ふと、空気が緩んだ感覚がしてゆっくりと瞼を持ち上げた。くるくると回転を続ける扇を見つけて、ああ、ここは先生の家なのだと思い出した。途端、はっとして上体を起こせば、そこには見慣れた先生の後ろ姿。一体どれくらいの間居眠りを続けていたのだろうと時計を見て驚いた。自分がこの家に到着したであろう時刻から、軽く数時間は経過していたから。もうすっかりと冷めてしまった飲み物をどうやら先生は作り直してくれているようだった。人の家に押しかけてきておいて、流石にこんなにも長い間眠っていたのはまずいだろう。特にこれといった用事があるわけでもないが、客人には客人らしい礼節というものが必要なのに。と自分の失態を悶々と反省していると、ようやく俺が目覚めたということに気づいたらしい先生が、深い皺を刻んだ口元を少しだけ歪めて、お早うと笑った。お早うございます、と答えるしかなかった。


「すみません。ちょっと眠っていたつもりだったんですが」
「いや、良いんだよ。それだけ君も疲れているんだろう」


いえいえ。いくら疲れているからと言っても、それが人の家で居眠りをしても良い理由にはなりませんよ。と内心に責め立ててみるものの、表情だけは先生と同じように笑って見せる。けれど、今更だと思った。今更すぎることだ。先生と最初に出会った頃から見られているのは自分のみっともない姿ばかりで、それこそ格好良いところなんて唯の一度も見せたことなどありはしないのだから。自分自身を慰めるはずのその言葉は、そして想像以上に俺の心臓を抉る。


「私の方は仕事がこのまま終わりそうだから。どうだい?今晩は一緒に夕食でも」


一つ説明するのを忘れていたが、このご老人の職業は実は作家だ。一応自分も出版業界に勤めているわけなので、彼がどんな名前でどんな本を書いているかには純粋な興味があった。けれど以前に話の流れでそれとなく尋ねてはみたものの、やんわりとかわされてしまった。その出来事以来、俺は先生のことについて深く追求することはやめた。知りたいと思う気持ちが失くなってしまった訳ではないが、誰にだって他人には知られたくない秘密があるものだ。俺がこうして数年間先生の家に訪れてはいるけれど、多分、先生が俺について知っていることと言えば名前と年齢くらいなものだろう。でも、それ以上知ってほしいとは思えなかったし、伝えようという気も更々無かった。勤務先が出版会社であることは何かの拍子にうっかりと教えてしまったかもしれない。だから先生がもし本気で俺のことを知りたいと思えるのなら、簡単に探し出せるはずだ。俺の方だって職場に歩く図書館みたいな同僚がいるのだから、彼に聞いてしまいさえすればきっと先生の正体などすぐに分かってしまう。けれど敢えてそれをしないのがが、私達二人の存在であり、関係だった。


深く追求することなくそのままでいたのは、お互いがお互いその方が心地よいと感じたからだろう。家族のように自身のことについて何もかもを知っている人間と一緒にいることは、確かに安らぎを覚えるかもしれない。けれど深いところを何一つ語り合わずに、探りあわず、ただ隣にあるだけの平穏もあるのだと思う。何も知らない、何も聞かないからこそ自分は自分をさらけだすことなく、こうしてありのままの自分で笑っていられる。それが楽だった。


湯気の立ち込めたコーヒーを受け取りながら、先程の先生の台詞に返事をする。「すみません、今日のところは帰ります」と。昨晩どっかの馬鹿が作ったグリーンカレーと、どっかの阿呆が購入したお菓子が大量に残っている。あいつは、自分が何も食べられない体だと分かっているくせに、それを無理やり俺に食わせて楽しんでいるのだ。ミオのことを思い出した途端、顔に怒りが現れてしまいそうで。それを誤魔化すために熱いコーヒーにそっと口づけると、またあのオルゴールの曲が耳の奥に流れては立ち消えた。


いつもの如く駅に向かう為に扉をするりと通り抜けると、夕暮れの空からふわりとミオの体が降りてきた。定位置と言わんばかりに俺の右隣を陣取る彼女の表情は、この場所に訪れた時とは一転して苦々しいもので。まるでふてくされているようにも思えるその態度を指摘すると「だって、折角あの人に会いに来たのに。ショウが眠ったりなんかするから、仕事をしているところしか見れなかった」と子供のように愚痴をこぼす。彼女の主張はごもっともなもので、人の家で眠りこけるという失態を犯した後ろめたさがあった俺は、だからこの日に限ってはミオにすんなりとそれを手渡すことが出来た。


「わあ!今日のお土産は星型のクッキーなんだ!可愛い!」


嬉しそうな声を上げて、透明な袋に丁寧に包まれたお菓子を彼女が受け取る。これは先生の家に俺が訪れる度に渡してくれるお土産だが、こうして一旦は必ずミオの手元に渡ってしまう。家に戻ったらいくらでも差し出してやるというのに、彼女は頑なにそれを拒否するのだ。


そうしてミオの機嫌がちょっとだけ直ると同時に、前方の道にこちらに向かって歩いてくる人影を見つけて、慌てて彼女にそれを返せと言葉を投げた。何度も言うようだが、ミオの姿は他の人間には見えない。だから彼女が大事そうに抱えている包みは、傍から見れば空中に漂っているようにしか思えないのだ。その異様な光景に驚きもせずに一緒に何気なく歩いている人間がいれば、好奇の目は必ずそちらに向かう。それを避ける為にも発した進言に、けれどミオはあからさまに嫌そうな顔でむすっと口を突き出す。


「ミオ」
「取れるものなら取ってごらんなさいよ」
「…それが出来ないから、こうして言っているんだろ」
「…それはショウの命令?それともお願い?」
「勿論、お願いです」
「分かった。ショウのお願いなら、叶えてあげるしかないわよね」


彼女自身がやっと納得したらしく、ぽいっと軽く投げるような形で包みを俺に戻した。それを上手くキャッチして、何食わぬ顔で逆方向に向かう人間の視線をやり過ごす。ほっと安堵の息をついたところを見計らったように、ミオがくすくすと笑い始める。別にショウがおかしな人だって思われてもいいのに。その時は、私の魔法で何とかしてあげるから、と。


ミオが自分自身のことを「魔法使いだ」と告白したのは、大分昔のことだったように思える。今までだって散々自分のことを「可愛らしい」だの「ベリーキュート」だの都合のいいように表現していたから。だからその台詞もそんな彼女の戯言の一種だと俺は決め付けていた。おもむろにその考えが顔に出ていたのか否か。何となく俺の思考を察したミオは、それを諭すように「魔法使い」という言葉の真意を教えてくれた。


「本当はあるはずのない姿を、こうやって今に現せるのは私が魔法使いである証拠。何もない無から有を生み出すことが魔法なら、私は確かに魔法使いなのよ」


その話を初めて彼女の口から聞いたのは、慣れない共同生活を始めたばかりのことで、やや疲れていた時期でもある。ぼーっとしたままで話半分に耳を傾けていると、彼女お手製のスープを掬うために手にしていたスープンを、目に見えぬ力とかなんとかで、ひょいっと取り上げられた。


「ね。これも魔法の一つ」
「…それって、魔法っていうか、ポルター…」
「ストップ!駄目よ、そういう面白みのないことを言っては。私が魔法って言ったら、魔法なんだからね!」


ぶつくさと文句を言うミオを尻目に空中に浮くスプーンを奪い返そうとしたが、指先にその金属に触れはしたものの妙な圧力を感じて、下に降ろすことが出来ない。手を離しなさい、ショウ、とミオに悟され、納得出来ぬままにそろそろと腕を引いた。彼女が人差し指を軽く動かせば、すんなりと銀色のスプーンはテーブルの上に転がり落ちる。


「一度かけた魔法っていうのはね、魔法でしか終わらせられないのよ。今、私がそうしたみたいに」
「ふーん」
「ちょっと、ショウ!私すっごく真剣に話しているんだから!真面目に聞いてよね!」
「はいはい。分かった分かった」
「もー!」


彼女の力説を半ば無視した形で、何事も無かったように俺は食事を再開する。その様子を見守っていたらしいミオが、俺の真正面で盛大な溜息をつく気配を感じた。


「けれどね、魔法っていうのは万能じゃないから。魔法が魔法使いにしか使えないように、人間には人間にしか出来ないことがあるの。それだけは覚えていてね。……きっと、大切なことだから」



そんな彼女の最後の台詞だけが、やけに印象に残ったことを今もよく覚えている。


次々と移り変わっていくどっぷりと日の暮れた夜の街を窓の外に眺めながら、少し思う。そうか、もう三年か。雪名と別れてからもう三年にもなるのだなと、今日見た夢に想いを馳せながら少し笑う。三年間という月日は、長いようで短かったというのが率直な感想だった。彼に捨てられたと理解したばかりの頃は、そりゃあもう奴のことばかり思い出して散々に泣いたりしたものだが、最近はようやくそんなこともなくなった。彼の姿を夢に見ることは時たまあるけれど、朝目覚めたときに胸が痛むことも少なくなった。それは多分、自分が強くなったかとかどうとかいう理屈ではなく、おそらく彼との思い出が過去になりつつあるからなのだろう。人の記憶とは忘れゆくものだ。どんなに楽しいことでも、悲しいことでも。


たかだか数年で自分が成長したとは到底思えない。空席が並ぶ電車の中で、ぽすりと目を閉じたミオの頭が肩に乗る。反射する窓には、それでも俺以外の誰も映りはしない。俺は今までもずっと一人で、そしてこれからもきっと一人なのだろう。けれど、流れゆく月日の中でほんの少しでも変われたことがあるのだとすれば、この世界から自分の存在を消してしまいたいだなんて考えなくなったこと。その程度だ。


人と人との別離というものが必ずしも人生の中で避けられないものならば、俺には抗うことなくただそれを受け止めることしか出来ないのだ。全ての別れが美しいものばかりではないことは当然で、だから俺だけがいつまでも嘆き悲しんでいる訳にもいかない。彼への未練を全て断ち切れるほど、精神的な面で俺は大人ではないけれど。


この世界の何処かにいる雪名が、幸せであればいいなと思うのだ。


今はもう、ただそれだけ。


あれは、終わってしまったものだから。



いつもの場所よりも少し前の駅に降り立つと、ミオは怪訝そうな表情で俺を見上げた。それに答えるように「欲しい雑誌がある」と伝えれば、彼女は納得したと言わんばかりにこくりと何度か頷いた。ショウって本当に仕事馬鹿よね、と悪態はついているが、俺を置いて家に帰るという選択肢は彼女の中ではないらしく、おそらくこのまま俺の買い物に付き合ってくれるつもりなのだろう。昔々に、運命の出会いを果たしたと思える場所も、今はただの本屋だ。ここに通ってさえすればうっかり何かの拍子に、もう一度何食わぬ顔でやってきた雪名と出会える。なんて少女漫画によくありきたりなご都合主義な展開を考えていたこともあったが、三年間あまりその期待を裏切られ続けてきたので、流石にもうそんな夢を見ることも無くなった。


本屋に入ると同時に、ミオがちょっと回ってくる!という言葉を俺に投げて、あっという間にその姿を消してしまった。俺の買い物なんてものの数分で終わるというのに。幽霊のくせにウィンドウショッピングをするだけでえらく時間を食うところは生きている女どもとそっくりだよなと考えつつ、ミオの姿を探し回る。ただでさえ人の出入りが激しい場所。その中を動く彼女を捕らえるのは至難の技だ。否、それほど心配はしなくても、彼女は飽きたら俺の元に戻ってくるのだ。ただ、それまでに確実に数時間はかかることが何よりも致命的で。流石にそんなには待っていられない。俺には、早く自宅に戻って、あのえげつない色のカレーを何とかするというとても大事な使命があるのだ。こんなところでぐずぐずしている時間はない。


本棚の影に白い服の切れ端が見える。慌てて振り返ると同時に消えてしまったけれど、確かに見えた明るい髪色。それを追うように小走りに足を進めた。近くに誰もいないことを確認してから、小さな音で声をかける。

その人にしか聞こえないよう。


「おい、お前。何処に行ってたんだよ。探しただろ?」


最後の台詞と共に思わず体が固まってしまったのは、その相手が彼女では無かったからで。けれど単なる人間違いということでもなかった。ぽかん、と口を開けていると、声を当てられたその人物は、さも不思議そうにこちらを向く。そうしてその顔がようやく見えたところで、声を失った。瞬きすら出来なかった。頭が真っ白になってしまった。


「…もしかして、木佐、さん?」


その人が、三年前に俺を捨てた男だったから。


雪名だったから。


嘘だろう。こんなの嘘に決まっている。全身の血が一気に足元へと引いていき、くらりくらりと目眩がする。体が小刻みにカタカタと震えて、唐突に襲った頭痛に思わず顔をしかめてしまった。


どうして、どうして。なんで今頃。


「やっぱり、木佐さんなんですね」


そうしてはにかむ様に微笑む表情が、記憶の中にある雪名のそれとぴったりと重なる。


「ずっとずっと、探していたんです。……会いたかった」


ああ、神様。


冗談は止めてくれ。






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