全てが分からない不可解な状況だった。


だって、そうだろう?昨日の俺の意識と言えば、見知らぬ街にあった小さな教会に乗り込もうとしたが叶わずに、地面に体が滑り落ちたところで綺麗にぷつりと途切れている。そうして朝目覚めたら自分は記憶にない部屋のベッドの上にいて、名前も知らない人物が俺に向かって当たり前のように「お早う」と声をかけてくる。条件反射で一応きちんと挨拶は返したものの、頭の中は疑問符でいっぱいだった。


でも、それでも何となく分かったのは、多分この人が俺を救ってくれたであろうこと。


ちらり、と視線を流して俺に向かってにこにこと微笑んでいる老人の姿を監察する。齢は大体六十代後半から七十代といったところだろうか。顔に刻まれている皺が、その人物の年齢を指し示している。落ち着いた色相の服を着こなし、頭は全て白髪ではあるものの、ぱっと見て品の良さそうな人だな、というのが第一印象だった。


「これがタオルだ。階段を降りて、奥に向かって進んで突き当たりの右に洗面所があるから。顔を洗っておいで」
「…あ、はい」
「そんなに広くはない家だから、きっと何が何処にあるかは君には直ぐ分かるだろう。私はキッチンにいるから、準備が終わったら来るといい」


という言葉を残して、その人物はさっさと部屋から出て行ってしまった。ふと、自分の胸元を見て驚いた。身につけていた服が自分の物ではない。随分と可愛らしい水色パジャマにいつの間にか着替えさせられていて驚いた。何故だか妙に恥ずかしくなって、ハンガーにかけられている自分の服を見るや否や大急ぎでそれを脱いだ。


そろり、と扉から顔を出して、周囲の様子に耳をそばだてる。人の気配を全く感じないところをみるに、多分この家に住んでいるのは先ほどのご老人だけなのだと思った。やや緩やかな木の階段をとんとん、と音を立てて降り、教えてもらった通りに洗面所に向かった。蛇口をひねったところ、ぬるま湯が掌に滑り落ち、掬うように顔を洗う。タオルで溢れる水滴を拭うと、溜め息のようなものが口から溢れ出た。…気持ちがいい。


と無意識に力が抜けている自分に気づいて、慌てて背筋を伸ばした。


いかん。この家の穏やかな雰囲気がそうさせているのかは分からないが、知らぬうちについ自分の気が抜けてしまいそうになる。流石に他所の人の家にお邪魔している分際で、自宅にいるような振る舞いは許されない。しかも、その相手はおそらくは自分の恩人だ。鏡を見ながら必死で営業用の顔に作り変える。……よし、これで大丈夫だ。


カチャカチャと食器が触れ合うような音が耳に届く。おそらく、この向こう側に先程の人物が教えてくれたキッチンがあるのだろうなと予測して、迷いもなく足を進めた。


部屋の中に老人の姿を見つけて、あの、と小さな声で話しかける。老人はくるりと体を反転させて、ああ、ではそこに座っていてくれるかい?と俺に返事をした。部屋の中央には大きな長方形の白いテーブルと、同じような純白の椅子が二つ用意されている。そのうちの一つを引き、腰を降ろした。火のついたガスコンロの前に佇む老人の背を眺めているうちに、ぐつぐつと煮えた鍋からはいい香りが漂ってくる。と同時に、彼が底の浅い皿に出来立てのスープを流し込み、ことりと音を立てて自分の目の前に置いた。そして、もう一つを真正面に。じゃがいもとキャベツとトマトがごろごろと転がるスープは、色鮮やかで美味しそうだった。トースターから焼きたてのライ麦パンも食卓に用意され、「さて、いただこうか」と彼が告げて、奇妙な二人の朝食の時間が流されるままに始まってしまった。


俺は文句を言える立場ではない。それを分かっていたからこそ、俺は彼の言いなりになった。銀の匙を手に取って、ゆっくりとスープを口に流し込む。ほくほくとしたじゃがいもにブイヨンの味が染み込んでいて美味しい。バターがほろりと滑り落ちていくライ麦パンも、さくりとした感触がつい頬を緩ませてしまう。


ふと、視線を感じてぱっと顔を上げると、目の前に座るご老人がこちらをじいっと見つめていることに気がついた。威圧感を覚えるそれではない。例えば、自分の孫が一生懸命ご飯を食べているのを微笑ましく見守っているというような感じだった。そんな彼の表情に、妙に胸がざわついた。……何をどきどきしているんだろう、俺は。一応相手は恋愛対象となりえる“男”ではあるけれど、ストライクゾーンになる年齢は大分過ぎている。自分の祖父とそれほど年代が変わらないような人間に、流石にそういった感情は抱かないはずだった。なのに、心臓がとくとくと振動を続けるのだ。


まだ、前に好きだった奴のことすら忘れてもいないのに。


意識を振り払おうとして、思い切って自分の方から切り出してみた。


「……あの。今更で申し訳ないんですけれど、俺はどうして此処にいるんでしょうか?」
「……そうだね。そのことを私は最初にしておくべきだった。君は、昨晩のことを何処まで覚えている?」
「…えっと。その、お恥ずかしいんですが、お酒に酔って教会の忍び込んだところまでは…」


我ながら、言葉通り本当に恥ずかしい話だなとしみじみ思う。己の口から自らの失態を語るという行為は恥辱以外の何者でもない。けれど、この人には俺に事実確認する権利があるし、俺もまた彼の質問に答える義務がある。そうでなければ、これ以上話が進められないのだから。


「それなら、あの窓の外を見てくれるかい?」
「窓?」


老人に指で指し示された方向を見ると、そこには随分と大きな窓があった。美しい青空と家を囲んでいるであろう木々が、まるで写真のように切り取られている。じいっとその光景を眺めて、彼が何を言わんとしていたのか漸く分かった。……そこに、ひっそりと影を潜めた教会が映し出されていたから。


彼の家は件の教会のすぐそばにあったのだ。


「深夜を過ぎた頃かな。家の外から物音が聞こえた。最初は猫か何かの動物が悪さをしていたんだろうと思ったが、それにしては様子がおかしいと直ぐに感じた。勿論、最近は物騒だから外に飛び出すことはしないで、この窓からこっそりと様子を確認してみたんだ。すると、誰かが礼拝堂に忍び込もうとしているじゃないか」
「…………」
「最初は警察を呼ぼうかと随分悩んだよ。でも、そうこうしているうちにぱたりとその音が聞こえなくなって。変に思ってもう一度教会の前を確かめてみたら、地面に男の人が倒れている。これは一時を急ぐと思って、シスターに慌てて連絡をしたんだ。教会で何かあったら直ぐに呼んでくださいって、電話番号を渡されていたからね。それで、二人で門の鍵を開けて敷地の中に入ってみたら、……君が倒れていた。最初は死んでいるのではないかと不安だったけれど、ただ眠っているだけだと知って。とても安心したよ」
「………」
「シスターはやっぱり警察に保護をしてもうべきじゃないかって提案したけれど、それを止めさせたのは私だ。確かに君が教会に忍び込もうとした不審者には変わりなかったが、悪さをするような人間には見えなかったから。だから、君のことは一晩私が預かることにした。勿論、私一人の体では軟弱すぎて君を運べなかったからシスターに手伝っては貰ったけれどね。…これが、君が此処にいる全ての経緯だよ」


話の途中からあまりの申し訳なさに、体が小さく縮んでしまった。なんてことをしでかしてしまったんだと後悔のあまり顔から血の気は引いていくし、嫌な汗が体中の全ての毛穴から吹き出して止まらない。本当に穴があったら入りたい。そして出来れば埋まりたい。いくら酔ってやけっぱちになっていたからとはいえ、ある意味犯罪に手を染めて、人様に多大なるご迷惑をかけて良いはずがない。絞り出すような声で、本当に申し訳ありませんでした、と深々とお辞儀をすると、彼はそんな俺の様子を見てくすくすと笑い始めた。


何が可笑しいのだろう、と思って恐る恐る見上げてみれば、彼は取り繕うようにすまない、と謝罪を口にした。


「やはり、私が思っていた通りに君は良い子のようだから。それが少し嬉しくて」


彼の言葉が、じわりと胸の中に広がっていった。


例えば、名前も知らない人間が道端に倒れていたとするなら、それを俺は無条件に助けたりするだろうか?俺だってそこまで非情ではないのだから、大丈夫ですか?と声をかけて立ち上がるのを助ける程度のことはするのかも知れない。けれど、自分の家に招き入れて一晩預かり、迷惑にしかなえない人間の為にわざわざ朝食を作ってくれたりするだろうか。


本当に良い人なのは彼の方だ。


「助かりました。ありがとうございます」


心から素直に思った言葉だった。彼はぺこりと頭を下げる俺に、ふと笑って、小声でどういたしましてと答える。そしてまた先程と同じように、酷く嬉しそうな表情で俺の顔をじっと見つめた。再び、胸がとくりと鳴り響く。


……おかしい。どうしてこの心臓は持ち主の意思に反して勝手に高鳴ってしまうのか。


それが分からずに首を傾けながらもう一度彼の表情を盗み見た。そして知った。


彼の浮かべた眼差しが、雪名のそれとそっくりなのだ。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -