数年ぶりの来校を出迎えたのは、昔懐かしい匂いだった。誰もいない校舎の中はしん、と静まり返っている。部屋の中の一つに足を踏み入れれば、持ち主を失くした机たちが整然と並んでいた。外面はほとんど変わりがないものの、やはり時の流れというものを感じてしまう。薄く陽が差し込む教室は、緩やかに学生当時の記憶を呼び起こす。中学生の、あの頃の感情と共に。

しばらくの間その場所に佇んでいると、廊下から小さな足音が聞こえた。こつこつと響くその物音は、次第にこちらへと近づいてくる。自分が居る教室の前で、その音は止まった。と同時に、心を鎮めるために閉じていた瞳をそっと開いた。がたがたと軋む扉を横に引いて、同じように室内へと入り込むその姿を確認して、スイ、とその人の名前を呼んだ。

「悪かったな、遅れて」
「ううん。大丈夫、急に呼び出してこっちも悪かった」

笑顔で語りかけるスイに、こちらも笑って言葉を返す。くるりとスイは教室を一望して、懐かしいな、と声を漏らした。

「少し違和感を感じるところもあるけれど、ほとんど変わってなくてなんだかホッとする」
「うん。俺も。スイとここでこんなふうに会話してると、中学生に戻った気がする」
「お前は中学生の頃からほとんど変わってないから、それも不思議じゃないよな」

スイがくすりと、小さく笑った。そうやって笑う姿が、自分に初めて彼が話しかけてきた時とまったく同じで。思えば、そうやって初めて自分に微笑んでくれたその時に、俺はきっとっとスイに恋をしたのだ。遠い昔の恋情を改めて思い出して、少しだけ胸が痛んだ。

「で?お前の言う用事って何?」

彼の質問に答えずに、俺はただただ首を振った。今はまだ言えない、けれどもう少し待って、と瞳だけで訴えると、分かったというように彼は近くにある椅子に腰をかけた。その傍らに立ちながら、鳴り止まない心臓を抑えて。静かに静かに心を決めて、俺はそっと口を開く。

「なあ、スイ」
「ん?」
「俺さ、中学生の頃から、ずっとお前が好きだったんだ」

目を背けずに躊躇いなくあっさりとそれを言い切ると、その瞬間スイの体が強ばったのが分かった。茶化されるかな、と少しだけ心配していたけれど、それは杞憂だったようだ。沈黙だけが支配する二人だけの部屋の中。綺麗なスイの瞳の中に、俺の姿が閉じ込められる。けれどそれは、たった数秒の出来事。

「…ごめん。俺お前のこと、そういうふうには見れない」

予想通りの答えだった。すまなそうに目をうつ伏せるスイに、俺はただ笑って。うん、分かってた、とだけ答えた。でも、ちゃんと答えてくれてありがとう、と震える睫をそのままに、言葉を繋げて。

「俺、お前が俺のことそんなふうに思ってただなんて、全然気がつかなかった。本当に、ごめん」
「スイが謝ることじゃないよ。俺が勝手にスイを好きになっただけだから」
「翔太、俺…」

スイが自分に何かを語りかけようとした瞬間、グラウンドからピーと甲高い呼子が鳴った。その音に弾かれるように、振り向くスイの腕を掴んで。彼の体ごと窓際へと案内する。


ほら、見てみろよ、スイ。と外の方向を指差せば、そこには昔懐かしい旧友の姿。

「お前が結婚するって話をみんなにしたら、みんなもお前を祝福したいって、かけつけてくれたんだよ」

少し早いけど、みんなの前で結婚式をあげてみるのも悪くないだろ、と囁けば、スイはただただ驚いた表情を浮かべて、そうして本当に嬉しそうに笑っていた。

私服だったり、会社の制服だったり、正装だったり、仮装だったり。色んな服装のやつが沢山いた。彼の人望の厚さの分だけ、声をかければ殆どの人が小さなサプライズの参加を承諾してくれた。校舎の下にひろがる白い数々のテーブル。皆が皆持ち寄ってきた料理と、花束で、あたり一体の景色は埋められている。その中央に佇むは、白いワンピースを着た彼の花嫁。彼女が、こちらに向かって手を振った。早くこっちにおいでよ、と。

「ほら、早く行ってやれ。皆お前を待ってるから」

そう言って、ぽん、と背中を押してやると、少しだけスイは迷ったような表情を浮かべて。


けれど心を決めたように、部屋の出口へと足早に進んだ。翔太、本当にありがとう。お前はやっぱり、俺の一番の親友だよ、と言葉を残して。

「スイ、お幸せに」投げかけた言葉は、この日彼が見せた一番の笑顔という形で、俺の元に戻ってきた。


+++


花婿を迎えた青空の下の結婚式を、窓からうっすらと眺めていた。なんだか、こうして屋内から外にいるカップルを見る、という出来事が最近多いよなあ、と考えて。はあ、と溜め息をついて、ずるずるとその壁に反って座りこんだ。布越しに感じる、コンクリートの床が随分と冷たい。

やっと。やっと、長かった恋が終わったというのにも関わらず、随分とあっさりしていたよなあ、と自分でも思う。スイから返ってくる答えを薄々は予想していたとはいえ、それでもあっけない幕引きだった。九年に及ぶ恋の結末が、これ。

…スイ、俺が好きなこと、全然気がつかなかったとか言っていたよな、と思い返してふ、と笑った。そんなの当たり前だよな。だってずっと気づかれないように隠していた感情だったから。心の中ではそう思ってなんかいないくせに、友人の顔をしてみせて。それにまんまと騙されていたんだよな、お前は。スイ、だから、お前って、本当に。







…嘘ばっかり。







俺、本当は知っていたんだよ。お前が嘘つきだってことくらい。俺、ずっとずっと知っていたんだよ。俺がお前が好きなこと、その事実をお前が知っていたということくらい。それでも、それを知らないというように嘘をついて、お前が俺の親友をずっとずっと演じていたことくらい。全部、知っていた。

でも、それでもお前が好きだった。俺の気持ちに決して応えることが出来ないスイの精一杯の優しさが、その嘘を生んだこと。俺は知っていたから。俺の為に嘘をついてくれたことを分かっていたから。俺を傷つけまいとして、優しい嘘をつく、お前のことが、本当に本当に大好きだった。心から、好きだった。

…でも。それでも、もう俺は。

部屋の扉付近から物音が聞こえて、はっと顔をあげれば、そこには雪名の姿があった。何、お前あのパーティに混ざってたんじゃないの?と問えば、木佐先生が心配になって、来ましたと彼は答える。九歳も年下の奴に気をかけられる年上ってのも立つ瀬ないよな、とぶつぶつと呟けば、そんな俺の頭に、そっと雪名の掌が乗せられて。いつも俺がするようにぽんぽんと頭を撫でながら、よく出来ました、と今まで見たことの無いような優しい笑顔を浮かべながら、雪名は小さく呟いて。

あのさぁ、雪名。前から思っていたことだけど、ちゃんと終わらせましょうだの、よく出来ましただの。それさ、俺がいつもお前に言っている台詞だろう、とその手を払いのけて彼に文句を返そうとした。その為に、口まで開いた。




…でも、出来なかった。



言葉の代わりに溢れたのは涙。ぼろぼろと頬を伝うそれは、自分の意思で止めることなんて出来やしない。両手でそれを掻き集めるようにすれば、その掌ごと雪名に掴まれてそのまま体を抱き寄せられた。暖かな体温を近くに感じながら、それにようやく安堵して。だから俺は子供ように、彼の腕の中で声をあげて泣き始める。


叫ぶ声は九年分の恋心。零れる涙は九年分の胸の痛み。


―スイ。ねえ、スイ。俺は本当にお前のことが。俺の為に優しい嘘をつくお前のことが本当に本当に大好きだった。だからお前と一緒に、俺も自分に嘘をつき続けた。この恋は終わってしまったと、とっくに諦めてしまったのよと。そうやって自分自身にずっと嘘をついていた。けれど、本当は叶わぬ恋を胸に抱き続けて、今の今までその恋を捨てきれずに、とうとうここまできてしまった。あなたのことが好きで、好きで。他の恋すら出来なくなった。

そうやって、自分を誤魔化し続けたせいで。恋に破れた痛みを知らない俺は、こうして二度と泣かなくなった。そうして俺は泣けなくなった。

でも、本当はずっとずっと泣きたかった。顔は笑顔を刻んだまま、心の中ではずっとずっと泣いていたから。けれど、もう良いよね?もう、声をあげて泣いてもいいよね?叶わなかった恋の苦しさに、もう涙を零すことを、どうかもう許してほしい。だって、俺頑張った。今までずっと頑張ってきたから、だから、この恋を終えることを、どうか責めないでいて欲しい。

もう自分の心の痛みに嘘はつけない。自分の気持ちに嘘はつけない。あなたの嘘に合わせて、自分自身に嘘はつけないの。

だって、もう俺は嘘をつけない人に恋をしてしまったから。

大好きなスイ。愛しいスイ。あなたの幸せを祈っています。でも私も幸せになりたいのです。もう辛い恋をするのは嫌です。愛する人に愛される幸福を、私も手にしたいのです。

だからさよなら。ばいばいスイ。今までずっと、ありがとう。

あなたが愛する人と一緒に。どうかどうか、幸せに。




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