だからあの時君を見つけた時、私は本当に驚いたんだ。
だって、私がミオと最初に出会った時も。彼女は教会の前で居眠りをしていたから。
勿論、君の様子がただ事ではないことは直感で分かったし、感慨深く思い出に浸る余裕なんてものは無かった。最初はね、私は君を招き入れるつもりは全くなかったんだ。だって、この家は言わば、私と彼女の聖域みたいなもので。二人だけで作り上げた世界ならそこに第三者は必要なくて。でもね。白い月の光で君の顔を覗き込んだ時、頑なに閉じられていた瞳から、涙が一筋零れたんだ。
それを見て私は、君を救わねばと強く思った。
ミオの姿を君に見せたのは、一か八かの賭けだった。私の祈りがどこをどうして叶ったのかは知らないが、彼女の姿はちゃんと君の瞳に映し出すことが出来た。後のことは簡単だった。彼女と私の意識を繋がらせたまま、けれどミオには今まで通りに動いてもらった。私と出会った時間を巻き戻すように。私と過ごした過去を繰り返すように。自分は食べないくせに、彼女は君にたくさんの料理を振る舞ってくれただろう?あれはね。私も昔彼女にされたことなんだよ。勿論、君と同じように頑張って全部食べきったけれどね。
だから君のことも、ミオを通じて全てを知っていた。すまないね。君のプライベートを詮索するつもりはなかったけれど、私は君のことを知りたかったんだ。何故、あんな場所で一人で眠っていたのか。何故あんなにも悲しそうに涙を零したのか。その理由を知れば知るほど、過去を聞けば聞くほど、私には君がミオとそっくりに思えたんだ。
愛する恋人から何の連絡もないのに、ただただひたすらに待ち続ける君の姿に。
私は君の姿を見る度に、その中に彼女の姿を探していたんだよ。たった一人でその孤独に耐えながら苦しんでいる君に、遠く離れて暮らしていたミオの姿を見る。そして私はいかに彼女を悲しませていたのかを知って、彼女を一人にし続けた分だけ、君を絶対に一人にするまいと決めた。君を救うことが、彼女を救うことだと思うようになった。
不思議だろう。君が少しずつ笑顔を見せる度に、私の記憶の中のミオに、微笑みが増えていくんだ。鬱陶しいくらいに繰り返した彼女との数年。でも、そんな不可解な現象が起こったのは初めてだった。
そして、ようやくと言っていいほどの長い歳月を経て、君は君の愛する人を再び巡りあった。それなのに、何の因果だろうね。君はやっぱり、昔の彼女と同じように。
彼の為に、一つ嘘をついた。
私はね、彼女の気持ちを本当の意味で分かってはいなかったんだ。その嘘一つをつくためだけに、彼女がどれだけ悩んだのか。どれだけの決意が必要だったか。あの日の私の心無い言葉を、どれだけ彼女自身が否定したかったか。私はミオに、なんて酷い言葉を言わせてしまったのだろう。ごめんなさい、だなんて。本当は謝らなくてはならないのは、私の方だったのに。
させまいと思った。君にだけは。あんな悲しい想い。君の愛する人にだけは。
好きだったんだ。本当に、心から愛していたんだ。でも私は愚かだから。彼女を不幸にしか出来なくて、幸せになんか出来なくて。私はミオを見殺しにしたも当然で、だからこんな私は幸せになんかなれっこないって、分かっていたんだ。だからこそ、君には。彼女にそっくりな君には。心から、幸せになって欲しいと願ったんだ。
決して幸せになることが出来なかった、私達の代わりに。
最後の台詞を口にした先生は、そのまま肩を震わせて嗚咽する。両手で顔を覆って、何かを祈るみたく、あるいは悔いるみたく。ただただか細くすすり泣く声が聞こえた。悔やんでばかりの人生だと、あの教会で先生は言った。ああ、そういうことだったのだと、俺はようやくその意味を知る。
言葉が届かない。愛を伝えられない。それがどんなに苦しいことか、ショウには分かる?
あれは、ミオの言葉じゃない。過去を悲観した先生の、心からの叫びだったのだ。
小さくなった先生の姿が、少し前の自分の姿と重なって見える。不幸にしかなれない自分は、幸せになれないのですか。誰も愛せないのですかと、嘆いていたあの時の。だから俺は、それを否定してやるのだ。………今までずっと一緒にいて俺を励ましてくれた彼女の言葉で。或いは、先生の台詞を持って。
「いいえ、それは違います」
だから今度は、俺が先生の呪縛を解き放とう。彼ら二人が、自分にそうしてくれたように。
「ミオが俺に言ってくれました。この世界に、不幸にしかなれない人生なんてある訳がないと。馬鹿馬鹿しい幻覚だと先生は笑ってしまうのかもしれない。でも、今の俺はそれが正しいんじゃないかなって思っています。彼女の言葉を信じています」
「………」
「恋人から放置されたことのある俺の立場からすれば、恨みがないと言えばそれは嘘になります。でも、でもね。もう一度考えてみてください。ミオが貴方に嘘をついた理由を。俺が彼に、別れを告げた意味を。それば全て、自分の大好きな人に幸せになって欲しいという願いから。それだけ彼女に想われた先生の人生は、本当に幸せで無かったと言えるのでしょうか?」
耳元に、記憶の中にある彼女の歌声が蘇る。うん、分かっているよ。ミオの気持ち。ミオが先生に言いたいこと。大丈夫。全部俺が伝えてあげるから。
「先生にそんなふうに愛されたミオが、不幸であったはずがないでしょう?」
彼女は確かに、不幸とも呼べる人生だったのかもしれない。若くし病に侵され、手の施しようもなくその痛みに耐えて、永遠の眠りにつく時ですら、たった一人で戦って。愛する人にも理解されず、ただただ何も残せずに消えていったミオは、傍から見れば不幸そのものの人生だったかもしれない。
でも、俺には分かる。
誰が何と言おうと、彼女ほど幸せな人間はいなかった。
俺はずっとたった一人だと思っていた。たった一人だからこそ不幸にしかなりえないと思い込んでいた。でも、俺には俺を救ってくれた先生がいた。ずっと隣で笑いかけてくれたミオがいた。例え会いに来てくれなくても、俺のことをずっと想っていてくれた雪名がいた。誰かが自分のことを見守ってくれているという幸せがすぐそこにあった。
不幸だった俺は、本当は誰よりも幸せな人間だったのだ。
だから彼女も、きっと幸せだった。何十年も長い間、ミオのことだけを思い続けてくれた先生がいるから。これからの人生の中に、彼女の姿を思い出し、ミオは幸せだったと心から信じ続ける俺がいるから。ずっとずっと見守っているから。
だから彼女は、幸せだった。
零れ落ちる涙を指先で払いながら、俺はようやく顔をあげた先生の姿を真っ直ぐに見つめる。先生は、俺に魔法をかけてくれました。俺が幸せになれますようにと、願ってくれました。そうして自称魔法使いにミオと一緒にいた俺も、魔法使いになれました。
だから俺は、自らの魔法を持って先生の魔法を終わらせます。
幸せになる為にかけられた魔法なら。
「先生。俺はもう大丈夫です。だって、こんなにも俺は幸せだから」
叶ってしまえば、それでおしまい。
「そうそう。俺、夢の中でミオと会いました。本当の彼女と会うのは初めてだったから、妙に緊張してしまいました。けれど彼女、相変わらずでしたよ。そして俺は、先生にと彼女から伝言を頼まれています」
“私は今でも待っています”
「さよなら。もう俺は、ここには二度と来ません」
言い残して、俺はただ一人泣いている先生を置き去りに、部屋を立ち去ろうとする。けれど最後に一言だけ、どうしても一言だけ。先生に伝えたいことがあって。結局我慢出来ないままに踵を返し、今まで見せたことのないようなとびきりの笑顔で、彼に告げた。
「今度の本の結末は、ハッピーエンドが良いなと思います。……ショウ先生」
重い重い扉を力任せに開いた向こうに佇んでいたのは、雪名だった。この家の近くにある喫茶店でしばらく待っていろと忠告していたはずなのに、案の定しびれをきらしてやってきてしまったらしい。お前はちょっとの間ですら待つことは出来ないのか、と呆れながら文句を言えば、だって木佐さん、ものすごく深刻な表情をしていたから、と心配そうに雪名が告げる。こいつ、結構鋭いよなーと思いつつも、真剣に俺を見てくれていたことが割と嬉しかったので、それ以上の追及は止めた。折角一緒にいるというのに、こんな些細なことで喧嘩をするのも馬鹿らしい。
「用事は終わった。付き合わせて悪かったな」
「いいえ、平気です。それで、これからどうします?折角だからこのままどこかに行きますか?」
「うーん。どちらかと言えば、二人でのんびり家にいたいかも」
「それなら、そうしましょう。あ、でも夕食の材料だけは帰る途中に買っていきましょう。何か食べたいものはありますか?」
「なんでも。暖かいものなら特に良い」
「それならデザートはどうしますか?」
「えーと、それは買う必要がないな。家に、マドレーヌが死ぬほどある。お前も見ただろ?あの缶の山」
「…あれって、木佐さんが買ったんですよね?」
「そうだけど、何?」
「木佐さんって洋菓子より和菓子の方が好きだと思っていたから、ちょっと意外で」
「まあ、俺も和菓子の方が好きなんだけどさ。だからといって、ここにあるものを捨てるほど、俺は馬鹿じゃないってことだ」
俺の台詞に、雪名は意味が分からないとでもいうように首を傾ける。それに少し笑って、もしミオが隣にいたら、彼女はきっと全部理解してくれるのだろうなと思った。
子供の頃の俺は確かに、いちごの方が好きだった。りんごでは嫌だった。でも俺はそのりんごを誰かと分け合って食べる喜びを知ってしまった。俺は、俺が持つ幸せに気づいてしまった。だから、自分は自分の幸せをおいそれと譲る訳にはいかないのだ。
不幸を生み出すのが自分の心なら、きっと幸福だってそうだから。
「ついでに、もう一つ聞いてもいいですか?」
「はい、何でしょう?」
「今朝、木佐さんは自分のことを魔法使いだって告白してくれましたけど。それならば一体、どんな魔法を使えるんですか?」
少しくぐもったように笑う雪名に、同じ笑顔で返してやった。
「残念ながら、俺は先ほど魔法使いから降格しまして、人間に戻ってしまいました。だから俺に魔法は使えません。ですが、たった一つ、人間の俺にだからこそ出来ることがあります」
魔法が魔法にしか使えない意味。人が人にしか出来ないこと。彼女が教えてくれたこと。
「俺は、雪名のことを幸せに出来る」
それだけで良い。
長い長い夢を見ていたように思います。
私が目を覚ました時に視界に入ったのは、相も変わらずに病院の白い天井と純白のカーテンでした。窓の隙間から見える空は綺麗な青色で、もう起き上がる気力も、美しいものを美しいと伝える力も残されていない私は、ただただ心の中でその素晴らしさを湛えました。この感動をどうやって彼に伝えよう。そんなことを考えながら、私は自らの思考がいかに無意味であるかを知るのです。私は、本当に心から好きだった人に嘘をつきました。あんなに心優しい人を騙しました。だから、弱り果てた私の隣には誰もいなくて、でもそれは自業自得だと思います。けれど、それを悔やむつもりは私にはないのです。
そうそう。最近、不思議な夢を見るようになりました。
何と私の大好きな人の名前と同じ男の子と、一緒に暮らす夢です。男の子というには年齢が行き過ぎているような気もしますが、私にとっての彼は弟みたいなもので。恋愛感情がこれと言っていいほど全くなかったので、そのままの表現でいきます。私が本気で恋をしたのは、あの人ただ一人です。その男の子も、私と同じように一生懸命に恋をしていたから。彼の迷惑も顧みず、ついつい応援して背中を押してしまいました。
本当はあんな台詞、私に言える義理がないことは分かっていました。でも、私はその男の子にそれを伝えてしまいました。私が、私のしたことに後悔はなくても、あの男の子にとってのこれからが悔やむものになって欲しくはないから。もしそんな私の隣に貴方がいてくれたなら、貴方は私のことを勝手だと言うでしょうか?それとも、君らしい、と笑うでしょうか?答えはきっと私には永遠に分からないでしょうね。
私の夢には見えました。その男の子が、大好きな人と笑いながら歩く姿を。光の中に見ました。
私は心底安堵する一方で、少しだけそれを羨ましいと感じました。もう私には叶わないものでしょうけれど、出来れば私も、ずっと貴方と笑っていたかった。
私は目を閉じて、眠って、また目を覚まして現実を知って。そしてそんなことを繰り返すばかりの日々です。けれどもう間もなく、そんなありきたりの毎日も終わってしまうことでしょう。
私は、魔法使いでした。貴方を幸せにする為だけの、魔法使いでした。
私のかけた魔法で、貴方は幸せになれたでしょうか?私のことなど忘れて、幸せになっているでしょうか?もし私の願いが叶っているというのならそれに越したことはないけれど、不思議な夢を見ているということは、未だ私が魔法使いである証拠なのでしょう。
私は多分、もう人としては死ねないから。貴方を苦しめた魔法使いは、永遠に貴方の心の中で生き続けるだろうから。
嫌だなあと思いました。考えたら、涙がぽろぽろと零れはじめました。でも、私はそれを拭いません。感情のままに泣くことを堪えることも出来なければ、指先を動かすただそれだけのことさえ私には無理なのです。嫌だなあと思いました。
私は、本当は一人で死ぬのが怖いのです。
死ぬのは嫌です。この世界から自分がなくなるなんて考えたくもありません。私は、死にたくなんてなかった。もっと、もっと、ずっとずっと生きたかった。大好きな貴方の傍にいて、笑っていたかった。幸せになりたかった。
でも、死にゆく私の存在は誰かを不幸にしかしないから。
こうして、たった一人で泣くことしか、私には許されてはいないのです。
そうやってさめざめと私が泣いていると、何か温かいものが私の頬に当てられました。最初はハンカチか何かだと思っていたそれは、人の掌でした。
嘘でしょう、と思いました。
だって、そうやって優しく涙を拭ってくれたのは、別れたはずのあの大好きな人だったから。
私は、声にならない声で叫びました。涙がまた次々と零れました。彼はそんな私の髪を、ああ、まるで昔に戻ったように優しく撫でて、微笑みながらこう言ってくれました。
「ありがとう。君に出会えた私の人生は、幸せだったよ」
ああ、やっと。やっと私のかけた魔法は終わりを告げて、私は人間に戻ることが出来ました。
恐怖は不思議と感じませんでした。ただただ幸せでした。大好きな人が最後の瞬間に私の掌を握ってくれて、これ以上の幸福はありませんでした。
私は、幸せでした。
閉じゆく視界の中に、貴方の笑顔が見えます。耳元で貴方が囁いた言葉を、私は胸に刻みながらこう答えました。
ありがとう。私も貴方が大好きでした。
だから、またね。
おやすみなさい。
※
おしまい。お付き合いありがとうございました!
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