彼女は、ミオと名乗った。


気づけば、教会でとんでもない出会いを果たした自分達二人は、何故か一緒になって俺の部屋にいる有様だった。無論、手を繋ぎ仲良しこよしで帰ってきた訳じゃない。あの場所で俺の体を動かせまいとした金縛りというものがふとした瞬間に解けて、自由が効くと分かった瞬間に一目散に逃げ出したのだ。全力疾走とタクシーを捕まえての逃亡の結果、何とか部屋に逃げ帰り。そうしてほっと安堵の息を吐き出したのも束の間、背後からぬっと白い腕が現れてがしりと俺の体を掴んだものだから。流石に図太くて有名な俺の心臓も一瞬止まりかけた。


「女の子を一人残して逃げていくって、男としてどうなの?」


耳元で息を吹きかけられるように囁かれた瞬間、ぞわりと不快感が背筋を伝った。力を振り絞って何とかその腕をがむしゃらに解き、部屋の奥へと逃げ込んだまでは良いが、生憎の袋小路。じりじりと足音を立てることもなく近寄ってくる彼女に後ずさりしながらも、背中には冷たい壁の感触。観念したように力を抜けば、ずるずると体が床に向かって滑り落ちた。その体勢のままに、彼女の姿を呆然と見上げる。けれどその幽霊らしき物体は、俺の体を見落としながら、ただただ優しげに微笑むだけだった。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。私、別に貴方に危害を加えるつもりは一切ないし、お遊びで驚かそうと考えている訳でもないから」


まるで降参します、と言わんばかりに彼女は両手をひらひらと上に掲げた。その様子を視界の中に見ながらも、お前に驚かすつもりがなくても、ただそこに人間ではない誰かがいるというだけで充分驚くっての、と内心に思う。そんな心の叫びが彼女に聞こえたのかどうか。


「ごめん。あんまり豪快に驚いてくれるから、ついからかいたくなっちゃった」
「何がなっちゃっただ。そのせいで俺がどんな思いをしたことか」
「うん。だから、反省してる。ごめんなさい」


ぺこりと素直に頭を下げる彼女を見ると、それを許してやれない自分の心の狭さに馬鹿馬鹿しくなってしまう。分かった。許す、と渋々ながら口にしてやれば、彼女はわーいと子供の様に嬉しそうに笑った。


別に完全に奴のことを信用したという訳ではないが、とりあえず悪い霊ではなさそうだというのが率直な感想だった。勿論、それは俺を欺く為の罠かもしれないけれど、ここで疑心暗鬼になってしまえば、いずれ破滅するのは自分の身の方だ。一応は、お互いの姿は見える。言葉も交わせる。ならば会話をすることだって可能で、現に自分達はこうして意思疎通をしている。それならば後に必要なのは時間であって、人間ではない彼女であったとしても、俺の言葉が響くことがあるのかもしれないと思った。せめて、命乞いくらいは。


「私はミオって言うんだけど、貴方の名前は?」
「…木佐、翔太」
「ふーん。木佐翔太ね。じゃあ、これから私、貴方のことをショウって呼ぶわ!私のこともミオって呼んでくれていいから。敬称はいらないからね?どうもああいうのは、むず痒くて仕方ないから」


俺の意思を聞く耳も持たず、彼女の中でどうやらその事項は確定してしまった模様だ。ショウと呼ばれるのは今まで生きてきて初めてのことだったが、それほど嫌だとは思わなかった。ある意味常識の範囲内の呼び方であったし、それはつまり彼女が割と礼節のある幽霊―こういう言い方が正しいのかどうかは置いておいて―だと信じ込むには充分だったから。


そうしてひとしきり彼女が笑った後、両手を合わせて斜めに傾けながら、俺に向かってこう告げたのだ。


「ところでショウ。そろそろお昼の時間だし、お腹すいてない?私、ショウの為に何かご飯を作ってあげる!」



いたく奇妙な光景だと思う。まさか自分の部屋のキッチンで母親以外の女性が、俺の為に食事を作る姿を見ることになるだろうとは。しかもその調理手順というものが更に恐ろしく、一見ぱたぱたと忙しそうに彼女は動いてはいるものの、その様子はやはり何処かおかしい。ちらり、と一瞬目配せをしたかと思えば、触れてもいないのに勝手に冷蔵庫が開くし、とんとんと小気味の良い包丁の音は聞こえてくるのに、刃物自体にミオの手は添えられていない。瞬間的に忘れてしまいそうになるが、彼女は生身の人間ではない。きっと第三者がこの部屋に訪れようものなら、俺一人が存在するとだけしか認識出来ないだろうなということは何となく予測出来た。


「お待たせ〜」


という陽気な声と共に食卓の上に出されたのは、この家にある一番大きい鍋だった。恐る恐る中を覗き込んでみるも、なんて事はない。そこには先程まで彼女が丁寧に切ったであろう肉やら魚やら野菜やらが丁度いい程度に煮込まれていた。人差し指を軽く動かすだけで、どういう理屈かは知らないが器に中身がのせられる。それを受け取りながら彼女と料理を一巡して、迷いながらも思い切って口に流し込んだ。ミオの期待に満ちた目が自分に注がれる。……おかしい。意外とちゃんとしている味だし、むしろ自分が作る料理よりも格段に上手い。


「ね?どう?美味しい?」
「………不味くはない」
「あーっ。そういう捻くれた返事ってどうかと思うよ?美味しいなら美味しいって素直に言わなくちゃ」


口ではそう言いつつも一応は褒められたことが純粋に嬉しいのか、ミオはにへらと笑みを浮かべている。一口、また一口と柔らかくなった肉を口に頬張りながら、どうやら毒らしきものは入っていないようだと安心した。「あのさ。少し質問してもいいか?」
「ん?いいわよー。何でもじゃんじゃん聞いてくれちゃっても大丈夫。私ばっかりショウの方から先に色々教えてもらっちゃったしね」
「それじゃ、遠慮なく聞かせてもらうけど」
「うん!なぁに?」
「ミオって…その、幽霊ってことで間違い無いんだよな?」


ぴしり、と空気が固まったのが直感で分かった。やばい、やっぱりこれって聞いてはいけない質問だったと後悔しても今更遅い。とりあえずさも冷静であるかの様に、必死で箸を動かした。ついさっきまでは美味しいと思っていた料理も、今は焦りすぎているせいか、何の味もしない。


沈黙のままに食事を続けた数分後、明からさまに強ばっていたはずの彼女の表情がふと緩んだ。


「生きている人間じゃないかどうかと尋ねられたら、多分はいそうですって答えられるわ。私の肉体の方は、随分前に消えてしまったから」
「……それなら、幽霊なんだろ?」
「さあ?どうなのかしら?」
「さあって」
「例えば、例えばの話よ?もし不遇な事故にあってしまって、自分の右手が失くなったとするじゃない。その事故にあった人間がショウだったら、その場合生きていると思う?」
「応急処置やら治療が正しく行われていたなら。右手が失くなっても、それ以外の本体が無事なら、それは生きていることになるよな」
「うん。その点については全く異論はないわ。でもそれなら、肉体から離れてしまった右手はどうかしら?生きてるの?それとも死んでいるの?」
「分離された細胞なんてものは単体では生きていけやしないんだから、勿論死んでいる」
「でも、それっておかしい話じゃない?左手を失っても、足を失っても。体の一部分は確実に死んでいるのに、それでも生きているって変よね。その理屈からすれば、例え体が完全に失われたとしても、生きているっていうことに違いはないじゃない」
「………」


彼女との会話の難易度が突然高くように感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。何処までが生で、何処からが死なのか。それは過去から現在において延々と語り継がれているテーマであろうし、きっとこれからの未来でもきっと結論が簡単には出せやしない問題だから。


「でもま、ショウが私を幽霊と思うかどうかは自由だけどね」


とりあえず、彼女に対しては幽霊という言葉を使うのは止めておこうと思った。その言葉を使うのはきっと、心の中で彼女への悪態をつくときだけだ。彼女は何も、自分のことを幽霊だと思うな、とは口にしていないのだ。例えば、自分には才能がないと他の人間から指摘されることと、自分自身で認識することが異なるように。第三者からどう評価されるかなんてどうでもいい。自分が「才能がない自分」を認めることには、それなりの勇気がいるのだ。そしてそれらは確実な恐れを伴う。


彼女は、自分は生きているのだと信じているのだから。


なんだかやっぱり妙な話を振ってしまったよなあとこっそりと反省していると、今までの重い空気を払拭するかのようにミオが明るい声を張り上げた。


「あ、ショウのお皿もう空っぽじゃない。お代わり取ってあげるから、貸して?」
「……てか、ミオは食べなくても良いの?」
「え?何で?」
「何でって。お前が腹減ったからわざわざ人の家で料理を作ったんだろ?」
「この体で、私が空腹を感じると思っているんだ?ショウは」


指摘されて、はた、と気づいた。言われてみればそうだ。彼女はあたかも自分の目の前にいるように錯覚してしまっていたが、実体は最初から何処にも無かったのだ。………え?何?じゃあこの料理、全部俺が食わなきゃいけないの?大きな鍋に入っている煮込み料理は、今自分が食べた分を差し引いたとしても、軽く四、五人分はあるんだけど……。


「たくさんあるからいっぱい食べてね〜」


呑気にへらへらと笑うミオに軽く殺意を抱く。意外と頭の回転が速いんだなと見直した俺が馬鹿だった。こいつ、絶対に阿呆だろ。


「お前、俺を殺す気か?」
「何言ってるのよ〜。ご飯をたくさん食べたところで、そう簡単に死ぬわけないじゃない。あ、でも本当に食べ過ぎて死んじゃった場合、死因は何ていうのかしら?やっぱり、ショック死とかけて、食死、みたいな?」
「何その親父ギャグ」
「ひどーい!こんな綺麗な女の人に向かって、親父とは何よ親父とは!」


ぷくうと頬を膨らませて怒る彼女の姿が可笑しくて、思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。ミオは俺のそんな様子にさらにぷんすかと怒りと募らせていたものの、一瞬だけ顔を見合わせてしまったら、いつの間にか俺と二人で笑い転げていた。



今日という日は、本当に変な一日だった。


俺はもうこの世界にたった一人きりで、こうやって誰かと食事を共にすることなんてもう二度とないと思っていたのに。一人の老人と、そして一人の幽霊と。まさか同じ日に、二回も誰かと一緒にいることが出来るだなんて。


久し振りに使って痛くなってしまった顔の表面に指先で触れながら思った。


ああ、俺。まだ笑えたんだ。



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