天気の良い日だった。


起き抜けに見た窓の外には、素晴らしく綺麗な青空が浮かんでいた。いつも通りに顔を洗い、いつも通りに朝食を食べ、いつも通りに歯を磨いて、そうしていつも通りに、家を出た。外の空気は、思ったよりも寒くて。思わず、ぶるりと肩を震わせてしまう。無意識に見上げた空には、勿論誰もいなくて。何度繰り返したか分からない自分の行為に少しだけ苦笑いをしてしまった。


いくつかの電車に乗り継ぎ、辿り着いたあの町。目的の場所には、もう随分と長い間通いつめていたから。目を瞑ってでもあの家にいけるね、という自信は、話題にしたらきっと彼女が喜ぶだろうなと思った。


途中、足繁く通っていた洋菓子店に赴き、適当な菓子類を包んでもらった。大きな紙袋の取っ手を掌に握りしめ、鼻歌をうたいながら緩やかな坂道を登った。


先生の家には、程なくして到着した。事前連絡もなかった俺の到来を、けれど先生は特に驚きもせずに受け入れてくれた。やあ、よく来たね。寒くは無かったかい?という彼らしい挨拶に、はい、大丈夫です、と俺は一言答えた。


部屋に入るなり鼻腔をついたのは、香しいコーヒーの匂いで。今、丁度一息つこうと思っていたところなんだよ、と相変わらずの優しい笑顔で先生が言う。暖かい出来立てのコーヒーを受け取って、それをこくりと飲み込むと、ほっと安堵するような息が漏れた。窓から差し込む太陽の光が、柔らかく室内を照らす。珍しく、本当に珍しいことに、先生は仕事の時にしか流さないはずの、あのオルゴールの曲を流していた。


思わず、その旋律に合わせて歌詞を口ずさみそうになる。それを堪えながらカップをテーブルの上に戻して。お話があります、と先生に伝えた。なんだい?という穏やかな口調で、本当にいつもと寸分の変りも無く、彼は俺に返事をする。






「本当の魔法使いは、貴方だったんですね」







毎日のようにミオがキッチンに立ちながら口ずさんでいた歌。それは、彼女が知りえるはずもない、世界にたった一つの、あのオルゴールの曲だった。








それなりに重大な暴露をしたというのに、先生はと言えば特に驚いた様子も無かった。ただ、手にしていたコーヒーカップを俺と同じようにテーブルの上に乗せたかと思えば、そのまま掌を膝の上でくみ、何かを考え込むように俯いてしまった。その姿を、けれど一時も目を離さずに俺はただ見守り、留まっていた沈黙を打ち破ったのは先生の声だった。


「どうして、私だと気づいたんだい?」


それが答えだった。


直接的な答えと言えば、やはりミオがいつも歌っていたあの曲だった。先生の家にお邪魔をする度に流れていたあの緩やかなオルゴールの調べ。いつも、いつも耳にしていたものだから、それが世界にたった一つだけの曲、という事実をすっかり霞めてしまっていた。何気なく彼女が口にする歌、聞き覚えがあるくせに、聞き覚えのなかった歌詞。先生と一緒にいると私はその寿命を縮めてしまうから、と。人には散々通いつめさせていたくせに、一度もこの家に入ろうとしない彼女は、その旋律を聞けるはずも無かった。



それなのに、どうして彼女が知っていた?



一度疑いを持ってしまえば、その何もかもが全て疑問に思えてしまった。まるで記憶を遡るみたいに、彼女と過ごした日々の出来事を思い返す。そうして、辿り着く終着点はいつもあの教会での出会いで。そこで、ふと思った。ミオは、実体を持たない幽霊みたいな存在で、だから人間の住む壁なんていう薄っぺらい境界は、彼女には何の意味も持たない。事実、ミオは俺にその教会で居候のような形で住んでいた、と教えてくれていた。


それなのに、あの寒空の夜の日。教会の扉に背を預けて力尽きた俺の前に、どうして彼女は現れなかった?


ミオは、初めて出会った俺を笑いながら金縛りにかけるようなふざけた奴で、だから人見知りをするような奴じゃなかった。悲壮な顔をして今にも死にそうに泣いている人間を、放っておくような薄情なタイプでも無かった。三年間、ミオと過ごした俺だから分かる。


ミオは、自分の目の前で悲しむ人間がいたら、たとえその姿が相手に見えないのだと分かっていても、きっと無意識に「大丈夫」と声をかけてしまうような、馬鹿で優しい人だった。



順番が、逆なのだ。



俺が教会にいる彼女を見つけたんじゃない。教会に向かう俺に、ミオの姿を見つけさせたのだ。彼女があそこに住みついているなんて多分嘘っぱちで、だとすればきっと誰かが、俺と彼女を引き合わせたのだという予感があった。


…だから、それが出来るのは、教会に向かう俺の姿を確認出来た先生だけだった。


本来はあるはずのない姿を、こうやって今に現せるのが私が魔法使いである証拠。何もない無から有を生み出すことが魔法なら、私は確かに魔法使いなのよ。


いつだったか彼女は、俺に向かってこんなことを言っていた。


それなら、そんなミオを俺の目の前に生み出した先生は、きっと魔法使い。


自分の中で確信めいていた結論は、でも先生に否定されてしまえばそれでお仕舞になる話だった。俺には何の証拠もなければ、彼女と一緒に時を過ごしたという証明すら出来ない。でも、先生はそれをしなかった。いつか君が、気づいてしまう日がくるだろうと思っていた。彼の口調はとても落ち着いたもので、自分が追及したにも関わらず、本当は魔法使いなんかじゃなくて、ただの老人なのではないかと錯覚してしまう。


何故、先生がミオを生み出したのか。そしてどうして俺に彼女を引き合わせたのか。あの彼女は一体誰だったのか。そうしてあの言葉は、一体誰のものだったのか。


早鐘のように高鳴る心臓につい次から次へと疑問が溢れそうになり、けれどそれを必死に堪えた。一文字に閉じていた先生の唇が、そっと静かに開かれる。



「単なる老いぼれの昔々の話だ。しばらく、それを聞いてくれるかい?」







私はね、こう見えて若い頃は学者になることを目指していたんだ。自分で言うのもなんだが、それこそ活気と情熱のある青年で。けれど少々自分に自信がありすぎるのが難だった。でも、勉強はそれなりに出来た方で。幼い時から学者になることを夢見てきたから、それが現実になると信じて疑わなかったし、周囲も自分も疑い一つ抱かなかった。小学校、中学校、高校を難なく卒業して、大学に行く為に小さな街を出て、心機一転。見知らぬ大きな都市での生活は、正直、期待よりも不安の方が大きかった。


所詮井の中の蛙だった。いくら中学高校と一番の成績をとったところで、世界にはもっと賢い人間がいる。自分をある程度才能のある人間だと思い込んでいたが、世の中には本当の天才がいる。その事実を今の今までに知らなかった私は、だからより大きな世界でそれを目の当たりにしたとき、当然のように自信を無くしてしまった。いくら努力しても、その才を越える人間は何処にでもいる。恥ずかしい話だが、私はそんなことですらその年になるまで知らなかったから。何もかもが嫌になって、自暴自棄になりかけた。


けれど、そんな時に偶然出会ったのが、ミオと名乗る女性だった。


彼女は私と同じ年でね。天真爛漫で本当に明るかった。何事にも前向きで、たとえどんなに不幸が重なろうとも、笑って吹き飛ばしてしまう。周囲の才能ある人間が羨ましいと私が嫉妬に苦しんでいると、家で塞ぎ込んでいる私をミオは、無理やりに外に連れ出してくれた。


ミオはね、料理が得意だった。実は、今私が作る料理のほとんどは彼女から教えてもらったものだ。時折、自分自身でも食べられないくらい斬新な料理に挑戦していたこともあって、その時は二人で渋い顔を作りながら、食卓を囲んだものだ。

そして、ある日私は唐突に聞いたんだ。どうして、私の為にそこまでしてくれるのかと。


ミオは、少しだけ頬を赤らめて。貴方のことが好きだからよ、とだけ答えた。


その台詞一言で、私も気づいてしまったんだ。自分自身が、彼女を深く愛していたことに。


彼女が傍にいてくれることで、私の生活はまたもや一転したよ。みっともない嫉妬にかられることもなく、素直に勉学に励もうと思えた。ミオと同棲の真似事をしながらの数年間。そんな私の何処を評価されたのかは分からないが、千載一遇のチャンスがやってきた。



海外にて鞭撻を取ることになった教授に誘われたのだ。一緒に行かないかと。




正直ね、絶好の機会だと思ったし、こんなチャンスはそうそうやってくるものではないと分かっていた。昔の自分なら一も二もなく頷いて、全てのものを捨ててでもこの国を飛び立っただろう。大きな世界に踏み出すという行為に、その頃は何の恐怖も抱かずに。ただ期待だけが膨らんでいった。


唯一の気がかりは、ミオのことだけだった。本当は一緒に連れて行きたいと思っていたけれど、その当時の私はしがない学生だった。一人の女性の人生を抱える経済力もなければ、自信も無かった。


彼女と離れたくない。けれど、このチャンスを逃したくもない。誰にも告白することが出来ない悩みに苦しむ私に、やはり最初に気づいてくれたのはミオで。有無を言わさない彼女の追及に真実を告白すると、貴方が何を本気で悩んでいるのかが分からない。行くという選択肢しかないじゃないと、ミオは私に言ってくれたよ。


その時初めて、彼女が唐突にこう言い始めたんだ。




実は、私は魔法使いなのよ、と。




だから貴方がたとえ遠く離れていても、私の魂はいつでも貴方のすぐ隣にある。だから貴方は、海を隔てた向こう側で一人でもきっと寂しくはないはずよ。単なる私への慰めの言葉だとすぐに分かった。けれどミオのそんな優しさが私は嬉しかったし、彼女の言葉一つで、私はすぐに海外に行くことに決めた。ミオは、ずっと私のことを待ってくれている。そんなふうに思えたから。


海外での生活は、やはりそれなりに大変だった。色々と思い悩む部分もあったけれど、いい意味で充実していた。ミオとは一か月に数度手紙のやり取りをしていたし、紙面の中でも相変わらず明るかった彼女の文字に、どれだけ私は癒されたことか。


でも。でもね。離れて暮らすということは、想像以上に親しい関係に亀裂を生むものなんだよ。次第に忙しくなっていく生活に、ミオから手紙を受け取ってそれを読んでいても、私はそれに返事出来なくなっていった。重なっていく封筒の数を横目で見ながら、いつしか封を切ることもやめてしまった。彼女のことを忘れた訳じゃない。ただ、酷く疲れていたんだ。


そうして、ようやく私が一旦帰国したのは、留学してから一年も後のことだった。


自分が生まれた地に足を踏み入れたことによって、海外かぶれを起こしていた私は、それでしばらくぶりに自分自身を取り戻した気がした。早くミオに会いたい。会って、彼女をきつく抱きしめたい。その一心だった。そうして探し求めた彼女の姿を見つけた時は嬉しかった。ああ、本当に幸せだったんだ。



「ごめんなさい。私、他に好きな人が出来ました。どうか私と別れてください」




ミオの台詞を聞くまでは。


今思えば、私が彼女を責めたてる義理なんて無かった。手紙の返事も書かず、電話をすることもなければ、もう半年以上も音信不通だった男を、律儀に待っている人間なんていないだろう。けれど私は彼女を批判した。厳しい口調で罵倒した。裏切られたと思った。君だけは俺を待ってくれていると信じていたのに、と。身勝手な言葉を口にした。彼女は、瞳いっぱいに涙を溜めながら、ただごめんなさい、ごめんなさいと口にするばかりだった。


私は自棄になった。


彼女を忘れるために、自分の研究にのめり込み、その甲斐あってか私は世間の評価を得ることになった。期待されていると自分が知れば知るほど、それがプレッシャーになりはしたものの、逆に心地よかったりもした。無我夢中で没頭し続けた数年間。私は、彼女のことを忘れようとした。記憶を捨て去ろうと努力した。



彼女にもう一度会ってみようと思えたのもその頃だった。


今の自分の立派な姿を見れば、彼女は私を選ばなかったという過去を悔やむかもしれない。ミオがもしそんな素振りを見せれば、彼女はそれだけの人間だったということだ。軽蔑になりうる行為さえ確認できれば、今度こそ私は彼女を捨てられる。あの美しい思い出ごと恋心を処分出来る。そんな愚かなことを、本気で思っていたんだ。私は、人に比べたら賢かった人間かもしれないが、本当は大馬鹿者だったんだ。




ミオは、その時にはもうこの世にはいなかったんだ。




ミオの病気が発覚したのは、私が留学してから数か月後のことで。その時にはもう当時の医学では治療は不可能だった。若かった彼女はその分進行も早くて、あと一年生きられるかどうかの問題だったのだという。それでも彼女は、私に心配をさせたくはないという理由で、それを黙っていた。後から読み返した彼女の手紙には、辛いとか苦しいとか。そんな文字が一切無かったんだ。私に悟らせまいと、彼女は必死に私に隠した。そんな中、私が一度日本へ戻ったという噂を聞きつけた彼女は、弱りに弱った自分の体を見て、もう私に誤魔化すことが出来ない、と悟った。あの人に抱きしめられてしまえば、私の嘘を見抜かれてしまう。



私の大好きな人は、希望ある人。未来に必要な人。



死ぬだけの運命にある私は、そんな彼の足枷になりたくない。



そして彼女は、私にたった一つの嘘をついた。




その事実に気づいた時、私は泣いたよ。自分の愚かしさに。彼女の優しさに。あんなに大好きだったミオが一人で苦しんでいたというのに、何一つ守れなかった自分の弱さに。彼女の手紙を胸に抱いて散々に泣いて。幼い頃からずっとずっと学者になりたいと思っていた夢よりも、ただただ私は彼女を幸せにしたいという願いの方がずっと強かったということ。それがもう二度と叶わないだろうこと。私は世界を恨んだよ。彼女がもうこの世にはいないのに、それでも平然と回り続ける世界を心底憎んだ。私自身のことが嫌いで嫌いで、吐き気がこみ上げた。



そして私は、喉から手が出るほど欲しがっていた学者という称号に一度は触れて、けれどすぐにそれを捨てさった。


隣にそれを喜んでくれるミオの姿がないならば、そんなものは必要なかったから。


彼女はもうこの世界の何処にも存在しないと頭では理解していたくせに、私はそれを認められなかった。彼女が好きだった本を集めて、彼女の好きそうなアンティークの家具を集めて、そうして彼女がよく口ずさんでいたミオ作曲のあの歌を、オルゴールの中に閉じ込めた。何年もかけて作り上げた私と彼女の理想郷は、すぐ隣にミオがいるのではないかという錯覚を抱かせた。お気に入りの飲み物と、お気に入りの洋菓子。いつしか彼女が私の元へと帰ってきたときに、いつでも受け入れられるよう。それが私なりの誠意だった。




そうして、ある朝に私は不思議なものを見た。




私一人しか住むはずのないこの家のキッチンで、誰かが物音を立てていることに気が付いたんだ。最初は泥棒かと思って慌てたよ。武器にもならないモップなんかを持って恐る恐る台所に向かえば、そこにあったのは楽しげに料理をしている女性だけで。その後ろ姿には見覚えがあった。どうしたの?そんな怖い顔をして。もう少しで朝ごはん出来るから、大人しく待っていてね。振り向きざまに見えた顔とその声は、間違いなくミオのものだった。


最初は私の目の錯覚だと思ったんだ。彼女のことが恋しすぎて見えた幻覚だと。なのに運ばれた料理は暖かく、口に入れたスープの味は確かに彼女のものだった。ねえ、美味しい?と微笑みながら語る彼女の姿は、手に触れることが出来なかったものの、私は嬉しかった。もう一度こうやって彼女に出会えたから。


そうだ。ミオは私に言ってくれたじゃないか。



例え遠く離れていても、彼女の魂は私と共にある。



それが、彼女の言う魔法の力だというのなら、それを具現化させた私自身も魔法使いなのだと悟った。彼女がここに戻ってくると私が信じたから。だからミオは、こうやって再び私の目の前に現れることが出来たのだ。


けれどそれは、ミオであり、単なる彼女の残像でもあった。


オルゴールの曲が、何度ネジを回しても同じ曲しか奏でないように、私の目の前に現れる彼女は、私の記憶の中の彼女でしか無かった。だから、何年過ぎても彼女が老いることもなければ、ミオの言葉が私の知っている以上に増えることもない。彼女自身をコントロールして、まるでロボット見たく操れる力も私にはあったようだけれど。記憶の中の彼女を汚すような無粋な真似はしたくなかった。


良いんだ。あの頃のままになにも育まなくとも。彼女が、ただ傍にいてくれるだけで。


彼女の姿は私以外の誰にも見えない。でも、それで良かった。私にさえ見れれば、それで十分だった。私はこのまま彼女の魂と年月を経て、これからの一生を過ごしていく。幸福だと思った。それが正しいと信じて疑わなかった。



君を、教会の前で見つけるまでは。






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