玄関の扉から抜け出して見えた空の色は清々しいくらいに青かった。朝日が昇ってからは随分時間が経っているはずなのに、外の空気は未だ肌寒い。暖かい室内から移動した分、感覚が鋭敏になっているせいなのか。けれど吐く息が白く染まるあたり、それはあながち間違いでもないような気がした。


手にしているメモ用紙には、最寄りの駅まで地図が描かれている。それと、自分を助けてくれた男性の名前と住所も。走り書きされた文字を眺めて、随分と珍しい名前だなと思った。頭に現在の位置関係を叩き込んで、顔を上げた途端目に入ったのはあの教会だった。


流石にのうのうと何食わぬ顔をしてその場を通り過ぎる程、自分の面の皮は厚くはないので、躊躇いながらも足は前へ前へと進んでいく。


今度こそ開かれた門の中をおずおずと顔だけを突き出すような形で覗き込む。誰もいないといいなあ、と内心は思っていたが、その予想はあっさりと裏切られ、まるで自分がこの場所に訪れることを見計らったように、教会の敷地内の掃除をしている女の人と目が合ってしまった。


ここまで来るともうあとには引けないので、思い切って全身を見せるように体を前に出した。修道着を身に纏ったシスターらしき女性は、突然の訪問者に一瞬驚いたように目を見開いたものの、俺の顔に見覚えがあるとでも言わんばかりにすぐに目を細める。


「…初めまして。木佐と申します。…昨晩はご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした。本当に、何と謝罪をしたらいいのか」


本気で後ろめたさや情けなさがある分、話しているうちに次第に語尾が弱々しくなっていく。けれど彼女は全く気に留めた様子もなく、ただ微笑んでいるだけだ。


「昨日の夜は寒かったでしょ?風邪は引かなかったかしら?」
「はい、大丈夫です」
「それなら良かったわ」


会話は一旦そこで途切れた。自分の想像では神聖な場所を汚して!などとこっぴどく怒られることを覚悟していたのだが。実際は咎められるどころか、自分の体調まで心配されて正直拍子抜けだった。だからと言って自分がしてしまったことが全て許された訳ではないのだろうけれど。己を再度戒めるように唇をきゅっと噛み締めると、その女性はそんな俺の姿を見てふふと小さく笑った。


「神様に何かを祈ったり、懺悔をしたりすることに本来時間なんて拘束はないはずなんだけどね。それでも神に仕える身の私達は人間だから。人間のルールをそれこそ厳格に守らなくてはならないの。それだけはどうか分かって欲しいわ」
「……はい」
「昨晩は中に入れなかったでしょう?今なら誰もいないから、ゆっくりと見ていらっしゃい」


教会の忍び込んだことについては、特にこれといった明確な目的があった訳でもない。けれどシスターに勧められて、おいそれと断れる状況でもなかった。もしかすると、ここで素直に「はい」と頷くことが、彼女にとってのお礼になったりするのだろうか?深く考えるよりも先に、気づけば俺は顔を縦に振っていた。


月明かりでは薄暗くて見えなかった、扉に刻まれた繊細な彫刻。しなやかでかつ芯のあるその輪郭を目で辿りながら、静かにゆっくりとその扉を開いた。


途端、周囲が一瞬にして外界とは異なった神聖な空気に包まれる。真っ直ぐな道の突き当たりには、主祭壇が厳かに佇んでいる。絵の描かれたステンドグラスの窓からは淡い色彩が舞い降りて、掲げられた十字架を照らしている。遠い天井にはオレンジ色に点々と散らされた光源が。一寸の狂いもなく整列された長椅子と、自分の身長をはるかに越えるパイプオルガン。その圧倒的な存在感に思わず固唾を飲んだ。


そうしようという意識もないのに、背筋がぴんと伸びる。と同時に、ほう、と感嘆の息が漏れた。


違和感を覚えたのはその時だった。主祭壇のすぐ傍らに、誰か、俺ではない別の人間がいる。


長いウェーブの髪をたなびかせ、全身を白い服で着込んだその女性らしき人物は、すぐ近くに俺がいることなんて気づきもしないで、胸の前に両手を組み、必死に何か祈るように頑なに目を閉じている。


確か、先程のシスターの話では中に誰もいないと聞いたはずだったのに。とは言いつつも、実際俺の目の前に彼女がいるのだから、多分シスターの勘違いだったのだろうと簡単に結論づけてしまった。


少々迷いはしたものの、結局その女性には俺から声をかけることにした。集中しているところに話かけるのは躊躇われるが、このままいくといずれにせよ俺の存在は彼女を驚かせる。それでなくても昨日の件があるのだ。出来ればこれ以上のごたごたは避けたい。その一心だった。


「…あの」


思い切って彼女に向かって声を投げると、その女性ははっとしたように頭をあげた。くるりと身を翻し、驚愕の文字を顔に浮かべたままに、俺の顔とじぃっと凝視している。


…何だろう。確かにこうなることは多方予想していたけれど、少し驚きすぎやしないか?とたじろいでいた自分をまっすぐに見た彼女は、こともあろうにこんなことを言いだした。


「……貴方、私が見えるのね?」


やばい、と思ったときにはもうすでに手遅れだった。


これが本当の金縛りってやつか、と意識を覚醒させた頃には、既に体が石のように硬直して身動きの一つも取れなかった。全身にぶわりと鳥肌が広がって、頭にはがんがんと警告音が鳴り響いている。逃げ出さなくては、という気持ちはあるのに、それが出来ない。喉元からは助けを求める声が、ひゅーひゅーとした悲鳴となって途切れ途切れに漏れるだけだ。


彼女の体がふわりと空中に浮かぶ。完全にパニック状態だった。半透明に映る彼女の体の奥に、陽光の中に光る十字架が見えてしまったから。


俺、本気でもう駄目かもしれない。


ぎゅっと目を固く瞑って、自分の身にふりかかるであろう厄災を覚悟する。例え一時でもこの世界から消えたいと思っていたにも関わらず、結局は胸中で命乞いみたい言葉を繰り返してしまうあたり、何とも矛盾していた。けれど、訪れるはずの急展開は、いつまで経っても起こりやしない。


…流石に、少し変だなと思って、そっと瞼を持ち上げた。


生身の人間ではない彼女の顔が、言葉通り目と鼻の先にあった。自分の予想を遥かに越える状況に驚き、心臓が止まりかける。


「…もう一度聞くわ。貴方、私が見えるのね?」
「………」


質問されても答えられないということ。声が音として出せないこと。どうして彼女には分からないのか。どうやってその事実を俺に伝えろというのか。大体はお前のせいだっての!という心の叫びは、やっぱり彼女には届かない。


ずびし!と白い指先が、顔の中心に突き出された。


「はっきり答えなさい!このベリーキュートな私の姿が見えるかって聞いてるの!」


突如、彼女は声を張り上げてとんでもない台詞を口にした。頭の中で何度も何度も彼女の暴言が駆け巡る。そうしてその言葉が単なる文字ではなく一つの情報としてやっと理解出来た時、最初に思ったことはこんなことだった。


……は?ベリーキュート?…って誰が?


「お前……、何言ってるの?」


そうして彼女のその一言で、普段から割と突っ込み役なんてやっていたりする俺は、思わずいつも通りの台詞をさも当たり前のように、奴に投げ返してしまった訳だ。


くしくも、それが俺と彼女の始めての会話となった。


大層不思議な話だ。神様はこの世界で俺から一番大切な人を奪ったくせに、頼んでもいない人間とよりによって幽霊との縁を勝手に結びつけてしまったのだから。


しかも、一日も経たないうちに。





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