眠い、とても眠い。わたしはぼうっとした頭で障子を開けながら、ふあ…と、ひとつ欠伸をこぼした。わたしがどちらかというと朝が弱いのは前からだけれど、昨日は小文吾さんと現八さんと一緒に豪華な夕食を囲んで散々騒いでしまったので、眠るのが遅くなってしまったのだ。
けれど、朝ご飯の準備くらいは手伝わないとお世話になってばかりになってしまう。わたしが眠たい頭を覚醒させるためにぱんぱん、と頬を叩いていると、隣からなまえ、とよく知っている声がわたしの名前を呼んだ。

「おはようございます、朝から強烈ですね。」
「そ、荘介…!お、おはよ…」

わたしの行動を見てそんな言葉をかけてくる荘介に、わたしはなんだか恥ずかしくなって慌てて両手を後ろに引っ込めた。
そんなわたしに荘介はくすりと笑いをこぼしたけれど、わたしはそれに気がついていないふりをして話題を変えた。

「し、信乃はまだ寝てるの?」
「はい、ぐっすりです。やっぱりまだ本調子とまではいかないみたいですね。」
「…そっか。」

荘介の言葉で浮かぶのは先日の出来事…琥珀、さん。信乃が本調子ではないのはたくさん血を流したせいでもあると思う。けれどそれ以上に、心がまだ落ち着かないのだと思う……わたしも、そうだから。あんなふうに心を寄せた誰かが消えていく姿を見たんだもの。心が苦しくならない方がおかしい。
思わず俯いてしまったわたしは、きっとすごく情けない顔をしていたのだろう。そんなわたしに荘介は気をつかってなまえ、と優しくわたしの名前を呼んでくれた。その声に暗くなっていたわたしの気持ちが少しだけ晴れる。

「俺は今日教会の仕事があるので今から朝ご飯を作りますけど…なまえももう食べますよね?」
「あ、うん食べる…!わたしも朝ご飯くらいは作ろうと思って早く起きたから。」
「いい心がけですね。なまえのそういう所は是非信乃にも見習わせたいですよ。」
「あ、あはは…それはなかなか難しい気がする…」

荘介と一緒に、信乃の話だとか今日の朝はなにを作るだとか、そんな他愛ないけれど優しくてあたたかい会話を交わしていたら、いつの間にかわたしの中の暗い気持ち…もやもやは綺麗に消えていた。胸の奥の暗い冷え切った部分はやっぱりなかなか消えないけれど、それでも。こんな何気ないけれどわたしの気持ちを明るくさせてくれる日常が、わたしは大好き、だ。
今度は一人、にこにこと笑っているわたしに、荘介はどうしたんです?とちょっぴり呆れたように尋ねてくる。そんな彼にわたしはなんでもない、と返して、わたしの仕事がなくならないように台所へと急ぐのだった。


「う、ん…」
「あらなまえさん、起きた?」

優しい声に名前を呼ばれて、わたしは机に伏せていた顔を上げた…あれ。わたしの前で優しく微笑んでいるのは女将さん。なんだかまだ頭がぼうっとして欠伸をひとつこぼすと、女将さんはあらあら、と苦笑しながら話を続けた。

「なまえさん、荘介さんと朝ご飯を作って、後片付けをした後にすぐ寝ちゃったのよ。」

女将さんの言葉に、わたしは自分の意識がなくなってしまう直前のことを思い出してあ、と声をこぼす…そういえばわたし、眠気に耐えきれなくてご飯を食べて後片付けした後に机に伏せて寝ちゃったん、だっけ。思い出して頭が少しずつ覚醒してきたら、自分がこんな部屋の真ん中で眠りこけていたことに気がついて、今更とても恥ずかしくなってしまった……わ、わたしの馬鹿。
一人で百面相するわたしに、女将さんは面白そうにくすくすと笑いをこぼす。

「ご、ごめんなさい女将さん…!わ、わたしこんなところで…」
「ふふっ、いいのよ。なまえさん、色々あって大変だと思うけれど、休みはしっかりとるのよ。」
「は、はい…!」

女将さんの優しい気遣いに、わたしは温かい気持ちになりながら頷く。昨日贈ったお花で少しは感謝が伝えられたかなあなんて思ったけれど、やっぱりまだまだ足りないみたいだ。今度またなにかお礼したいな、なんて考えていると、女将さんがなにかを思い出したようにそうそう、と手を叩いた。

「荘介さんがお仕事に行ったのは知っていると思うけれど、さっき信乃さんもお出かけしたわよ。新しく美味しいお菓子屋さんができたって言ったら早速飛び出して行って。」
「新しいお菓子屋さん…!そりゃあ食いしん坊の信乃も飛び出して行きますよ。女将さんおすすめなんだもの。」

女将さんの言葉を聞きながら、わたしは肩にかかっていた赤い袖の上着、信乃の上着をたたみ直す…これはきっと、信乃がわたしのためにかけてくれたんだろう。わたしが寝ているのを見て呆れたような顔をしている信乃が安易に想像できて、わたしは思わず苦笑をこぼした。

「なまえさんもせっかくだから、気分転換に少し通りに出てきたら?信乃さん、ついさっき出て行ったばかりだから、今行けば会えると思うわよ。」
「そうしようかな…わたしも新しくできたお菓子屋さん、気になりますし。」

古那屋の近くの通りだったら何度も歩いているから、変な裏道に入ったりしなければ流石に迷わない筈だ。新しい、お菓子…さっき信乃のことを食いしん坊なんて言ったけれど、そう言うわたしも新しいお菓子についてあんなのかこんなのか、と胸を踊らせているので、案外人のことを言えないかもしれない。

「ふふっ、まあお留守番してても信乃さんと荘介さんだったら、なまえさんのお土産をたくさん買ってきてくれるでしょうけど。」

女将さんにそう言われて、わたしは今までのことを思い出して思わず笑みをこぼした。
女将さんの言うとおり、昔から信乃も荘介も、わたしがお留守番の時は絶好になにかお土産を持ってきてくれた、から…わたしが寂しくないように。
笑みをこぼすわたしを見ていた女将さんも、いいわねえ、なんて言いながらわたしにつられるように笑顔になる。

「私は仕事だけど…気をつけて行ってらっしゃい。なまえさんは可愛らしいんだから、知らない人に声をかけられても着いて行っちゃだめよ?」
「わ、わかってます…!女将さんも、お仕事頑張ってください。」

いってきます、そう言って部屋を出るわたしに、女将さんが後ろからいってらっしゃい、と言葉をかける。わたしは"おかあさん"というものを知らないで育ったけれど、もし…もし、おかあさんがいたらこんな感じ、なのかなあ……こんな素敵なおかあさんがいる小文吾さんが少し、羨ましい、なんて。
部屋から出る時に振り返ったわたしを見守っていたのは、女将さんの優しい笑みだった。

***

…裏道に入らなければ迷わない、筈だったんだけれど、も。今、わたしの両側を囲むのは高い壁。わたしはすっかり裏道に入ってしまって絶賛迷い中である。

「ここ、どこ…」

きょろきょろと周りを見回すけれど、周りは同じ景色ばかりでどっちへ行けばいいかもわからない。
女将さんに見送られて通りに出てきた所まではよかったのに…これじゃあ信乃に追いつくこともできないし、新しいお菓子屋さんにも行けない。ああもう、わたしの馬鹿。わたしは自分に呆れてはあ、と深い深い溜め息をついた。
でも、今どんなに自分を責めても、この現状が変わるわけじゃない。わたしは俯いていた顔を上げて、もう一度周りを見回した…とりあえず、少し歩かないと今の場所からも出れない、ものね。
そう考えたわたしは、少し進んだ先にある曲がり角を右に曲がってみることにした。

「そっちじゃないよ。」

右の曲がり角に足を踏み入れた瞬間、突然どこからか聞こえてきた声。その声とともにわたしは、驚く間もなく後ろに腕を引かれた。

「信乃といいなまえといい、なんでこんな人気のない所でちょろちょろするかなあ。」

どこか聞き覚えのある声から発せられたのは信乃とわたしの名前。はっとして振り返ると、そこには深緑色のマントに身を包み、左目に眼帯を付けた荘介そっくりの男…荘介の"影"が、口元に笑みを浮かべながら立っていた。

「あ、あなた…」
「ん?ごめんごめん、びっくりさせた?」
「え、えと…」

固まっているわたしとは対照的に"彼"は慣れたようにわたしの頭を撫でながらそんな言葉をかける。その手つきは、言いたくないけれど荘介そっくり、で。わたしは確認するように、わたしに笑みを向ける荘介と瓜二つの彼を見つめ返した。

「なまえはやっぱり今も方向音痴なんだな。この感じだと信乃を探して通りに来た所で迷った、って感じ?」
「あ、う…」

彼は"影"だ。そしてわたしはそんな彼を知らない。けれど、彼はわたしのことをまるで昔から知っているかのようにわたしのことをぴたりと言い当てる。
彼の青い、蒼い瞳は荘介とおんなじ。わたしはなんだか怖くなって、彼から目をそらす。そんなわたしを、彼は首を傾げながら追ってきた。

「なまえまで、なんでそんなに嫌うかなあ…信乃にも言ったけど、俺だって"荘介"なのに。」
「で、でもあなたは、わたしの知ってる"荘介"じゃないもの…だから、」
「だから?」
「…こわい。」
「そっか。怖い、か。でも、俺は怖くなんかないよ。」

彼のぱっとしない言葉に、わたしは思わず首を傾げた…本人が怖くない、って言ってもあんまり効果がないような気がする、けれど。彼はふと、視線を下へ向けると、わたしの固く握られていた手を取って拳を開かせた。

「傷くよ、手。」
「…!」

その言葉とともに細められた目はあまりに荘介にそっくりで、わたしは彼の手を振り払って後ろを向いた…やっぱりこの人、こわい。荘介と瓜二つの影。毛野さんの心臓を奪ったという影。"影"なのに、いつか荘介の全部を奪ってわたし達の隣に平然と立ってしまいそう。

「手を強く握ったり、服の裾を掴むのは、なにかに耐える時のなまえの癖だよね。あ、あと泣きそうな時もやる。」
「な、んでわたしの癖…」
「知ってるよ。ずっと傍にいたんだから。」

頭が真っ白になるわたしに追い討ちをかけるように彼が言葉を続けた…あたまが、いたい。背を向けているわたしの後ろから、彼が絡め取るように腕を伸ばしてくる。くっついた彼の体はひんやりと冷たくて、わたしは思わずびくりと体を震わせた。

「ねえなまえ、なまえは俺のコト、わかってくれるだろ?なまえと俺は、根本的な部分がよく似てるから。」

"わたしと荘介は深い所がよく似てる"
彼の言葉に前から考えていた自分の考えがぱっと頭に浮かんで、わたしは思わず目を見開く。そんなわたしを見透かすように、彼が後ろでくすりと笑った。

「なまえだって、信乃がいないと生きられないだろ?俺だって一緒だ。だから、奪う。信乃の隣で生きるために。」

耳元で言い聞かせるように囁かれた言葉は、まるで毒のようにわたしの体に染み込む。それと同時に重たくなってくる目蓋。わたしは微睡みに身を任せてそのまま彼の腕におちた。

***

雨のにおい。わたしが絞る手ぬぐいから落ちる水の音。浜路の荒い息。
苦しそうな浜路の隣で、わたしはただ涙を堪えながら看病することしかできなくて…これは、もう随分と前になる夏の日の出来事だ。
ある暑い夏の日、突然浜路が麻疹で寝込んでしまって。熱で苦しむ浜路になにが欲しいって聞けば、栗が食べたい、って言ったから、信乃と荘介が森に栗を取りに行って、本当はわたしも浜路のために栗を取りに行きたかったけれど信乃と荘介に止められてしまって。わたしはそのまま浜路の看病をしながら留守番していた。
その日は、最初はいい天気だったのに突然が降り出して。やっと帰って来たと思ったら今度は荘介が麻疹。いつも熱を出してとても苦しそうにしている信乃を見慣れていたわたしは、浜路も荘介も、もしかしたらいなくなってしまうんじゃないかって、とても怖くって。耐えきれずにぼろぼろ泣くわたしを信乃が宥めてくれた。
その時に信乃は、荘介と森に行って雨宿りしていた時の出来事を教えてくれたのだ。

なあなまえ、さっき雨宿りしてる時さ、俺と荘は生まれる前から兄弟だったんじゃないかって話してたんだ。

兄弟…?生まれる前、から?

そう。だから、出会ったのは偶然なんかじゃなくって必然だって。

ひつ、ぜん。

話の意味がよくわからなかったわたしに、信乃は嬉しそうにその理由を教えてくれた。"俺と荘介には、同じ花の痣があるから。たがら生まれる前から兄弟だったんだ"なんて。それを聞いたわたしは、信乃にそう言ってもらえる荘介がとてもとても、羨ましくて。
だからその時わたしは、もし、もし自分も荘介とおんなじようになれたら、なんてことを考えた。

***

「…なまえ、なまえ。」

聞き慣れた優しい声に呼ばれて目を開くと、そこには心配そうにわたしを覗き込む荘介の姿が。周りを確認するとここは古那屋のわたしがいつも泊まる時に使っている部屋で、風を通すように大きな障子が片方開けられていた。

「わ、たし…」
「帰って来たら女将になまえが縁側で倒れてた、って聞いて驚きましたよ。軽い熱中症みたいですね。」
「縁側…?」

わたしの記憶だと、わたし、旧市街の通りに信乃を探しに行って…"彼"に会って。そこまで思い出して、ぼうっとしていたわたしの頭は一気に覚醒した。ばっ、と横になっていた布団から勢いよく起き上がると、その直後、ずきんと頭に痛みが走る。それに小さく呻き声をあげたわたしに、荘介が呆れたようになにしてるんですか、と口にしながら背をさすってくれた。

「信乃を探しに通りに出て、またふらふら迷子になったんでしょう?まったく…帰って来れたからいいものの、どこかで倒れたらどうしたんですか。」
「…」

いつも、の聞き慣れた荘介の小言。普段だったらここは謝るところだけれど、先程の"彼"の出来事ですっかり不安になっていたわたしは、ちゃんとここにいる荘介、に安心して、なにかが外れたようにぼろぼろと泣き出してしまう。そんなわたしは夢の中で出てきた幼い時の泣き虫だったわたしと、荘介が羨ましくてしょうがなかったわたしと、なんにも変わっていなかった。
わたしは幼い子供のように荘介の手に縋って、ぎゅうっと抱き締める。あたたかい。

「そうすけ、そうすけ、」
「ど、どうしたんです突然…」

突然泣き始めたわたしに、荘介は驚いたように目を丸くしたけれど、その後優しく目を細めて温かい手のひらでわたしの頭を撫でてくれた。

「信乃といいなまえといい…今日は涙腺が緩む日なんですかねえ。それに、なまえを宥めるのは信乃の役目なんですが…」
「信乃…?」
「…いえ、なんでもありませんよ。それより、新しくできた生菓子屋に早速行ってきたんです。少し味見してみませんか?」

そう言った荘介は後ろから丸いお盆を持ち上げて、わたしに見せた。
お盆の上には冷たいお茶と、その隣には涼しげな寒天の生菓子が置かれている。透明な寒天の中には真っ赤な金魚の練りきりが泳いでいて、食べるのが勿体無いくらい素敵な生菓子だ。それを見てすっかり涙が引っ込んでしまったわたしを見て、荘介はくすくすと笑いながらわたしにお菓子を差し出した。

「なまえも気になっていたんでしょう?」
「うん…でも、とっても素敵なお菓子で、なんだか食べるの勿体無いなあ…」
「そうですよねえ。まあ、信乃はぱくぱく食べてましたけど。」
「そ、そうなの…?」

たくさんの美味しそうなお菓子を目の前にして、目をきらきらさせながら食べている信乃の姿が簡単に想像できて、わたしは思わず笑みをこぼす。そんなわたしに、荘介がそうそう、と思い出したように付け加えた。

「なまえの分はちゃんと残してましたよ。俺の分はわかりませんが。」
「ふふっ、なら早く行かなくっちゃね。」
「そうですね。」

困ったように笑う荘介を見ながら、わたしはお菓子を一口分切り分けて、口に運んだ…すごく、おいしい。顔を綻ばせるわたしに、荘介はよかったですね、と笑いかける。
幼い頃はこんな優しい荘介が羨ましくて、荘介になりたい、なんて思う時もあったけれど、今はそうは思わない。確かに荘介のことは憧れるけれど、荘介がちゃんとわたし達の傍にいてくれるからこそ、今とても幸せだと思うから。
けれど、そんな荘介が信乃に加えてわたしまで泣かせてしまったことを知って、小文吾さんと現八さんが荘介に無駄に冷たくあたって、その代わり、信乃とわたしを更に過保護にするのはまた別のおはなし。


濃紺の世界をゆらゆらと
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