乃だが、渡り廊下から見える庭の景色を見て、そんな溜め息も引っ込んだ。
閉鎖的な空間に青々と生い茂る緑。そして、きらきらとまるで光るように輝くたくさんの金盞花。別名、カレンデュラ。本来は春に咲くはずのカレンデュラは、夏だというのにどの花も生き生きと輝きを放っていた。
そして、そんな草花に囲まれた道の先にあるのは、小さな教会。小さいものの所々美しい装飾が施された建物は、この眩しい庭の中でも鈍くなることなく存在感があった。
そんな夢のような景色に珍しく見とれながら足を進めていた信乃は、小さな教会の扉の前に立ってみて、改めてその"音"の正体に気がついた。

「鈴の、音?」

小さいけれど、確かに信乃の耳に入ってくる鈴の音。その音は先程、あの"銀色"が横切ってから微かに聞こえていた音だが、意識していないとすぐに消えてしまって忘れていたのだ。
"鈴の音"…鈴彦姫。なかなかしっかりとした手がかりは見つからないが、信乃の中ではすっかりこの二つが繋がるようになっていた。しかしそれと同時に、なぜ鈴彦姫となまえが関係があるのか、疑問を感じていた。
"銀色の髪"も関係しているのかもしれないが、髪ひとつで付喪神である鈴彦姫が動くのだろうか。

「なまえ、」

信乃は静かに彼女を名前を呼び、小さな教会を見上げた。幼い時から守ってきた、とても大切な幼なじみ。

「…鈴彦姫がなまえ関係しているとしても、関係ない。俺はなまえを守る。」

信乃の前にある閉ざされた扉。扉の取手には銀色の鎖と南京錠が付けられていた。それを確認した信乃は迷いなく持っていた村雨を扉に突きつけると、扉に付けられていた鎖を…否。その"教会"に張られていた血生臭い結界を、破った。
がしゃん、とまるで硝子が割れた時のようなつんざく音が響いた後、術が施されていた鎖と南京錠が消え、閉ざされていた扉が静かに開いた。
信乃が開いた扉に手を伸ばした、その時。扉がまるで信乃を誘うようにゆっくりと開かれた。信乃はそれに驚きで目を見開くが、なにかを察したように開かれた扉をくぐり、その先にいる"彼女"を見据えた。

「"鈴彦姫"」

真っ直ぐな迷いのない声で呼ばれた自分の名前に、花が描かれたステンドグラスが輝く礼拝堂の中央にいた"彼女"は、桃色の唇に弧を描きながら信乃の方を振り返った。

「"信乃"、おまえなどに助けられるなんて、私も弱くなったものだな。」

礼拝堂の奥、きらきらと眩い光がゆっくりと晴れた後に現れたのは、長い銀髪を瞬かせる"彼女"、鈴彦姫。
初めて見るその姿はどことなくなまえに似ており、それに加え鈴彦姫独特の優雅な動作は信乃を圧倒させた。しかし、それだけで終わる信乃ではない。信乃はつい先程発せられた鈴彦姫の言葉にむっ、と眉をしかめながら反論する。

「"おまえなど"ってなんだよ!失礼な神サマだな鈴彦姫。」
「ふふっ。まあ今日は助けてもらった身でもあるし、その生意気な態度は許してやろう。」

信乃に悪態をつかれながらも態度を改めず、更に火に油を注ぐように小首を傾げ笑う鈴彦姫。そんな彼女に信乃は再びカチンときたが、ひとまずその怒りは抑え込み、本題に入ることにした。

「言いたいことは色々あるけど、まずは率直に聞く。なまえはどこだ?俺をわざわざここまで連れてきたのはアンタだろ。」
「…そうだ。私がおまえをここまで連れてきた。なまえを助けるために。」

信乃の言葉にそっと頷いた鈴彦姫は、礼拝堂に並ぶ最前列の椅子を指さす。信乃がそこに視線を移すと、椅子の端から見慣れた銀色がこぼれているのが見えた。それを確認した信乃は、すぐさま彼女の所へと走る。

「なまえ!」

名前を呼びながらなまえの隣へと向かった信乃。なまえは、椅子の上に横たわって眠っていた。ずっと探していた大切な幼なじみの姿を確認した信乃は、安心したようにはあ、と溜め息をつく。

「…ったく、よかった。心配させんなよ馬鹿なまえ。」

眠っているなまえに向かって、信乃はいつもどおり呆れたように笑ってみせる。そんな信乃の声が聞こえたのか、眠っていたなまえがぴくりと動き、それとともにゆっくりと閉じていた目蓋が開かれた。
瞳を開けたなまえは何度かまばたきをした後、小さな声で目の前にいる大切な"彼"の名前を呼ぶ。

「し、の…?」
「…遅くなってごめん。助けに、来た。」

不安げな声で名前を呼ばれた信乃は、先程までの呆れたような言葉も忘れ、珍しく本当の声をなまえに伝えた。
そんな言葉に、なまえは信乃の存在を確認するかのようにもう一度彼の名前を呼ぶ。

「ほんとうに…?」
「なんで嘘なんか言わなきゃなんねぇんだよ。本当に決まってんだろ。」
「…よかった。」

再び呆れたように言葉を返す信乃に、なまえは頬を緩ませながらそう言った。その声からは彼女のほっとした様子が伝わってきて、思わず信乃も頬が緩む。

「信乃…助けに来てくれて、ありがとう。わたし、本当に本当に嬉しい。誰も助けに来てくれなかったらどうしようって、ずっと不安だったから。」

横たわっていた身体を起こして、少し涙ぐみながら笑みを見せるなまえ。そんななまえの姿を見て、信乃は彼女の腕を引いてぎゅっと抱き締めた。それは、いつもとは少し違った意味のもの。
五年前から成長が止まってしまった信乃と、あれから五年分成長したなまえ。しかし、やはり"少女"であるなまえの体は小さく、十三歳の信乃の腕でしっかりと支えることができた。

「そんなわけないだろ、馬鹿なまえ!皆、お前がいなくなったら心配するし、お前が見つかるまで死に物狂いで探すよ。荘だって浜路だって…もちろん、俺だって。」
「そう、なのかな…」
「当たり前だろ!!だから、一人で俺の傍から離れるな…隣にいてくれれば、俺が守ってやるから。」

消えてしまいそうななまえを抱き締めながら信乃が言ったのは、紛れもなく信乃の本心。それを聞いて一瞬目を見開いたなまえだったが、そっと目を閉じて安心したように頷いた。
そんな二人の後ろで、きらきらと瞬いていた銀色が小さな音を立てて、消えた。

***

「し、信乃…」
「ん?なになまえ?」

信乃に手を引かれながら、先程まで閉じ込められていた小さな教会を抜けたわたし。そこまではいいのだけれど、わたしがとてもひっかかっているのは、その小さな教会から信乃が平然と持ってきてしまった"神楽鈴"だった。
神楽鈴、別名巫女鈴。神楽鈴として有名なのは、中心の棒に取っ手とその上部の3段に分けて、小さな鈴を取り付けた"七五三鈴"だろう。
でも、今はその"神楽鈴"の形状が問題なわけではない。一番問題なのは、教会にあった"神楽鈴"の封印を勝手に解いてしまった挙げ句、その"神楽鈴"を今、ここまで持ち出してしまっていることだ。今現在もわたしの手にある神楽鈴。教会本部の人に問いただされたらどうしようだとか、これが原因で里見さんに迷惑かけたらどうしよう、なんておどおどと考えているわたしに対し、この鈴を持ち出した本人である信乃は持ち出したことがなんでもないことのようにけろっとしている。

「こ、この鈴、本当に勝手に持ってきてよかったのかな…?一応封印してあったものだし…」
「いーんだよ。つか、その鈴は本来ここにあるべきじゃないし、それを封印してあった結界も、その鈴の力を無理矢理抑え込むものだった。そんな結界が張られてる場所にいるよりは、なまえのとこにあった方がそいつもいいだろ?」
「そう、かな…」
「そーそー。お前が心配することはなんにもないって。」

信乃の言葉に、わたしはもう一度手の中の神楽鈴を見つめた…ちりん、わたしの手の中で鳴る優しい音。わたしは、この鈴の音を知っている。
鈴。わたしにとって様々なものを感じさせる特別なもの……わたしの手の中にある神楽鈴。その音は、わたしが帝都に来てからみたたくさんの夢の中で響いていた、優しい鈴の音、である。
"鈴彦姫"
なぜだかとても懐かしくて、優しい響きのするその名前。わたしは彼女ときちんと話をしたことはない、けれど…わたしの夢の中に出てきた鈴の音の正体はきっと彼女のはずだ。わたしと同じ銀色の、星の色の持ち主。

「…それより、俺達がまず心配しなきゃいけないのはまず"ここから出られるか"だろ?」
「わっ…!」

一人思考を巡らせていたわたしは、いきなり信乃に手を引かれて、驚きで思わず声を上げてしまった。しっ、と唇に人差し指を持っていく信乃に、慌てて自分の声を抑えて耳をすます。すると、わたし達がいる場所のすぐ隣から複数の声が聞こえてきていることがわかった。

"刀を持った侵入者を探せ"
"人質の方はどうなっている"
"リリス様が小僧をお探しだ"

聞こえてくる会話の内容は、どれも"侵入者"であるわたし達を表すもの。その中でも"リリス"という女性が信乃を探している、というのは何度も聞こえてくる言葉だった。
信乃が追われているという"リリス"を知らないわたしは、声のトーンを抑えながら彼女のことを信乃に尋ねてみた。 すると信乃はあからさまに嫌そうな顔をしながらあー、と思い出すように話し出す。

「教会本部の"守護天使"。」
「守護天使?」
「侵入者をとっつかまえて喰っちまう怪力のオバサンだよ。」
「お、おばさ…?そんな人に会って大丈夫だったの?」

と、わたしがそう尋ねたところで曲がり角の向こうから、小僧はどこにいる!!と聞いているだけでも恐ろしい、ドスの利いた声が聞こえてきた。
それを聞いてまさか、と思って隣の信乃を見るとその予感はどうやら当たっていたようで、信乃はマジかよ、と呟きながら頭を抱えている。どうやら、信乃をここまで唸らせるほど"守護天使"は厄介なひとらしい…名前だけだったらとても優しそうに見えるのに、ね。

「とにかく、逃げるぞなまえ!あのオバサンに見つかってまた正面から戦うことになったら、マジでヤバイ!走れるか?」
「うん、わたしは大丈夫。」
「よし。なら行くぞ!」

頷きながらそう言った信乃は、握られていたわたしの手を離れないようにぎゅっと握って、長い長い廊下を走り出した。その速さに最初は驚いたわたしだったけれど、繋がれた手のおかげでなんとか信乃の後に続く。
本部の"守護天使"とまで言われる人がわたし達を追っていると聞いて少し不安もあったけれど、信乃が隣にいるだけでなんでも大丈夫、という気がしてきた。
そのまま次の曲がり角を曲がろうとした、その時。
突然横から手が伸びてきて、その手はぐっと信乃の首根っこを掴んだ。信乃はぐえぇっ、となんとも苦しそうな声を出したが、その力が少し緩むと手が伸びてきた方向に向かってすぐさま怒鳴りつける。

「テメ…何しやが…」

信乃と一緒に後ろを振り向きかけたわたしは、ちらりと後ろに見えた真っ黒なオーラを放つ影を見て、ひ…と情けない声を出しながら振り向きかけた顔を戻した。どうやら、隣の信乃も凄まじいオーラを放つ"彼"からは目を逸らすことにしたようだ。
そんなわたし達を見て容赦などする筈もない"彼"、里見莉芳は、わたし達に言葉を続ける。

「ほーお、楽しそうだな。ずいぶん命懸けの鬼ゴッコじゃないか。
ん?二人とも。楽しいか、そうか。よかったな。」

普段からなんだか不思議なオーラを醸し出している里見さんだけれど、今回は不味い。その証拠に、まず彼の淡々とした声に先程のリリスさんと同じくらいの威圧感がある……こ、これは、絶対振り向いちゃだめ、だ。
とんでもない威圧感がある里見さん。けれどこのまま黙っているわけにもいかず、まず信乃がい、いや…と控えめに話し出した。

「俺と荘介となまえに本部からの召喚状が届いたっていうし、浜路はお前に呼び出されて本部にいるっていうし…挙げ句なまえまで捕まってるし……」
「…それで?わざわざ派手に登場という訳だな?」
「あーいや…」

一方的に押される信乃が見ていられなくなったわたしは、頭にはなにも浮かんでいないけれど、とりあえず里見さん、と彼の名前を呼んだ。そんなわたしの声に、当たり前だけれどぎろりとした視線が向けられる。

「どうしたなまえ、お前も何か言いたいことがあるのか?なら私もお前に言いたいことは山ほどあるぞ。」
「う…」
「私は前にも言ったぞ。教会の爺共がお前を狙っていると。にも関わらず一人でふらふらして捕まるとは…お前は馬鹿か?」
「は、はい…ごめんなさい…」

…なにも考えずに里見さんに反論しようとしたわたしが馬鹿でした。
里見さんの言葉を聞いて、わたしの頭に浮かんだのは勿論反論ではなく謝罪だった。そんなわたしを隣で見ていた信乃は隣から同情の視線を送ってくる…な、なにもできなくてごめんね、信乃。

「…それにお前達、次は"なにを"拾ってきた?」
「…え?」

ちくちくと刺さる視線を信乃とわたしに向けていた里見さんは、しかめていた眉を更にしかめながらわたし達に問いかける。その問いに、わたしは"それ"を握っていた手に力が入った。
"なにを"拾ってきた、その問いの答えはわたしと信乃、どちらもわかっていた。だってこの場所で"拾った"ものは先程の"神楽鈴"だけ。やっぱり、勝手に持ってきたのはまずかっただろうか。
一気に不安が増したわたしだったけれど、そんな予想とは違い、里見さんの返答は…まあいいか、というあまりにあっさりとしたものだった。その返答に信乃と顔を合わせながら里見さんは相変わらずマイペースだなあなんて呑気に考えていたわたしだったけれど、次の里見さんの様々な裏の意味が込められた言葉を聞いて、抜けそうになっていた気が再び戻る。

「…信乃になまえ、二人揃って立てずともいい騒ぎを引き起こして私の面倒を増やしてくれた訳だ。ありがたくて涙が出るな。」
「やーそれほどでも。」
「し、信乃…!」

今ここで変な冗談を言ってしまったら絶対里見さんから雷が落ちるのに、また懲りずにおちゃらけた態度をとってしまった信乃。わたしが信乃を止めた時にはもう遅く、今ので今まで怒りを抑えていた里見さんの堪忍袋の尾が切れたようだ。どこからか聞こえたようなぶちっ、という音とともにごつん、とわたしの頭に降ってきた拳…わたしの方に降ってきたそれもなかなか痛かったけれど、隣からは更に痛そうな音が聞こえたので、頭を抱えている信乃はそれはそれは痛かったのだろう。
頭をさするわたし達を見て少しはすっきりした様子の里見さんは、わたし達が来た方向の様子を伺いながら口を開く。

「誰かに顔を見られたか?」
「え…と二、三人とおっかない金髪のオバサン。」

信乃の言葉にオバサン?と聞き返した里見さんだが、彼の僅かにひきつった表情からしてどうやら心当たりがあるようだ。

「ヘンな槍だか鎌だか持った女だよ。俺、危うく殺されるトコだったんだからなー」
「……」

信乃からしては"オバサン"である彼女の詳細を聞いた里見さんは、無表情のまま黙ってしまった。勿論わたしもその"彼女"の怖さは先程信乃から聞いたので知っている…でも、里見さんまで黙らせてしまうなんてやっぱり恐ろしい方のようだ。

「…信乃。つくづくお前は運がいいのか悪いのか…守護天使に見つかって無事に逃げ果せたのはお前くらいだ。」
「無事じゃねー!殺されるトコだったって云ってるじゃん!!大体"天使"って顔か!!あの女っ。」
「名前だけだと優しそうなのにね…」
「悪魔のよーな女だった!!」

"守護天使"リリス嬢本人に聞かれたらただでは済まないような散々なことを話していたわたし達だったが、ふと、里見さんがなにかに気がついたように周りの様子を伺いながら黙り込んだ。
一体何事かと里見さんに尋ねる前に、信乃とわたしの上に里見さんの長いマントが被せられる。

「黙ってろ。」

里見さんが小声でそう囁いた直後、入れ替わりで聞こえてきたのはヒールの乾いた音。マントの隙間から僅かに見えたのはきらきらと揺れる金色の髪と長い鎌。噂をすれば、"守護天使"だ。

「莉芳!!お前子供を見なかったか?赤とグレーの上着を着た…それに先程聞いたのだが、召還していた例の銀色の女も消えたようなのだ。なにか知らないか?」
「…いえ。」

赤とグレーの上着を着た子供、消えた銀色の女…間違いなくわたし達のことだ。
わたし達がここにいることをあっさりと隠した里見さんだったが守護天使には嘘が通じないらしい。彼女は彼の答えを聞くなり、その整った顔の口元にゆるやかな弧を描いた。

「そうか?人間以外の匂いがこちらからするんだがな。お前は気づかないか?」
「…さあ?私には馴染みのありすぎる匂いなので何とも…」

その言葉と同時に出てきたのは里見の犬神である八房。本来この場所は"ただひとつの神"しか受け入れることのない場所だと聞いたけれど、ここに八房がいるということは恐らく村雨の影響だろう。
ふと隣の信乃の様子を伺うと、先程までは元気そうだった信乃はなぜか苦しそうに頭を抱えていた。息も荒い。突然のことにわたしは思わず大きな声を出しそうになるけれどここでバレたらせっかく里見さんが助けてくれたのに、意味をなくしてしまう。
わたしはこうしている間にも苦しそうに息を乱す信乃の背をさすった。

「信乃っ…どうしたの?苦しいの?」
「だい、じょぶ…だ。」
「信乃…」

信乃は身体の中にいる"なにか"を抑えつけているようにも見えた。その苦しさを表すように、信乃の拳にぎゅっと立てられた爪は痛々しく肌に刺さっている…わたしは、今信乃になにをしてあげられるだろう。いつも信乃に助けてもらってばかりのわたし。つい先程もまた助けてもらった、手を差し伸べてもらったわたし。いつもそう。わたしは信乃に小さなことしかしてあげられないけれど…それでも、力になりたいから。
わたしは握られた信乃の手のひらの中に自分の手を重ねた。信乃の手のひらに立てられていた爪は今度はわたしの手に刺さった。その痛みからは信乃の苦しみが伝わってきて、ぎゅっと胸が締め付けられる。

「…わたしが、まもってあげられたら、」

簡単には叶うことのない願いを、わたしが小さく呟いた時だった。

「やあ、"八房"か。犬神の姿を拝めるなんて実に何年ぶりだろうね。今日はとても運がいい。」

この張り詰めた空間に似合わない、やけにのんびりとした声がその場に響いた。その声に誰よりも早く反応したのはリリス嬢。

「…兄上、兄上は子供を見かけませんでしたか?」
「うん?この子達のことかね?」

やけにのんびりとした声をした初老の男性は、リリス嬢の問いに傍に付けていた子供を見たが、彼女はいいえ、と首を振る。

「兄上が無事なら結構です。子供は誰かを探していたようでしたから。妙な刀を持っていたので気をつけて。」
「刀?」

目の前で交わされる会話に、少し落ち着いてきた信乃は村雨が封印された腕を苦い顔で押さえた。

「子供が持つには不相応なものです。」
「それはそうだが…逃げられたのかい?お前が?」
「油断しました。何しろ、見かけはとても愛らしい子供の姿でしたので。」
「ほー!ゼヒそれは見てみたかった。」

信乃を警戒するような会話から、一変。リリス嬢と男性の会話はなんだか聞き慣れたような会話に変わってしまった。それには隣の信乃もぶすっと不機嫌そうになり、上の里見さんからはなんだか呆れたような気配が伝わってくる。

「それに、本部に召還していた銀色の女も逃げられてしまったようなのです。」
「おや、巫女にもかい?」
「ええ。子供が銀色の女と一緒にいるのを見た、という話も他の者から聞いたのですが…あの子供を捕らえてくれば。悔しいですわ。」

今度はわたしの話のようだ。なんだか色々と複雑な気持ちになったけれど、わたしは男性が一度だけ言った"巫女"という言葉が頭から離れたかった。あまり聞き覚えのない言葉だけど…わたし前にもどこかで同じ言葉を言われた、ような。でも。おもい、だせ、ない。
これは偶にある感覚だった。自分の記憶の筈なのに、思い出そうとするとまるで鍵がかかっているかのようになにも引き出せない感覚……あたまがいたい。
思わず頭を抱えるわたしに、今度は信乃が心配してわたしの顔を覗き込む。

「…おい、大丈夫か?」

まだ少し頭がぼうっとするけれど、痛みは一瞬だった。心配してくれている信乃に大丈夫、と頷くと、彼は安心したように先程から握られていたままの手を握り直す…信乃がいるから、大丈夫。

「まあまあ、リリス…また会うこともあろうさ。そうだろう?莉芳。」

こちらを向いて里見さんにそう言った男性だったけれど、それはまるで信乃とわたしにも言っているようで、わたしは思わずびくりと肩を揺らした。
里見さんの知り合いみたいだったから悪い人ではなさそうだけれども…なんだかわたしは苦手、だ。


惑わされずに手に触れて
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