その男の名前は、スイと言った。苗字だとか漢字とかを思い出そうとしても、大分昔のことだからよくは覚えてはいない。確か中学二年のクラス替えでの出会いだったと記憶している。自己紹介で初めて彼の顔を見たとき、その完成された顔立ちに、雪名と初めて会ったときのようにうっとりと見惚れてしまったことだけは覚えている。

細くて鋭いくせに、それでいて優しげな瞳。シンメトリーのような眉や高い鼻筋。透き通るような肌に架かる、薄く茶色がかかった髪。

世の中にはこんなに美しい人間というものが存在するのか、と当時は大層驚いたものだった。ついでに言えば、性格も優しいし他人への気配りも忘れない。傲慢でなく謙虚で、それでいて誰にでも平等である、という文句のつけどころがないもので。そんな人格の良さが影響してか、彼にはいつだってクラスの、または同学年の、或いは学校内の顔も見知らぬ人間が囲っていたものだ。

でも、自分は黙って見るだけだった。好きな漫画を読むふりをして、その隙間から彼の姿をただ眺めるだけ。それだけで良かった。美術館にある絵画のように、又は彫刻のように。完成された美術品は見ているだけで、それだけで良い。自分の中の彼も、そんな存在の一部だった。触れたいなんて思わなかった。もし触れたら、あの完璧なまでの素晴らしい存在が壊れてしまうように思えたから。

けれど、そんな俺に接触を図ってきたのは彼からだった。休み時間に突然自分の席までにやってきたかと思えば、開口一番に発したのは、俺の顔に何かついている?という台詞。今思えば、ちらちらと視線をよこす俺の存在なんて、彼はとうに気づいていたのだろう。そりゃあ誰だって逐一じろじろと見られたら嫌だったろうな、と思い当たり、すぐに見つめてごめん、お前の顔が好きだったから、と謝罪と共に罪の動機を白状した。

え?何、俺の顔が好きだから見てたの?うん、お前のその顔が好きだったから。俺と仲良くなりたいからじゃなくて?俺、お前の顔だけが好きなだけなのに、なんで仲良くならなきゃいけないの?

そんな会話だったと思う。多分その時自分は心からそんなふうに思っていて、だから彼もその言葉が、嘘偽りない真実だと気づいたのだろう。気づいて、ふ、と笑ったのだ。お前、面白いな。俺もお前の顔、可愛いから好きだよ、ととんでもないことを俺に告げて。そうして何だかその日を境に、彼はちょくちょく俺にちょっかいをかけてきては、いつの間にか俺の中の親友という名前を勝ち取っていたのだ。

皆さ、俺の顔が好きだから。顔が良いから、俺の心が欲しいとか言うんだぜ?お前くらいだよ。顔がいいから、その顔だけが好きでそれ以外はどうでもいい、なんて言った奴。だから、お前と友達になろうと思った。お前の親友になりたかった。お前、正直だからな。

スイと俺が周囲に唯一無二の親友だと周知される頃には、俺は既に彼に恋心を抱いていて。本当に馬鹿みたいに彼を好きだったことをよく覚えている。けれど、告白をしようとは思わなかった。だって、スイにはその頃もう既に彼女もいたし、その彼女の次の順番ではあるものの、親友という彼にとても近い椅子に座っていたのだから。その座を明け渡してまで、自分の想いを告げようなんて思いもしなかった。ただの友人でいるだけで、それだけで良かった。

伝えることも出来なかった、とうに終わってしまった恋。

そういえば、スイも少女漫画が好きだったよな、とどうでもいいことを思い出す。あの頃の年代というものが現実というものが酷くうっとうしくて、夢物語や幻想に自分の想いを馳せることが良くあった。漫画の世界は良い。勉強が出来なくても、漫画ではいくらでも天才になれる。運動音痴だとしても、漫画の世界では優秀なアスリートになれる。そして、夢幻の中では、叶わないはずの恋だって叶う。

スイは、ただ純粋に少女漫画の面白さに興味があっただけなのだろう。だから俺は、そんな想いをこめて自分が漫画を読んでいた、なんてことは絶対に彼の前では口にはしなかった。

「木佐先生。この漫画の次の巻はどこですか?探しても見つからなかったんですが」
「あー。悪い。俺その漫画そこまでしか買ってない」
「えー。何だかそれ、この間も同じようなこと言ってませんでしたか?途中で飽きたんですか?」
「ただ単に買うのを忘れてそれっきりってだけだよ。よくあることだろ」
「最終巻だけを買い忘れるって、よくあることなんですか?」
「…そんなにご所望なら、今度本屋で買ってきてやるから。それでいいだろ」


仕方なしに言えば、雪名は渋々というように肩をすくめた。じゃあ、お願いします、とだけ言葉を残して、彼は少女漫画が詰まっている人の鞄を勝手に漁り始める。そんな姿をぼうっと眺めて、もう何度も見ているけれど相変わらず綺麗な顔だな、としみじみ思う。

肌触りのいい布団に寝転びながら、自分の前髪をぐしゃりと撫でた。分かっている。分かっているさ。こんな感情彼には伝えられない。伝えられるわけがない。今まで、自分はろくな恋愛をしてこなかった。行きずりの知らない男と何度も寝たことだってある。そんな汚い自分に、こんな綺麗で純粋な子を巻き込むわけにはいかないのだ。

けれど、雪名が好きだ。その感情は恋を自覚してから尚、日に日に増大しつつある。こうやって彼が目の前に存在する、ただそれだけで、俺お前が好きなんだけど、とうっかり告白しそうになってしまう。それを何とか堪える。心を抑える。気持ちと一緒に飲み込んで、飲み込んで、飲み込んだ言葉は一体何処へいくのだろうか?
俺の視線に気付いて微笑む雪名。その顔は、記憶の中のスイにやっぱりよく似ていた。

+++

今日も今日とて相変わらず授業の中身は、少女漫画オンリーだった。この場所に来る前には一応参考書とか持ってきた方がいいのか?と一瞬悩みはするものの、結局一度たりともまともな授業を行っていないことに気づいて、いつも諦めて少女漫画を持ってきている。
雪名自身も結構な量の少女漫画を溜め込んでいるが、やはり学生の身とあってかその量は限られる。実家にあった少女漫画を取り寄せて、それを雪名に最初に見せたときの彼の喜びようを皆に見せてやりたかった。

「そういえば、今日、兄が帰ってくるんですよ」
「お前の兄ちゃん?ああ、仕事で別々に暮らしてるって言ってたっけ」
「そうなんです。せっかくだから木佐先生を紹介したいんですけど」
「…いいよ、しなくて」

うきうきとする雪名を横目で見つつ、お前俺をどういうふうに紹介するつもりだ、と思う。

完璧に授業を行っている家庭教師だとでも?実際はそんな説明とかけ離れて、今日なんて雪名のベッドでほぼ寝ていたのに?流石にこれ以上人を騙すのは気がひける。既にお前のご両親ですら騙している現状だというのに。

「じゃあ、俺もう帰るから」
「ええー。もっとゆっくりしていけばいいのに」
「勤務時間が終わったのに、教え子の部屋でぐだぐだする家庭教師が何処にいる」

雪名の反応を確認もせずに、部屋を出た。こいつは本当に危険なのだ。無意識に人をどぎまぎさせる言葉を平然として発するのだから。その度に、自分の意識とは関係なく心臓は暴走し始める。違う、あの台詞は別に俺と居たいから、じゃなくて、もっと少女漫画について彼が語りたいからだ、何度も自分に言い聞かせる。ああ、もう。くそ。鳴り止め心臓。

そうこうして玄関に向かえば、お疲れ様でした、とまたもや彼の母親が部屋から顔を覗かせた。そして彼女は毎度毎度律儀に玄関まで自分を見送る。それが礼節の一種であるとは理解しつつも、なんだか非常に後ろめたくてたまらない。

玄関の扉を開こうとすると、自分が力を入れる前に勝手にそのドアが開いた。あら、お帰り、早かったのね、という母親の声を後ろで聞きながら、突如現れたその人物の姿に思わず視線が止まってしまった。と同時にその体も。

「ああ、木佐先生にはご紹介がまだでしたわね。こちらがうちの息子の…」
「木佐って、もしかして、お前、翔太か?」

母親の言葉を遮っての言葉。あら、お知り合い?という言葉に、自分の目の前に佇む男は中学の頃の親友だったと興奮したように彼女に説明をしている。

中学生の頃の親友?そんなもの、俺にとって思い当たる人間なんて一人しかいない。

迂闊だった。雪名の兄が社会人であるとはいえ、自分と同じ歳であること。そうして雪名が自分の兄も実は少女漫画が好きなんですと以前口にしていたこと。今更思い出しても、もう遅い。気づくべき点は多々あった。それを見逃していたのは他でもない自分だ。雪名の顔は、初恋の人のそれに似ていた。いや、似ているなんてもんじゃない。似すぎていたのだ。だから

「久しぶり、翔太」
「……スイ?」

似ているのは当たり前なのだ。だって自分の元親友と、現在の教え子はまぎれもない兄弟なのだから。

なんてこった。

自分の言葉に、ようやく思い出してくれた?と微笑む雪名の兄と名乗る人物は、俺の初恋の人、本人だった。




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