何をどうやって帰ってきたかも全く覚えてはいないくせに、気づけば俺は自分の部屋の玄関の前に佇んでいた。本当はこんなぐちゃぐちゃな気持ちのままになんて帰りたくも無かった。でも、俺の帰る場所はここしかなかった。自分の表情が普段のそれとは全然違うことだって自覚している。このまま部屋に入ってしまえばこの先どうなってしまうのかだって、俺は知っている。でも、多分これが来たるべき俺の未来だったのだろう。ただ、それが三年間延びたというだけの話。束の間の夢を見れた。その幸福に、ひたすらに俺は感謝をするべきなのかもしれない。


意を決して玄関の扉を開くと、その音に気付いたらしいミオがこちらに向かってやってくる。


「あれ?ショウ?随分と早いね?今日は雪名くんと一緒だったんでしょ?」


へらりと笑いながら俺に尋ねる彼女は、おそらく何も疑っちゃいないのだろう。俺が未だに雪名のことを心から好きなこと。そしてそんな俺を雪名自身が受け入れてくれたこと。だから自分達二人が、これから先きっと幸せになれることを。ミオはきっと信じて疑わない。


そんな彼女に事実を突きつけるのは心苦しかった。それがミオを傷つけることだと分かっていたから。自分自身の心を引き裂くものだとも理解していたから。でも、ね。それを今の俺が隠し通せるわけがないってことも、全部知っていたから。


きっと酷い表情をしているだろう俺の顔を覗き込んだ直後、ミオからすっと笑顔が消えた。


「………ショウ、どうしたの?顔色悪いよ?」
「何でもない」
「…嘘。何でもないってそんなはずないもん!どこか具合が悪いの?…苦しいところがあったら、すぐに病院に」
「……だから、何でもないって」


ただ。たった今雪名と別れてきたばかりだから。


掠れた声でようやくありのままの事実をミオに届けると、彼女が絶句しているのが視界の端に見えた。鋭いミオの目をそれ以上に見ていられなくて、ふい、と思わず視線を逸らす。それなのに自分の意思とは相反して、ぺらぺらと口からは御託が溢れ出るものだから。それが可笑しくて、少し笑ってしまった。


「いやー、うん。やっぱり無理だったし、駄目だった。まあ、別にこういう結果も有りだよな。雪名なんてまだまだ若いし、これから先俺なんかよりずっといい人を見つけるだろうよ。むしろ、俺なんかのせいで三年を無駄にさせたことが申し訳ないくらい。ああ、でもそれを言えば俺もか。若い恋人に三年も引きずられた俺も、馬鹿みたー」
「ショウ」


どうして?


俺の言葉を遮ったミオの言葉は、やはりそんな疑問から始まった。きっとそうなるという覚悟があっただけに、心臓がびくりと跳ねたけれど、今更止められるはずも無かった。


「どうして?なんでそこで別れちゃうの?」
「……ミオには関係ないだろ」
「関係なくないもん!…だって、私知ってるよ?ショウがどれだけ雪名くんのことを好きだったか。ずっとずっと忘れられなかったか!それで、やっと雪名くんが戻ってきて。なのに、どうして?雪名くんだって、ショウのこと好きだって言ってくれたんでしょ?そう私に教えてくれたじゃない!」
「五月蠅い!」


ミオの言葉に思わず激高して言葉を荒げると、彼女は僅かに怯えたような顔を見せた。しまった、とは思う一方で、でもどうせならこのまま自分の言いたいことを吐き出してしまおうと心に決めた。……最初から傷つけると分かっていたのなら、それは一瞬で良い。愚かな俺みたいに、何年もの間彼女を苦しませることなんてさせたくはないから。


「なあ、ミオ。お前に何が分かるの?」
「……分かるよ!ショウのことならなんだって!」
「俺のことを理解してるからって、お前に何が出来るの?どうせ、何にも出来ないじゃないか」
「………そんなこと」
「ミオ。お前さ、先生のこと好きなんだろ?でも、先生の傍にいたら悪影響ってそれ、自分の好意が相手の迷惑になることを考えたことも無いの?そうやってお前の我儘に付き合わされて、人のことに勝手に首を突っ込んできて、俺にとって迷惑だってこと。本当に一度も思いつかなかったの?」


俺の言葉に、次第にミオの表情が歪んでいく。今にも泣きだしそうなその表情にちくりと良心が痛むものの、それをぐっと堪えて多分酷い顔でただただ笑った。笑うしか無かった。そうすることしか俺には許されなかった。



「お前が魔法使い?笑わせんなよ。どうせ何の役にも立たない、ただの幽霊のくせに」



ガン、と頭に強い衝撃が走ったのは、その台詞を言い終えたと同時のことだった。思わず床に座り込んで痛みを堪えながら頭を抱えていると、視線の先には空の鍋ががらんごろんと回転を続けている。それが彼女の仕業であることは一目瞭然で、つい文句の一つでも言いたくなって勢いよく顔を上げると、そこには、唇を噛みしめながらぼろぼろと涙を零すミオの姿があった。


ぱたりぱたりと、俺の手の甲に落ちるその雫は、感触なんてないくせに酷くあたたかく思えた。



「……もう、ショウなんて知らない!」



まるでテレビの電源を切ったように、彼女の姿がぷつりと消えた。




ひりひりと痛む後頭部を出来るだけ優しく撫でながら、何とか一人で立ち上がった。よたよたと部屋の中に入って、途端、辺り中に籠る料理の香りに思わず鼻がひくつく。ああ、今日はミオ特性のスープだった。俺が彼女と初めて出会った時に、一番最初に俺の為に作ってくれた料理。彼女が作った料理は確かにゲテモノ料理が多かったけれど、その中には確かに美味しかったものがあったのだ。彼女のこのスープは、ミオが作る料理の中で一番大好きだった。


小皿に、そのスープを少しだけ掬って、ゆっくりと喉に流し込んだ。やっぱり、美味しかった。


ことり、と皿を置いて部屋の中に戻る。彼女がここにいる気配はなく、ただただあるのは静寂ばかりだ。別に寂しいとは思わなかった。だって、元々俺は一人だった。先生やミオと出会う前は雪名と一緒にいたけれど、それ以前の俺はたった一人で生きてきた。それを寂しいことだとは考えなかったし、それを普通のことだと思っていた。



不幸な人間は、一人でしか生きていけないことを知っていたから。



やだなあ、と思った。こんなにも弱くなってしまった自分を認めたくないと思っているのに、勝手に涙が溢れてくるから。やだなあ、と小さく声に出してみた。また俺は一人ぼっちになってしまったから。一度、零れ落ちた涙は留まることもせずに、ただただ頬を伝い落ちる。それを拭う気力もなく、だというのに、脳裏には優しかったあの二人の姿が思い出されるのだ。

もしここに雪名がいてくれたら、きっと俺を優しく抱きしめてくれただろう。



もしここにミオがいてくれたら、きっと優しげに俺の髪を撫でてくれていただろう。



でも、今の俺には誰もいないから。愛しかった恋人も、俺のことを馬鹿みたいに幸せにしてくれた魔法使いも。誰もいないから。俺はただただ一人で泣くことしか出来ないのだ。


へたりと、床に座り込み。何もない空を縋るように見つめて、小さく叫んだ。





神様。





自分が嫌いです。






どうして俺は不幸側の人間として生まれてきてしまったのでしょう?幸せになれない人生だというのなら、いっそ生まれてきたくなかった。分かっていました。これは俺にとってただの幸せな夢だと。夢は夢のままでそれが現実になんてなりはしないこと。不幸側の人間は、誰かを幸せにすることなんか出来なくて。ああ、だからこそそうなんでしょうね。あの雨の日に拾えなかった猫と同じように、自分が幸せにしてやれないと分かっていたのなら、それが差し出された手であっても受け取るべきではなかったのですね。

大好きでした。あの人のことが。


好きでした。今まで一緒にいてくれた彼女のことが。


でも、俺はそんな大好きな二人のことを、幸せにすることが出来なくて、不幸にすることしか出来なくて。ああ、だからそうなのですね。誰かを不幸にするだけの魔女は、自らの命を絶つしか他に方法が無かったのでしょうね。



でも、だとしたら一体俺はどうすれば良かったのですか?



出会わなければ良かった。好きになんてならなければ良かった。愛しいなんて感情を持つんじゃなかった。俺に心なんてものがなければ良かった。



ねえ、神様。



不幸にしかなれない人間は、幸せになることは出来ないのですか?



誰も愛せないのですか。






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