その日以降、雪名の姿を俺が見ることは無かった。


勿論、自分だってそれなりに彼を探しはした。雪名と直接知り合うきっかけになった本屋を訪れ、最近雪名くんを見かけませんが、どうしたんですか?と何食わぬ表情で店員に尋ねる。突然ですが、彼は辞めました。残念ですけどねという返事を何とか受けとめて、それで今は何処にいるんですか?と更に深く追求する。これ以上は個人情報になりますので、と案の定やんわりと断られて、でも、という言葉が喉元まで出かかったくせに、ああ、すみませんでした、と思ってもいない台詞が代わりにすらすらと口をついて出た。


だって何も無いのだ。


あれだけ完璧な容姿をしていた雪名だから、彼はただそこに存在するというだけで目立つ。道を歩いていれば大体の女は雪名の姿を見つけて一度振り向くし、酷い時には何度も連絡先を聞き出そうとしていた客がいたことも知っている。だから、唐突に消えてしまった雪名を訝しく思っているのは何も俺だけじゃなくて。こうやって彼の不在を確かめるべく店員に突撃したのは、これが一度では無いのだろうなということは店員の対応で分かった。


やれやれ、またか。


悔しかった。自分が、彼女達の存在に一括りにされてしまったこととか、その表情に何も言い返せなかったことが。俺は、雪名の単なるファンなんかじゃありません。俺は、雪名の恋人です。誰よりも彼のことが好きな人間です。……なんてこと、勿論言える訳もなくて。それに、その証拠だって何一つ無いのだ。あれだけ交わしたメールのやり取りを見せたところでそれを信用してくれるとも限らないし、自作自演だろ?と突っ込まれてしまえば反論も出来ない。


自分達が愛し合っていた根拠を示すものなんて、何も無い。だからこれ以上は口に出来ない。


そうでしたか。変なことを聞いてしまって申し訳ありませんでした。ありがとうございます、と無理矢理な作り笑顔を浮かべて、その店を立ち去った。人の波をくぐり抜けながら思う。……本当は、伝えてやれば良かったのかな。俺と雪名はただならぬ関係でした、と。そんなことを告げたら、あの店員は一体どう思っただろうか?きっと胡散臭いものを見るような目つきで一瞥されるだけなのだろうな、と簡単に予測がついた。


男が男と付き合うことは、それこそノーマルなものではない。異常な関係についての世間の偏見だとかは嫌というほど知っている。俺は雪名を貶めたいわけじゃない。だから何も言わない。


何も言わない?何も言えないだけじゃなくて?


直ぐ様反論する自分の心に、つい可笑しくなって笑ってしまった。俺が知っている雪名の情報と言えば、彼の勤め先と部屋の住所くらいのもので、それ以外には本当に何も知らない。美術関係の学校に通っていることは知っていた。でもその大学の名前は知らない。北海道出身であることは話の際に聞いた。でも彼の故郷だとか実家の連絡先だとか。肝心なことを俺は一切知らない。


本当に、何も無いんだな、と考えたら、つきりと胸が痛んだ。


しらみつぶしに片っ端から美術大学をリストアップして、突撃してやろうかと一瞬は考えた。でも、結局はこの本屋と似たような対応だろうなと思った。「個人情報は教えられません」けれど、それがきっと普通だ。俺と雪名の関係がどれほど深いものだったかを教えてやる?……馬鹿を言うな。そんな横暴、こう切り返されたらどう答えればいい?


それほどまでに親しい関係でしたら、彼はどうして貴方の前から何も言わずに消え去ってしまったのですか?そんなに仲が良かったのなら、その理由をきっと彼は貴方に伝えていたはずでしょう?


多分、言い返せない。


ざあざあと音を立てる雨が、やけに五月蝿い日だった。大きな黒い傘を開いて、滑り落ちた水滴が小さな滝を作って、ぼろぼろと地面に落ちる。道のあちこちにどす黒い水溜まりが出来て、時折緩やかな速度で通る車が小さな水しぶきをあげた。特に何を考えるでもなくとぼとぼと歩道を歩いていると、微かに動物の鳴き声のようなものが耳に届いた。


はっとして足元を見れば、薄汚れたダンボールの中に小さな黒猫が打ち震えている姿が見えた。屋根代わりになるはずの蓋は取り外されて、吹きさらしの雨風の中、遠目で見ても濡れているのが分かった。慌てて座り込んで、持っていたハンカチでその体を慎重に拭ってやった。みゃあ、と力なく鳴く子猫の声はか細い。大分弱っているようだ。


……どうしよう。うちのアパートはペット禁止だし、かと言って此処にこのまま置いていくのも忍びない。連れて行きたい気持ちはやまやまだけれど、それを理性がぐっと押しとどめる。どうせならペットが飼えるアパートにでも引っ越すか?いや、だとしても今の自分のライフスタイルは到底猫を飼っていられるような状態ではない。自分ですらも三食きちんと食べられない時だってあるのに、そんな状況の中子猫の為に餌を与えられる時間がある訳もない。


ぐるぐると考えを巡らせて出した結論は、結局家には連れて帰れないというものだった。


自分の決意は「冷たい」と思われるのかもしれない。けれど、飼えないと分かっているのに一時だけの感情に流されこの手に抱き締める無責任さと、自分では飼えないからと言って此処に猫を捨てた人間の薄情さは、一体何が違う?……全て同じものだ。


気まぐれに野良猫に餌をやり、その猫が保健所に連れていかれそうになると、可哀想とこれ見よがしに悲しむ人間がいる。悪いが、そういう類の偽善者は大嫌いだった。可哀想というのなら、貴方が飼ってくださいよ。それなら全て解決するじゃないですかと、伝えれば、だって私の家では飼えないです、とか言いやがるのだ。その猫の一生を看取る覚悟がなければ、最初から手を出すべきではないのに。


結局は自己満足なのだ。可愛いおもちゃだから遊びたい。か弱きものを愛でる自分の優越感に浸りたい。ただそれだけで、自分に責任が巡ってくるのは困る。随分と自分勝手で都合の良い言い分だ。


気まぐれの優しさなんてものは、結局はお互いを不幸にするだけなのに。


せめて屋根の代わりにと、ダンボールを覆うように傘を立てかけた。上手く固定して、少しの風では吹き飛ばないようにと慎重に位置を調整する。今日は寒かったから薄手のマフラーを着込んでいたが、それを丁度子猫の体がすっぽりと埋まるように巻いてやった。その感触が気持ちよかったのか、子猫がそのつぶらな瞳をうっすらと閉じた。


ごめんな。俺ではきっと、お前を幸せにはしてやれない。


小声でそっと言葉を残して、立ち上がって踵を返した。傘を失くしたせいで、まるで船から海へ落ちてしまったかのようにずぶ濡れになってしまったけれど、気にも留めずにただ歩いた。肌に張り付いた前髪から、ぱたぱたと水滴が流れ落ちる。そうやって道の角を曲がってしばらく歩いたものの、何かに急き立てられるように今まで歩いてきた道と逆方向に走り出した。


一体自分は何をしようとしているのか。全く分からない。けれど、いてもたってもいられないくて、ぐしゃぐしゃになった靴を踏みしめながらがむしゃらに足を進めた。


小さなダンボールの前に、赤いランドセルを背に抱えた少女がいた。


その子はじいっと子猫の姿と黒い傘を交互に見つめて、意を決したようにひょいと子猫を取り上げた。落とさないようにと胸に猫の小さな体を預けて、片手で不釣り合いなほど大きな傘を拾いあげる。さ、一緒に帰ろうか?とその女の子が猫に向かって囁く声が、激しい雨音の中に聞こえた。


その少女が道の中に消えていく姿を、ただ呆然と眺めているだけだった。


ぽたりぽたりと自分の頬を水が伝った。冷たいはずのそれがやけに温かくて、あれ?と掌で拭ったら、それが自分の涙なのだと気づいた。懸命に綴じようとした唇がふるふると震えて、声を上げまいと堪えた途端、ぐにゃりと視界が歪んでぼたぼたと涙が溢れ始めた。


本当は分かっていた。でも認めたくなかった。


「……っ、ゆきな…」


俺がいくら彼の名前を呼ぼうとも、それが届かないこと。薄々は感じていた。もう二度と雪名には会えないだろうということ。毎日のように本屋に立ち寄って、彼が初めて自分のことを好きだと伝えてくれた喫茶店で、俺がいくら待っていても。会いにいっても。


きっと彼は、迎えになんて来てくれない。



俺は雪名に、捨てられたのだ。





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