何もかもがどうでも良かった。


雪名に捨てられたという事実は自分にとって重すぎて、何度現実逃避をしたのかも分からない。ふと気が緩んだ瞬間に涙を零してしまうくらいには心が弱っていたし、そうやって泣く度に自分自身が現実からどんどん離れていくような錯覚さえおぼえていた。悲しいから泣いているのか、それとも泣いているから悲しいのか。自分の中に沸き立つ感情が悔しさなのかそれとも恨みなのか。けれどしばらくそんなことばかり考え自問自答を繰り返しているうちに、全てのものがどうでも良くなってしまった。


俺は雪名のことを好きだった。全力で尽くした、とまではいかないまでも、彼が俺の幸福の全てだったと断言は出来る。


それほどまでに心を許した相手に、自分の体を弄ばれた挙句に飽きたとばかりに散々に捨てられて。いつしか悲しさの涙は枯れ果て、溢れ出てくるのはけらけらとした乾いた笑い声だけだ。


自業自得じゃないか。俺だって最初は雪名と本気で付き合おうなんてこれぽっちも考えていなくて、つまらなくなったらとっとと捨ててしまおうとまで思っていた。完璧に近いおもちゃだったから。自分好みのカスタムを加えて、尚且つじりじりと真綿で首を絞めるように内部から壊していく。そうして相手が自分無しで生きていけなくなった時点で、「お前のその軽薄なところが大嫌い」と言って突き放す。貶める手段も追い詰めた先も同じものだが、そのままの因果が自分に返ってきたというだけの話だ。


捨てようとした相手に、先に捨てられた。酷くつまらない物語。


くだらない。ああ、本当にくだらない。あんな男に恋をして、自身の心を捧げるまでに愛して。結局自分に残された感情が悲しみや憎しみだけなのだとしたら、くだらないことこの上ない。今までは雪名も自分のことが好きだと盲目的に信じてしまったけれど、でもそれは嘘で、何もかもが嘘で本当のことなんて一つもなくて挙句に自分の心の方が先に壊れてしまって。


そうだ、俺の心は既に壊れてしまったのだ。


愛した者に愛されなかった俺には価値がない。壊れて捨てられたおもちゃは、ごみにしかならない。俺という人間はそういう存在なのだ。ううん、人間と称すること自体おかしいことなのかもしれない。この世界に必要とされない人間がいないのなら、事実誰からも必要とされなかった俺は人ですらない。それなら、俺という存在は一体何?


愛した人にばっさりと切り捨てられるほどに俺には価値がないのだとしたら。こんな自分が、生きる意味が何処にある?


答えは、分からない。


結局は元の生活に戻っただけだ。携帯電話のデータはもう消したし、部屋の中にあった雪名に関係するものも全て捨てた。数カ月もすれば彼の痕跡などは俺の部屋に全く残っておらず、だからといって雪名との記憶が全て消えたかと言えばそうでもなかった。いくら彼の触れた物を投げ捨てても、根本的に思い出が残る在り処とは人の心だ。物はその時の出来事をより一層鮮明に呼び起こすことがあっても、原因にはなり得ない。自分自身が消えて失くならない限り、雪名と一緒に過ごした日々は永遠に尽きない。俺の中で、生き続ける。本人がそうなることをもう望んでもいないのに。


部屋の中に一人いると、ふとした瞬間に雪名のことを思い出すことが嫌だった。流れゆく時間に身を任せ、家に帰りたくないと言い訳を一つ作り、毎日のように夜の街へと出かけた。いつも通り一人で酒を飲んでいると、下心のありそうな男が頼んでもいないのに自分に言い寄り、流されるままに肌を重ねた。


もう、どうでもいい。


これほどまでに自分の心が壊れてしまったのなら、俺の体が綺麗なままにあることは矛盾している。精神が傷ついたのなら、それに併せて肉体さえも傷つくべきだ。そうすることによって俺は自分自身が傷ついたと認められる。認識して初めて、俺はようやく自分自身の為に泣けるのだ。……それが例え一夜限りのものであったとしても。泣けなくなったのなら、また繰り返せばいい。


軽く汗を流した後は、その場所に留まらないことが約束だった。一度だけ。雪名と付き合って以降初めて他の人間に抱かれてその腕の中に眠ったのは、たった一度。夢の中に、雪名が出てきた。ずっと探していた人が自分の目の前に突然現れたのだ。驚くと共に、嬉しくて堪らなかった。大きく両手を広げる彼に俺は何を考えることもなく笑いながら飛び込んで。夢が途切れるのはいつだってそんな瞬間だった。


目を覚まして、自分の隣にいる男が雪名ではないことを知って、その度に絶望に打ち震える。あの美しかった夢を自分自身がもう取り戻せないくらいに汚してしまった後悔に嘆いて、そして俺は一瞬でも瞼を落とすことが恐ろしくなる。例え幸せな夢でも、目覚めた後に彼がいない現実を突きつけられて心を痛めるのなら、あれは悪夢でしかない。


誰かの温もりが雪名の代わりだとするのなら、その温かさが自分をあの夢へと誘うのだとしたのなら。だから結局一夜限りといってもそれは数時間程度のもので、名も知らぬ男と枕を共にして一緒に眠ったことは、その時以降は一度もない。


それなのに、何が悪かったのか。一人で眠る際にも、あの恐ろしい光景が付き纏うように夢の中に現れ始めた。だから俺は、夜に眠れなくなってしまった。


何処をどうやってその場所に訪れたのかはほとんど覚えてはいない。男とホテルの前で別れた所で意識がぱったりと途切れ、気づけば見知らぬ街をふらふらと歩いていた。此処、どこだろう?と思いつつも、飲みすぎた酒のせいで意識が朦朧として、まあいいやとそれ以上深くは考えなかった。別に、こんなのはいつものことだ。


深夜を回る時間帯のせいか、住宅が並ぶ街はとても静かだった。まるで自分だけがこの世界に一人生きているみたいで。くすくすと笑いながら見上げた夜空は、白い月が眩しく輝いていた。


小さな教会が目に入ったのはその直後で。一体何を思ったのか、俺は身長を優に越える頑丈な柵を乗り越えて教会の敷地内に入ってしまった。これって不法侵入になるのかな?と考えつつも、よたよたと歩いて大きな入口の扉に手をかけた。思いっきり力を入れて引っ張ってみたものの、大きな木製の扉はびくりともしない。おかしいな。確か教会って年中無休でいつでも入れるって情報を誰かから聞いたような気がするんだけれど。そんなことを考えながら、ずるずると壁に持たれるようにして座り込んだ。


よくよく冷静になって考えれば簡単に分かることだった。流石に教会と言えども深夜に鍵もかけずに開放することは防犯上かなり危険だ。だからよじ登った門もがっちりと閉じられていた訳であって。教会の中に入れないのは当然のことで、何もおかしいことじゃない。


そう頭では分かっていても、ショックだった。まるで神様までにも自分という存在が拒まれているようで。


夜空を見上げながら笑った。あーあ。本当に救われない世界だ。


俺は、ここまで生きてきて何を手に入れたのだろう?何を失ってしまったのだろう。


膝を抱えてぎゅうと自分の体を抱きしめるように腕を回して、静かに顔を埋めた。下を向いた途端、またほろりと瞳から涙が零れた。俺、どんだけ泣き虫なんだよ、と呟きながら、ただ一人で静かに涙を落とした。………多分、何もかもを失ってしまったのだと分かってしまったから。


急激な睡魔が襲って、体から次第に力が失われていく。嫌だ。眠りたくない、と。でも、消えていく意識の中に思った。こうやって眠ってしまって、目覚めさえしなければ俺はあの幸せな夢の中でずっと一緒に雪名といられるだろうか。それが本当に出来たならどんなに良いだろう。じわりと、目尻に涙が滲んだ。


ただ傷つけられるだけの現実なら、もう要らない。


こんな世界は消えてしまえ。




ぱちり、と瞼を持ち上げた瞬間に視界に飛び込んできたのは木目の天井で、一瞬自分が何処にいるのかが分からなかった。明らかに自分の住む部屋とは違う光景に、さっと意識が戻って飛び起きる。カーテンの隙間から仄かな光を感じて、無意識の内に窓の外を覗いた。太陽の位置が高い。もう、昼頃にはなるのだろうか?というか…、ここは一体何処なんだろう?

焦る気持ちは勿論あったけれど、むしろ安堵の方が強かった。昨晩の自分の思考ときたら、本当にろくでもない方向へと突き進んでいたから。自分の指先を何度も繰り返し仰ぎ見て、脈打つその腕に一安心する。良かった。生きていたと。昨日とはまるで違う自身の思考回路に、少し驚いて苦笑いした。


唐突に部屋の扉が開かれて、間からのそりと人影が現れる。


びくりと体を震わせて、息を呑みながら一心にその場所を見つめた。


それが「先生」と呼べる人との最初の出会いだった。





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