部屋の隅にかけてある壁時計を見れば、午後四時半を回ったところ。いかん、約束の時間だと気づいて、今まで読んでいた所謂参考文献を手から離した。軽い食事と軽い身支度。中学生向けの参考書と目の前にある大量の少女漫画を見比べて、散々迷った挙句に少女漫画の方を鞄の中に押し入れた。

家から徒歩五分のバイト先は、距離的にも近く金銭的にもかなり優遇されている。まだ陽の長い季節であるため、見えるのは紅い夕暮れではなく白の木漏れ日。けれどあっという間だろうな、とは思う。そのうち夜の時間が昼を追い越し、暗闇が支配する時間がこれからどんどん増えていくのであろう。季節の移り変わりとはそういうもの。年を重ねるということはそういうこと。

割と見知ったる玄関の扉。ピンポンとチャイムを鳴らせば、小綺麗な女性が扉の向こうから現れた。自分の好み、というわけではないが、美しい女性であるとは思う。聞けば、中学生の息子の他に去年社会人になった子供も一人いるらしい。そんな事実をこの女性から全く感じられないほど、それぐらいに若々しいのだ。否、自分も若々しいという言葉では勿論負けていないとは思うけれど。

こんにちは、と女性が言う。こんにちは、とだから返した。

「あの子、木佐先生が来るときは、いつもちゃんと準備しているんですよ」

普段見せない勉強に熱心な息子の姿を見つけた為か、その母親は純粋にその事実を喜んでいる。ああ、そうなんですか、と適当に答えつつ、どうせロクでもない準備なんだろうと内心は思った。中学生の家庭教師。一見自分が行っているのはそういうアルバイトであるはずなのに、中身はえらくとんでもない仕様になっている。もしこの母親にその真相が暴かれたとき、自分は一体どうなってしまうのだろう、という恐怖はある。あるのだが。結局自分がここに来ても来なくても最終的には同じ結果になるのだから、今更じたばたしても意味なんてないことだろうな、と既に諦めている。

コンコンと硬い木製で出来た扉をノックすると、はい、という小さな声が部屋の中から聞こえた。数センチだけ軽く押して、後は、ぐ、と力を込めて重いドアを開けば、相も変わらずキラキラ王子様モードを身に纏う可愛い教え子が、いつもどおりに笑顔で自分を出迎えた。

「こんにちは、雪名くん」
「こんにちは、木佐先生」

自分の白々しい挨拶に、俺が家庭教師をしている中学生―名前を雪名皇という―は、同じように白々しく、けれどさもそれが面白いというように言葉を返す。まだ彼は中学二年生でもあるにも関わらず、今時の子らしくかなり発育が良いらしい。身長は九歳年上である自分よりも数センチ上。平均的よりも低い身長の自覚は一応あるものの、ただ単にこいつがでかいだけなんだろう。以前、こいつが学校帰りに友人と帰る姿を目撃していたが、その中でも背の高さだけは突出していたと記憶している。さらさらに流れる茶色の髪に、中学生とは思えない切れ長の瞳。陶器のような白い肌に薄く延びる唇。お前、絶対学校の劇とかで王子様役やっただろう、と聞いてみれば、何回演じたと思います?と意味不明な質問を返してくるあたり、その数は相当なのだろう。いや、何となく分かるけど。

「あー、眠い」

言いながらぼすんと彼のベットの上に勝手に寝転ぶと、雪名は、うわ、随分な態度ですね、と言葉を漏らす。論文の提出ラッシュで疲れているんだ少し休ませろ、と返せば、いいんですか?一応家庭教師のくせに、と意地悪く笑い始める。このくそがき。心の中で思いつつ、一旦は横たえた体を起こして、椅子に腰掛け薄く微笑む教え子に語りかける。

「で?宿題、予習、復習全部ちゃんと終わってんの?」

如何にもわざとらしく問いただせば、雪名は嬉しげにはい、全部完璧ですと呟く。大人びたその表情に幼さが残っていることに、少しだけ安堵し、勉強机を覆う問題集やらノートやらを一応はぺらぺらと捲り、その答えを確認する。むかつくけれど、パーフェクトだ。自分が来る前に勉強のほとんどを終わらせている彼は、本当に家庭教師泣かせだと実感する。文句のつけどころがないな、と小さく溜め息を漏らせば、感じた視線の先に微笑む雪名の顔。…何、そのどや顔。分かってるよ、分かっているから。そんな子犬みたいな眼差しを俺に向けるな。何か無駄に罪悪感を感じるではないか。

掌を伸ばして、雪名の頭の上にのせてぽんぽんと軽く叩く。柔らかい髪の毛が指先をくすぐってそれがとても気持ち良い。その感触を味わいながら、彼が欲しかった言葉をようやく口にしてやる。

「はい、よく出来ました」

待ち望んでいた称賛を手にした彼は酷く嬉しそうに、目を細めて笑う。瞬間どきり、と心臓が鳴った。こういった行動の後に、こいつがこんな風に笑うということを、既に何回も経験しているのだ。それなのに、未だにこうやって雪名に微笑まれると、どうにもこうにも心臓が跳ね上がってしまうのだ。まあ、その理由くらいは自分でもよく分かっていて。それは多分、雪名の顔が自分の理想そのものだから。

そうしておそらく、俺はそんな雪名に恋をしてしまっているから。

うん、ちょっと待って。どん引きする気持ちは分かるけど、ちょっと待って。そもそも俺は昔から同性を好きにしかなったことのない典型的なそっちの人だ。そればっかりは自分の生まれつきの性癖であると今は認識しているので、分かってはもらえなくても、どうぞご理解お願いします、としか言いようがない。人間が食べ物の好き嫌いがあるように、どちらかといえば異性より同性の方が好きだ、と結構無茶苦茶な理論だとは分かっているがとりあえず挙げてみる。誰だって嫌いなものを好きにはなれないように、好きなものだって嫌いにはなれないのだ。

そしてついでに、こちらは誠に申し上げにくいんですが、自分は大変なメンクイだ。誰かと出会って最初に見るところは最初に顔。顔さえよければそれでいい。そんな考え方で今まで生きてきた故に、結果散々な目に合ったのは一度や二度のことではない。だから最近は人を見た目のみで判断することを猛省し、今度付き合う奴くらいはせめてまともな人間を選ぼうと思っていた。そう心に決めてはいたんだけど。

蓋を開けてみれば、実際恋した相手は自分より九つも下の中学生ときたもんだ。本当に面目ない。せめて、もう少しまともな人間を選びたかったのに…、いや、自分がまともな人間じゃない限り最初から無理だったのかも、と遠い目をして考えにふけっていると、木佐先生?と心配そうに教え子くんが問いかける。

自分は雪名の単なる家庭教師という存在で、それ以上でも以下でもない。雪名が家庭教師としての自分を慕っていてくれていることはその態度でよく分かる。だからこそ言えない。ホモでメンクイで、今度はロリコンというまったくもって酷い代名詞。加えられた自らのおしながきに悲観しながら、それでも俺はこの場所に留まり続けている。自分の気持ちを雪名に打ち明けるつもりなど永遠にない。その可能性は、彼の隣にいるという現実と引き換えに、既に差出して失くしてしまったものだから。





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