一度、たった一度だけ。


本棚の中にあったその一冊をするりと抜き取ったことがある。タイトルとその名前だけを確認し、ぱらぱらと中身を読み漁ったのもきっと遠い記憶。その中の物語が、あまり幸せな結末ではなかったから。俺はそっとそれを元の場所へと押し込んだのだ。誰からも理解されないお話と、誰かに理解してほしかった感情と。


多分、俺はその本当の意味に薄々は気づいている。


ただ、それを事実として突きつけられるのが怖くて。…見なかったことにした。何も見えなかったことにした。知らないということは、幸せだから。偽りの世界でも良いから、自分だって少しくらい、幸せになりたかったから。


目が覚めたと同時に感じたのは、酷い頭痛だった。ぱっと視界が開けたと同時に目に入り込んだのは見慣れた天井で、ああ、俺はあのまま倒れこむようにして泣き続け、いつしか眠ってしまったのだなと思った。起き上がろうと腹に力を込めても、それだけの気力がない。呆然としたままに上を見上げて、乾いた笑いが胸にこみ上げてきた。


ああ、三年前のあの日と同じだ。何もかもを失って、全てを投げ捨てたくなってしまったあの時と。でも、結局、あの頃の俺はまだ何も失っていなかったんだよな、と小刻みに呼吸を続けながら考える。雪名のことを信じ続けることはいくらでもあったはず。なのにそれをしなかったのは自分。実体を持たない自分とは相反する彼女とは、きっといつか別れが来るはず。それが怖くて、ずるずるとその時を拒んでいたのも自分。そして、手から離さないようにすればするほど、ああ、それらはするりと抜けおちてしまうのだ。ただ、幸せだった頃の余韻を残して。もう二度とお前には手に入らないんだよと嘲り笑って。


何てことはないさ、と自分に言い聞かせた。


人間は、いくらそれを望まなくても一人で死ぬ。それは変えようのない事実だ。人生の終わりは、誰だって孤独。その恐怖の下準備が出来るのなら、きっと一人になることはそんなに悪いことじゃない。


何てことはないさ、と口にした。そうでもしないと、また涙が溢れてきてしまいそうになるから。


カタリ、と物音が耳の奥に聞こえたのは丁度その時で、ほぼ条件反射のままに勢いよく立ち上がった。この部屋にいるのはもう俺一人だけで、他の誰かなんていやしないのに。いてくれるはずもないのに。まるでそこにいる見えない誰かを探すみたく、足音も立てずにのそのそと歩いた。…案の状誰もいなかった。



誰もいなかった代わりに、そこには一枚のメッセージカードが落ちていた。



カード、なんて言えば聞こえはいいが、それは結局は俺がいつも使っている名刺にすぎなくて、裏面の白紙に文字らしきものが殴り書きされているというお粗末なものだった。そこにあったのは想像通りにミオの文字で、まるで怒りや悲しみを露わにしたような震えた文字が躍っていた。…このまま無視してしまおうかとも思った。…でも、結局は彼女の言うとおりにしようと決めた。だって、最初から最後まで俺は彼女の言いなりで、それに刃向える力が、所詮俺には無かったからだ。


あの教会で、待っています。



カードには、こう書かれていた。






ここに来るのも随分と久しぶりの感覚だなと思いながら、帰りたいという気持ちを振り切るように足を進めた。先生の家に訪れるようになって、顔なじみになったシスターに挨拶をするようにはなったものの、実は教会の中に入るのはあの時彼女に初めて会った時以来のことだった。けれどたかが数年でその佇まいがすぐに変わる訳もなく、目の前にした扉は相変わらず立派なものだった。


先客がいる、と意味深にシスターに伝えられ、それが誰であるかは何となく分かった。


扉の向こうの世界は、相も変わらずに美しい世界だった。厳かで、纏わりつく空気すら透明で。夕暮れの赤が窓の向こうを染めていても、ここだけがまるで今までいた現実から切り離された空間みたいで。何故、自分がこんな場所にいることが出来るのか、それも分からなくなる位に。


そして、目にするのだ。あの時の彼女に、一身に何かを縋るように祈る、先生の姿に。


「おや、珍しいね。君がここに来るだなんて」


人の気配に気づいたらしい先生が、振り向きざまに俺を捕えて優しげに笑った。本当の理由は勿論言わずに、何となく気が向いたので、という言葉で空気を濁す。先生もそれ以上追及するつもりは無かったのか、ただ前を向いて再び祈り始めた。


先生は、一体何を祈っているのだろう。ふとした疑問が胸に芽生えると同時に、そう言えばミオはあの時に何を願っていたのだろうと思った。それを尋ねるチャンスはいくらでもあったのに、結局俺は何も聞かなった。ううん、何もそれだけの話じゃない。俺は彼女に向けて真剣に耳を傾けたことが今の今まで一度だってあっただろうか?その事実に、ただただ愕然としてしまった。


「今の先生は、何を願っているのですか?」
「何かを願っているのではなく、懺悔をしているんだ」


今度は俺の方に振り向きもせず、そのままの体勢で先生が答えた。それ以上彼に近づけなかった。その線を越えてしまえば、今まで大切にしていた何かが壊れてしまうような気がして。


「先生でも、悔やむことがあるんですね」
「何を言っているんだ。私の人生なんて、悔やんでばかりのものだったよ。後悔のない人生を送るように、と偉大な先人たちがいくらでも見事な言葉を残してくれているのに。私たちは愚かだから。いつだって後悔ばかりしている。ああすれば良かった、こうすれば良かった、と。もうどうすることも出来ないのに」


私にとっては、終わってしまったことだから、と先生は言葉を続ける。悲壮を帯びたその声は、教会の穏やかな空気にゆっくりと溶けるも、彼からその悲しさや苦しさが全て立ち消えてはしまわなかった。だってそれは彼自身のことであり、先生の根本となるものだから。



知っていた。俺は最初から。



先生も、本当は不幸側の人間だって。



だから先生と一緒にいることが楽だった。心が安らかになれた。先生の昔々に何があったのかは知らないけれど、俺だって自分の過去を話さなかったのだから同罪だ。傷ついた心は、傷ついた人間にしか分からない。人間は自分の経験を持ってしか全てを語れない。ただ、傷を舐めあうことが出来るだけ。けれどそれはお互いに不幸の底に留まることであって、決して幸せにはなれない。それが自分達にとっては素晴らしく楽に生きる方法だったのだ。



「先生。俺も同じなんですよ。多分先生なら、もうずっと気づいていたことだとは思いますけれど」
「………」
「こんな俺だからせめて誰も傷つけないようにって、誰かを傷つけて後悔しないようにって。昔から思っていたのに。結局俺は、後悔ばかりしている。もっと幸せな人間に生まれていたらと、ありもしない自分と比べて、傷ついてばかりいる。自分自身が大切な誰かを苦しめるだけの存在なら、不幸を振りまくだけの人間なら」





私達が幸せになれる方法は何処にあるのですか?





俺の質問に、先生は答えない。答えてはくれない。ただただ悲しそうな瞳で俺を見るだけで、遂にはその交わされていたはずのその視線すら途切れてしまう。そんな方法なんてないってこと。俺と同じ立場の彼が知るはずもないこと。分かっていた上での意地悪な質問だった。




答えなんて何処にもない。








「いいえ、それは違うわ」



唐突に耳に響いたのは、聞き慣れたミオの声だった。瞬きをした刹那、彼女はすうっと突如俺の前に姿を現す。今の今まで、決して先生のいる場所には彼女はその姿を見せなかったから。だから、彼女の行為に驚いた。ミオのしていることは、先生を傷つけることに等しい

から。本当は誰よりも心が優しい彼女が、まさか自分の好きな人を犠牲にするとは予想だにしなかったのだ。


いつもは無駄におめかしをしているミオは、その時ばかりはありのままの姿だった。やっぱり彼女は俺にしか見えなくて、先生は気づかなくて。俺を残して静かにその教会を立ち去ろうとする先生を追って、振り向きざまにショウはそこで黙って見ていなさい、と冷たく告げられる。



「好きです。貴方のことが。一目見た時から、大好きでした!愛していました!」



張り上げた彼女の声が、教会中にこだまする。心からの悲鳴に近い叫びは、けれどわずかに空を揺らしただけで、届かない。俺にしか聞こえない。彼女が本当に想う人には届かない。あんなにも綺麗な髪を振り乱して、目尻に溜めていた涙をも零して。滴り落ちる涙はけれど何処にも存在しなくて。彼女の姿は無くて、消えていて。


好きです、好きですと子供のように泣きじゃくる彼女を置いて、先生はここを去っていく。


息を弾ませた真剣なミオの姿を、俺は言葉も失くして見守って。ほら、ご覧なさい、と掠れたような声で彼女が言った。


「ショウの言った通りよ。私には、何も出来ないの。なあんにも。ただ一言自分の想いを伝えることも、そうやって誰かを幸せにすることも。あの人と私、一緒にはいれないのよ。どんなに好きでも。どんなに愛していても。ずうっと前に死んじゃった私は、彼の為に何も出来ないの!…そのことが、どんなに苦しいか、ショウは本当に分かってる?」


白いワンピースには、彼女の涙が次々に落ちて滲んでいく。詰め寄って至近距離に現れた彼女の髪が頬をくすぐり、泣きながら睨むように突き刺すその視線に体がぴくりとも動かなくなる。


「声が、届かないの。もう何を言っても遅いの。伝わらないの。そんな役立たずな私と比べて。ねえ、ショウ。貴方は何が出来ないというの?」
「……ミオ」
「言葉が話せれば愛を歌える。伝わる視線があれば、愛する人とそれを交わせる。その目があれば愛する人を見れる。その唇があれば好きだと告げられる。その掌があれば大好きな人を抱きしめられる。私には、もう何一つ出来ないこと。何で何もかもが出来るくせに、どうして何もかも出来ないって、そんな悲しいことを言うの?」


ミオの台詞が、ぐさりと自分の心に突き刺さった。もう俺はとっくに諦めてしまったはずなのに、諦めなくてはならない人間のはずなのに。彼女の台詞に揺り動かされている自身に気づいて、酷く動揺する。


「…だって、仕方ないんだよ。……俺は、不幸側の人間だから」



最初から決められていたことだから。どうしようもないことだから。



「馬鹿言わないで!この世界に、不幸にしかなりえない人生なんてある訳がない!今までが不幸だからと言って、それが未来に続くとも限らない。ショウは、今までずっと不幸だった?幸福を感じたことがひと時も無かった?楽しいなと思えたことが一度も無かった?雪名くんや、先生や私に出会えたこと。一度も、喜んでくれたことは無かった?」
「……ミオ」
「私は、幸せだった!何も出来ないただの幽霊だったけれど、ショウが私を見つけてくれたとき、本当に嬉しかった。一緒に過ごせた時間、楽しかった!私の幸せをショウが否定すること!私は許さない!だから、ショウが私と出会えた幸せを、ショウ自身が否定することも許さない!」


彼女の言い分は随分と横暴で、正直、反論の余地はいくらでもあった。なのに、それが出来なかったのは、いつの間にが瞳からはぼたぼたと涙が零れていたから。


こんな自分でも、幸せになって良いんだよと。許されたような気がしたから。




「実はね、私は魔法使いなの」



俺の涙を優しく指先で拭いながら、彼女は言った。まるでそれを初めて自分の前で告白した時のように微笑んで。自分だってまだ泣いているくせに、それでも無理やりに笑いながら、彼女は子供に諭すように静かに語る。


「でも、前にも言ったわよね。魔法っていうのは万能じゃない。魔法が、魔法使いにしか使えないように、人間には人間にしか出来ないことがあるって。ショウが、幸せになるために必要な人は誰?幸せになるために、ショウを必要としてくれる人は、誰?……その答え、もうショウには分かるよね」
「……でも、…俺のことを許してくれるかな」
「ショウのことを許せるのは、自分自身でもなければましてや神様でもないわ。謝罪するべき相手に、ちゃんとごめんなさいは言えた?」




伝えていない。そういえば、お前が好きだというただ一言だって、俺は一度も、雪名に伝えていなかった。




「許してもらうにはまず、伝えること。それからよ」


彼女が教えてくれたことが、真実なのかは分からない。それが本当に俺が探し求めていた答えかどうかも知らない。ただ、それでも、ミオの言葉だけは信じてみようと思った。俺の幸せを心から信じてくれた彼女だから。


疑わずに信じ続けられることが、幸福になれる条件だから。


さあ、行きなさい、というミオの声に押されるように、俺は走り出す。途中、彼女にありがとう言うのを忘れていたことを思い出したけれど、それは後で伝えれば良いと思った。ここで雪名よりもミオを優先したら、きっと彼女は怒るに違いない。だから、心の中だけで、俺は彼女に感謝の言葉とそっと呟いた。










「全く、本当に世話が焼けること」


残された私はくるりと身を翻して、誰もいなくなった教会で、あの時と同じように一身に何かを祈り始める。きっと私が彼の為に出来るのはここまで。私が私として出来ることもこれまで。後のことは、きっとあの二人自身が、未来を切り開いてくれる。


どうか、だから私の魔法も、誰かが終わらせてくれますように。



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