何もかもが上手くゆくはずだったのだ。


「最近のショウ、何かおかしい」


床の上にごろりと寝そべりながら雑誌を読んでいると、クッションをぎゅう、と抱きしめたミオが心配そうな表情で言った。自分ではいつも通りを完璧に装っていたというのに、あっさりと彼女に見破られていたことに一つ苦笑いを零す。それでも酷く動揺した心を見透かされまいと冷静に努めて、一旦は彼女に投げた視線を雑誌に戻しながら尋ねた。


「どの辺が、おかしい?」
「全部」
「…全部って、随分抽象的な答えだな」
「だって、全部なんだもん!何もかもがおかしいんだもん!」


やや憤慨したような彼女の指摘は、えらく曖昧に見えて実はとても具体的だ。事実、ミオの言葉は的を射ている。長い間一緒に暮らしてきた彼女が感じ取る違和感は、勿論俺にだって分かっている。けれど、分かっているからこそそれが何なのかが自分でも良く分からないのだ。


読んでもいない雑誌に目を通しながら思う。一体、何なのだろう。何が自分をこんなにもおかしくさせているのだろう。多分、その原因に思い当たる節と言えば一つしかなくて、結局率直に言えば、おおよその根源は全て雪名との再会に起因するものなのだろう。


でも、自分でもおかしいと思うのだ。俺がずっとずっと好きで忘れられなかった人ともう一度出会えて、その相手が未だ自分のことを好いていてくれて。お互いの想いを確かめあった上で、またその手を結んだというのに。全ての誤解は解けて、これでめでたしめでたし。…だと思っていたはずなのに、この胸に巣食った黒いもやのようなものが、幸せであるはずの日常を少しずつ曇らせていくのだ。



「雪名くんと、喧嘩でもしたの?」
「…はっ、そんなものするわけないだろ!久し振りによりを戻した恋人と、早々に喧嘩をする馬鹿が何処にいる?」
「……それなら、良いけど…」


おおよそ直感で口にしただけだろうミオの言葉は、けれどずばりすぎていつも対応に困る。ムキになって口調がやや荒くなってしまったせいか、ミオがうなだれるようにしょんぼりとしている。やっぱり彼女に雪名との関係と言わなければ良かったかなと少し後悔した。けれど、一応は彼女と一緒に暮らしているのだから、そういった大事なことを告白しないのは不誠実だし、何よりやたらめったら鋭いミオにこの先隠し通せる自信も無かったから。


ふいに持ち上げていた雑誌が彼女の手によって床へと投げ捨てられた。文句を告げる前に与えられた抱擁は、いつもに増して体が動かない。辛うじて口をぱくぱくとさせ、おい、どけろと意思表示をするも、まるで慰める様に抱き締める彼女には勿論届かない。


自分の頬に、触れられるはずもない彼女の髪の束がぱたりと落ちる。途端、体から縛りが解けて、ようやく自由になった体は、それでもおもむろに彼女の柔らかな髪を撫でるだけだった。


「ね。ショウ」
「うん?」
「私には、何でも話してね?ショウのことなら、私何だって真剣に聞くから」
「………分かった」
「絶対ね?約束だからね?ショウは、私にとって二番目くらいに大事な人なんだから!」
「…そこは嘘でも一番って言えよ」
「私の一番は貴方よって言ったら、困るのはショウのくせに」


そう行ってむっつりと唇を一文字に結ぶミオの顔を見上げれば、無意識のうちにふと笑みが零れた。そうだ、困るな。だって俺の一番はお前じゃないから。と正直に答えれば、そこまで素直に言わなくて良いわよ!とべちりと頭を叩かれる。


抱き締める彼女の体に勿論体温がある訳もなく、なのに不思議と心は穏やかだった。そうして、自分自身に大丈夫、大丈夫だと言い聞かせている事実に気がつくのだ。


今の状況は何てことはない。心にわだかまる漠然とした不安などには、きっと意味がない。ものすごく些細なことで、そしてきっとつまらないことなのだ。たいしたことではないのだ。全部、全て。


何もかもを投げ捨てようとしたあの日の絶望に比べれば。


ミオの細い体を抱き返しながら思い出す。自分の中の芽生えた気持ちに、初めて自覚した三年前の出来事。無意識に頬を赤く染める俺に、それを楽しそうに、嬉しそうに笑いながら俺のことを抱きしめてくれた雪名のこと。ただただ自分の中に湧き上がる未知の感情が信じられずに戸惑い、それでも隣に彼が寄り添って俺に向かって微笑んでくれたこと。


あの頃は、確かに幸せだったのに。





ねえ。先生。一つ聞いてもいいですか?


最後の瞬間にローレライが、死を選んだことは本当に正しかったのでしょうか?俺は、彼女は何も死ぬことは無かったのにと思います。彼女は、確かに人を破滅へと導く悪い魔女だったのかもしれません。でも、ローレライは、魔女になりたくて魔女になった訳ではありません。


ねえ、先生。もう一つ聞いてもいいですか?


あの時のローレライが、もし愛する青年と共に生きることを選択しただというのなら、二人の未来は一体どうなっていたでしょうか?裏切ることしか出来ない魔女は、本当に青年のことを信じられたでしょうか?愛せたでしょうか?


それで心から、幸せだったでしょうか?





「………さん、木佐さん?」


唐突な場面転換と暗転。僅かに動揺しながらはっと辺りを見渡せば、すぐ近くに心配そうに俺の顔を覗き込む雪名の姿があった。あ、れ?とやけに乾いた声を喉から発すると、大丈夫ですか?具合でも悪いんですか?という彼の声が追いかける。ここは、何処だ?訝しむように周囲を探れば、自身の中にある浅い過去との記憶が簡単に答えをはじき出す。なんて事はない。ここは街中にある見慣れた映画館の中だ。


建物の外へと出て、予想以上に楽しかったですねと語る雪名に、返せた言葉と言えば、うん、まあ、という曖昧なものだった。先の映画は余程雪名のお気に召したのか、感動の余韻に浸るように彼は恍惚の表情を浮かべている。その笑顔をふと見上げて、覚えてもいない映画の感想を聞き流し、ただただ無理に笑ってみせた。


「あ、」
「…? どうかしましたか?木佐さん」
「悪い、同僚から不在着信入ってる。ちょっとの間だけ電話してきても良い?何かトラブルがあったのかもしれない」
「はい、勿論です。俺、ここで待っていますから」


騒がしい人混みを避けるようにくぐって、ひっそりとした空気の沈む路地裏に駆け込む。リダイヤルコールの先に待ち受けていたのは、案の定仕事の話。但し不幸中の幸いか否か、それは少しの電話での会話で済むようなものだった。電話を切って鞄の中に投げ込むと同時に、ふとため息が溢れた。


雪名の元に戻らなくては。そうやって心は酷く焦っているくせに、気が重くて重くて仕方ない。


後ろ髪をひかれるみたいに、けれどそれを振り切って、ごった返す人混みの中、雪名の姿を探した。


…すぐに見つかった。


雪名が誰か知らない女の人と一緒にいたところで、そんなの日常茶飯事すぎて今更驚きやしない。それが万が一自分が見知った人間であれば、尚更のこと。楽しげに彼の隣で談笑する女の子の姿にはどこか見覚えがあって、その子が昔雪名が紹介してくれた大学の友人だと気づくまでにさほど時間はかからなかった。


その二人の姿を遠くから呆然と眺める。まるでそこだけが別の世界の光景のように見えた。ううん。本当はそうじゃないよな、と直感で分かった。あの二人がいる場所が特別な世界なんじゃなくて、事実はきっとその反対。……俺がここにいるべき人間じゃないから。


なんだ、やっぱりそういうことじゃないかと思わず声が漏れた。


ああ、もう無理なんだとようやく悟った。


彼女と別れた雪名が、直後に街中に佇む俺の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる。木佐さん、とまるで三年前と何も変わらぬ姿で、変わらぬ笑顔で。つきりと痛む胸を必死に堪えて、ようやくたどり着いた雪名に、今日の夕ご飯のメニューを決めるみたいにあっさりと自然に、俺は伝えた。


「やっぱり俺達、別れよ?」
「………え?」


遊びのつもりだけの関係に用意していた作り笑顔と別れの台詞。まさか俺が雪名に使うとは思ってはいなかったけれど。仕方ないよね、と今しがた発した俺の言葉に、愕然とする雪名に向かって、容赦ない言葉で次々と弱り切った心を刻んだ。


「何で、ですか?」
「何でって、お前と付き合うことに飽きたから」
「でも、そんなの…」
「あのね、雪名。お前、三年もの間俺を放っておいて、今戻ってきたからってそれを何ですんなりと受け入れると思うの?どうせそうやって俺のことを馬鹿にしてるんだろ?」
「……違います!」
「違わないよ。お前の俺に対する行為の全て、全部俺を馬鹿にしてんの。…今までずっと黙っていたけれど、俺はお前のそういう軽薄なところ、大嫌い」


じゃあ、もう二度と連絡してくるなよ。もうこれっきりだから。


後は逃げ出すように、雪名に向かって背を向けて。奴のいた世界から勢いよく離れた。





雪名という存在は、いつだって綺麗だった。


俺に初めて恋を教えてくれたのは彼だった。本当の愛をうたってくれたのは雪名だった。最初は奴のことを丁度良いおもちゃ扱いにしていたのに、それでも雪名は俺のことをまるで宝物のように大切にしてくれた。二人で交わす何でもない会話が好きだった。流れる穏やかな空気が幸せで幸せで溜まらなかった。三年前に雪名と過ごした本の少しの短い時間。あの頃は、美しかった。幸せだった。


でも、今の俺は幸せなんかじゃない。


雪名はちっとも変っちゃいない。俺を真剣に好きでいてくれたあの頃のままで、綺麗なままで美しいままで。


でも、俺はもう綺麗じゃないから。最初から美しくもなかったから。


なあ、雪名。お前が三年前に姿を消した時、俺は間違いなくお前に捨てられたと思ったんだ。俺にとってのお前は、最初は遊びのつもりだったから。だからそうされても当たり前だと。だから俺はお前のことを忘れようとした。お前以外の色んな男と寝たし、それを当然のことのように思い込んだ。雪名に裏切られたと思った。……お前のことを信じていられなかった。


ごめん、雪名。本当に、ごめんな。


俺は自分のしたことを全部無かったことにして、お前と一緒に幸せにはなれない。


裏切ったのは、俺の方だね。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -