昔々、とある村に美しい娘がいました。心優しきその娘には、美しい青年の恋人がおりました。恋人たちは朝にさえずり、昼に笑いの、夜に語らい、それはそれは幸せに暮らしていました。


けれどある時、青年が娘を村に残し、旅立つことになりました。


それでも娘は、嘆くことなく青年が村から去るのを見届けました。約束をしていたのです。必ず娘の元に帰ってくると。戻ってきたら、今度こそ私達二人は一緒なろう。娘はその青年の言葉を信じました。


一ヶ月待ちました。娘は青年への届かぬ手紙を毎日のように綴りました。


一年待ちました。その手紙は娘の部屋を埋め尽くすほどになっていました。


二年待ちました。娘は、手紙を書くことを止めました。


三年目、娘は待つことを止めました。


娘は幼すぎました。何故なら青年との約束が果たされるものであると信じていたから。娘は幼すぎました。あれだけ愛しあった青年が自分を裏切るなんて思いもしなかったから。


娘は青年を恨みました。泣きながらこの世界を恨みました。青年とこの世界を純粋に信じた、愚かな自分自身を恨みました。


そうして娘が責め続けた言葉はいつしか呪いとなって、彼女は魔女になりました。


魔女の美しい瞳は村中の男達を惹きつけて、全ての人間が彼女を欲しいと願いました。けれど魔女は誰のものになることもなく、男達を破滅へと導きました。


魔女は捕らえられました。幾つもの心を、命を奪った罪で。教会の中で魔女は言いました。魔女の心の中に残っていた、最後の良心が願いました。


司教さま。私の眼差しは呪われています。どうか私を、死なせてください。


けれど司教を持ってすら、魔女を殺すことは出来ませんでした。何故ならば、彼自身も魔女の虜であったから。


生きることも、死ぬことも許されぬ魔女は、旅立つ青年を見送った崖を目指しました。そして緩やかな風が魔女の金色の髪をたなびかせたと同時に、波打つ海の向こうに、一艘の船を見つけました。


その船には、遠い昔、魔女がまだ人間であった頃に、愛しあったあの青年の姿がありました。


それを見た魔女は、自らの体を静かに海に投げました。




えらく酷い夢を見た。職場に来る途中で購入してきたパンにかぶりとかぶりつきながら、真っ白なままカーソルがまるで動かないパソコンの画面を眺めつつ考える。最早説明をするまでもないと思うが、あれはローレライ伝説の中身そのものを象徴するような夢だった。あの最後の光景の後に魔女は一体どうなってしまったのかは、答えを見なくとも簡単に分かることだろう。海に身を投げ自らの命を絶った魔女は、自らを呪い、海を呪い、一度愛した青年すら呪って、全てを狂わせながら今も尚波の中に人々を引きずりこんでその命を奪っている。一体なんだってあんな夢を見てしまったのだろうか。……多分、原因は二つある。


一つは、目覚めがけにミオが、あの曲を口ずさんでいたから。けれど基本、これは毎日恒例のことで、だから全てを彼女のせいにするのはお門違いだろう。問題は、残るもう一つの方なのだと思う。


雪名が、俺の目の前なんかに現れたりするから。


むしろ自分が昨晩見た夢など、まだ可愛いものだろう。今俺がいるこの現実の方が、自身にとってはとてつもない悪夢だと思えるのだ。本当に、いっそ夢であれば良いのに。あの休日の日、俺は朝から体調が悪くて、先生にすみません、今日は行くことが出来ません、という旨の連絡をする。こんな大事な日に体調なんて崩してばっかじゃないの!とミオは悪態をつきつつ、きっと俺の看病をしてくれるのだ。そんな調子だから勿論、あの日のあの時間に俺が本屋に買い物に行くこともなければ、そこで雪名に偶然出くわすということも無かったはずだ。…そう、あれは夢だったのだ。先生の家で久しぶりに昔の夢を長く見続けていたから、俺は夢と現実の区別がつかなくなってしまって、だからあんな馬鹿みたいなありもしない幻を見てしまったのだ。


「………さん、木佐さん」


世界の遠くで自分の名前が呼ばれていることにはっと気づいて、驚いて振り向けば俺の様子を訝しげに顔を傾け眺めている後輩くんの表情が目に入る。


「高野さん、さっきからずっと木佐さんのことを呼んでますよ?」


その声に弾かれれるように慌てて席を立った。律っちゃんにありがとうと小さな声で礼を告げて、ポケットの中そろりと手を入れる。中にあった小さな紙切れが、指先にかさりと触れた。俺の掌の中には、彼へと繋がる新しい番号が存在する。


そして今夜、俺は雪名と会う約束をしている。


結局、運命というただそれだけのことなのかもしれない。


例の喫茶店に辿り着いたのは出会ったばかりのあの頃と等しく、やっぱり俺の方が早くて。そして記憶の中にある雪名と一番初めに会話をした時と同じように、外にはけぶるような雨が降っていた。いつも通りにコーヒーを注文して、ぽつりぽつりと窓を叩く空の様子をぼうっと眺める。ウェイトレスが出来たての飲み物を運んでくるのとほぼ同時だった。喫茶店のドアがからりと音を立てて開かれる。見えたのは、案の定雪名の姿だった。


途端跳ねる心臓を押さえつけて、けれど何食わぬ顔で早かったなと口では言ってみせる。今の今までずっと鏡で何度も何度も繰り返して練習したから。俺はきっとうまく笑えているはずだ。


対面の席につく三年ぶりの雪名の姿をじっくりと眺めた。少しだけ伸びたように見える身長と髪。顔の輪郭は以前よりは少し大人っぽいものに変わっていて、なのにこちらを見てはにかむその表情には何処か昔の面影が残っている。数年を経過したというのに、劣化するどころか更にその美しさを増しているような気すらした。相変わらずに完璧に近い男は、微笑みを一旦仕舞いこんで、神妙な面持ちのままに告げ始める。


「すみませんでした。木佐さん。お忙しいのに」
「別に、気にしなくていいよ」


俺のそっけない口調に、雪名が驚いたように唇を噤んだ。怒っているわけでもないのに、ついその言葉尻が冷たくなってしまうのは、出来るだけ感情を顕にしないように俺が努力しているせいだろう。正直、自分ですら自分の気持ちが良く分からなかった。あの本屋で衝撃的な再会を経た時ですら、どうにかしてこの場から逃げ出したいという気持ちとは裏腹に「久し振り」なんて言葉がつい口をついて出てきてしまったのだから、訳がわからない。後は為すがままに連絡先を押し付けられ、流されるように次に会う約束を強引に取り付けられてしまったから。それが果たして言い訳なのかそれとも理由なのか。判断はつきはしないけれど。


何を言おうか、何を伝えようか。雪名とこうして会う前にはあれこれと色々台詞を考えていたくせに、いざ本人を目の前にすると結局なんの言葉も出せなくて。最終的に動いたのは、やっぱり雪名の方が先だった。


ミルクを注がれたばかりのコーヒーが、波紋を描いてゆるゆると広がっていく。


「木佐さん、今までずっと連絡をしなくてすみませんでした!」


両手をテーブルにつけて頭すらそこに押し付けるような行為は、土下座までとは言わないまでも謝罪のポーズとしては充分だった。とりあえず、それに驚愕するような反応は見せずに、いいから顔を上げろと促してやった。こんなところを他の人間に見られてみろ。確実に自分達二人が可笑しな目で見られるじゃないかと、文句を言いつつ少し笑ってみせる。


そうして一息ついた後、少々落ち着いた表情を見せた雪名は、静かな声で語り始めた。


何故、彼が三年前に俺の目の前から唐突にその姿を消したのか。


率直に言えば、もの凄く嘘くさい話だった。例えば学校でアルバイトを禁止されている高校生が、病気がちな母親の入院費を稼ぐ、ぐらいに現実では到底ありえないような馬鹿馬鹿しい話だ。あの時の俺が仕事に忙殺されて雪名と連絡すら取れなかった頃、雪名は実家から一度家に帰ってこいという連絡があったらしい。未だ学生である雪名が、休日を見て実家に帰るという行為は何も珍しいことではない。問題らしい問題といえば、当時雪名と付き合っていたという俺の存在で、そのことを俺自身に伝えるかどうかで、雪名は相当悩んだらしい。


実家に戻って帰ってくるまではほんの数日程度。俺が仕事で忙しいことも、おそらくその間は会うことは完璧なまでに不可能で、ついでに連絡を入れたとしてもその返事をかえせる状況かも分からない。むしろ自分の為にメールを打つという行為すら俺の手を煩わせるかもしれない、と変に気をきかせてしまった雪名は、俺に黙って彼の故郷である北海道の地に降り立った。


そしてそこで、事故にあった。


道路に飛び出してしまった子供を、迫り来る車から助ける為に自分までがその場所に飛び込み、なんとか直接的な接触を避けることは出来たものの、その際に地面に頭を強く打ち付けてしまったらしい。外傷らしい外傷も、脳の異常も特に見つからないのに、何故か彼の意識は戻らずに、今の今までずっと病室で眠り続けていたのだ。そうして、奇跡的に彼が目を覚ましたのは、あの事故の日から三年も経過した未来で。まるで浦島太郎な気分ですよと、苦笑いしながら雪名は言った。


いつまでも目覚めない息子に両親は、それ相応の覚悟をしたらしい。雪名の部屋を引き払い、大学にも休学の手続きを進めて、携帯をも解約し彼の看病に専念したのだ。だから雪名の意識が戻り、退院してこちらに戻ってくるまで、俺に連絡を一切取れなかったのだと。


な?大概馬鹿馬鹿しい話だろ?そして笑えるのは、今の雪名の話がおそらく嘘偽りでもなんでもなく、真実であること。他の人間が似たようなことを言えば、きっと鼻で笑って「そんなのは嘘だろう?俺を騙そうとしてるの?」とかいう台詞を吐き捨ててしまうはずなのに、それが出来ないのは、心の何処かで雪名の言葉を信じているから。奴がそう主張するのなら、多分それが本当なのだ。


雪名がそう言うのなら、そうでしか有り得ないのだから。


「木佐さん。三年間も放っておいた俺が、木佐さんにこんなことを言う資格はないのかもしれません。でも、俺は木佐さんのことが好きなんです。だから、もう一度俺と付き合ってください!」


真剣な眼差しを向けてそんな台詞を口にする雪名を見て、思わず吹き出して笑ってしまった。とんでもないことを口走っている割には、雪名の体は緊張のせいか固まっていて。思い出してしまったのだ。三年前、こうして雪名にこの場所で告白されたあの日のことを。あの瞬間を。


「付き合うも何も、俺としてはまだ別れたつもりは無かったけど」


くつくつと笑いながらそんな返事をしてやれば、雪名は一瞬面食らった表情をしていたものの、すぐに満面の笑みへと変化させ、場所を考えることもなく俺の体をテーブル越しに抱きしめようとしてくる。それをべしりと掌で叩き落とすと、今度はその自分の手ごと雪名のそれに包まれた。温かい手だった。散々目の前で会話をしたというのに、雪名が本当にここにいるんだと実感したのは、その温かさが自分に伝わってきたその瞬間だった。


大丈夫。これは夢の世界ではなく現実の世界だし、俺は魔女ではなく人間だ。雪名とこうしてまた会えたことによって、やっぱり俺は雪名のことを好きだと再認識したし、雪名だって俺のことを好きだと言ってくれる。何も迷うことなんてないじゃないか。何も不安がることなんてないはずで、これで全てハッピーエンドだ。ねえ、だから。



………俺、これで本当に幸せなんだよね?





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