自分にまともな恋愛が出来るだなんて、よもや思いもしなかった。


昔から恋愛感情の対象となる相手の性別は、大体にして自分と同じ男だった。それが異常であることは物心ついた頃から認識していたし、それを誰かに告白しようなんて考えもしなかった。ぱっと目にした平和な光景の中、男が男をパートナーに選んだ姿が何処にある?世間に溢れるのは異性同士の結びつきで、だからこそ自分達みたいな異端者は息を潜めて暮らしていかなければならない。それが恒常的な世界のルールだ。常識を支えるのが大多数の普通人ならば、少数派の人間は肩身を狭くして生きてゆくしか方法がないのだ。


幸せになれるべき人間が決まっているのなら、不幸になる人間の数だって決まっている。


自分が不幸側の人間なのだなという事実は、認めたくはないものの薄々は分かっていた。別に自分の人生というものを今更否定するつもりはないが、もし自分が平々凡々の女性を愛することが出来たら、という可能性を考えた時もある。それなりに素敵な女性と出会い交際を続けて、ゆくゆくは結婚をして子を設ける。そこまで想像して、勿論反吐が出た。…有り得ない。そんな未来が俺の物になんてなりえるはずがない。だって、女性を愛することが出来る自分など、俺ではないからだ。自己の唯一のアイデンティティを失ったら、そこに何が残る?きっと俺であった残像すら見えない。


幸せになる為だけに自己否定なんて出来ない。何故なら、自分を自分自身で認められないことこそ“不幸”そのものだから。結局陥るべき着地点が同じ場所だというのなら、皮肉以外の何でもないだろう。


幸福側の人間は基本、不幸側の人間がどうなろうと関係無いのだ。誰かが何処かで泣いていたとしても、そんなのお構いなしに彼らは笑う。だからこそ自分達は気づくのだ。幸福な人間は、自分達の祈りにも似た悲鳴など、聞こえないのだと。否、聞く耳すら持っていないのだと。都合の悪いものはばっさりと切り捨てて、無かったものとして蓋をする。


結局、幸福側の人間は自分さえ良ければ誰が不幸になろうがどうだって良いのだ。


或いは雪名だって、幸福側の人間であることは一目見たときから分かっていたのだ。だから自分からは近づこうとはしなかった。彼らと自分達では、視界に映している根本が既に異なる。奴らの目に映るのが愛や夢や希望であるとするならば、生憎俺達が見える世界なんて絶望でしかない。同じものが見えないなら、未来や思想を語り合っても意味がない。手を取り合う必要すら存在しない。


それなのに、雪名は俺に手を差し伸べてくれた。本来では、自分になんか与えるべきではないそれを。迷いに迷って、結局俺も受け止めた。彼の掌が、地獄の中に見た唯一の光であるような、蜘蛛の糸みたく思えたから。


自分の中の雪名という存在が、本当の恋人と成り果てた瞬間、それまで自分に見えていた景色というものががらりと変わって驚いた。見える全てがきらきらと輝いているという表現は、つまりは都市伝説のように信憑性がないものだと思い込んでいたが、それは間違いで。例えば、雪名が自分の名前を優しく呼んでくれる瞬間だとか、優しげに俺の髪を撫でてくるその指先だとか。友人に教えてもらったとはしゃぎながら料理を作るその姿だとか、少し手伝おうとして「木佐さんの可愛い手に、そんなことはさせられません!」などと伝えられたこと。「お前、何言ってんの?」と若干引きつつも、見合わせた顔が可笑しくてつい一緒になって吹き出してしまったことも。そんな、何気ない日常のありふれた光景が、けれど俺には眩しくて堪らなかった。


そんな些細な出来事の中に、愛があったから。


そうやって日々を過ごしていくうちに、自分の体にある変化が起きた。雪名が俺の表情をじっと見つめながらふと目を細めて笑う瞬間に、胸に熱いものがこみ上げてくるようになったのだ。泣き出したい衝動にも似たそれは、いつだって心臓の容量を軽く超えて、直ぐに溢れ出てしまいそうになる。それが苦しいのに、泣き出したくなるのに、でも心から愛しくて。そんな状況になって、初めて俺は知ったのだ。


この感情が幸福そのものであること。


雪名とはそれこそ毎日のように連絡を取り合っていたものの、それらがふいに途切れることだって勿論あった。多忙な社会人と大学生では、そもそも会える時間を生み出すこと自体奇跡に近い。そんな二人のいずれかが少し多忙になれば、当たり前のことではあるがメールを送る余裕すら失くなるのだ。それを一方的に寂しいと思うのは間違いで、自分の知らぬところで歯を食いしばって必死に頑張っている彼がいるのなら、それを応援してやるのが本当の恋人だと思う。実際、雪名は俺が仕事で忙しくなると、連絡を控えてくれるし、逆の立場になった場合だって行動は同じだ。俺にだって、時に雪名の声を電話越しでいいから聞きたいという衝動に駆られることだってある。でも、それを懸命に堪える。そうやって自分が忙しかった時は雪名も今みたいな気持ちだったのだろうかと、あたかも彼がそこにいるような存在を胸に感じながら、会えない寂しさに一人浸る。


唐突にメールが途切れたのも、それが時間に追われている故だと俺は信じたし、あまりしつこく連絡をして雪名に嫌われることが怖かった。そうこうしているうちに、自分までもが修羅場に巻き込まれて仕事に忙殺され、たったその一声すら聞くこともなく、気づけば最後に連絡を取ったのが一ヶ月前という有様だった。


流石にこれ以上は我慢すべきだとは到底思えなかったし、だからめったには動かない自分から雪名へと電話をした。何よりずっと求めていた彼の声を電話越しでも良いから聞きたくて。生憎の留守番サービスであっても次に会う約束を取り付けられるのならそれでも良かった。相手が恋人として数カ月を過ごした人間であるというのに、通話ボタンを押すまではそれこそ緊張しすぎて指先が震えた。大丈夫だよね?声、裏返ったりしてくれるなよ?と不安になりつつも、電話の奥に雪名の声を待つ。


そうしてようやく耳に届いた音は、雪名の声でもなければ「ただいま電話に出られません」という典型的な応答でもなかった。


「この番号は、現在使われておりません」


予想だにしなかった冷たい機械的な女性の声に、耳を疑った。


嫌な予感というものは、どうしてこうもよく当たってしまうのだろうか?



その電話の声を耳にした直後の自分の行動とはそれはそれは素早いもので、着の身着のままで部屋から飛び出した。心臓がばくばくと不規則な鼓動を刻み、体温が上がって汗がだらだらと体中を流れているのに、全身の寒気が止まらない。無我夢中で道を走っていた記憶を最後に、気づけば俺は雪名の住むアパートの前に立っていた。どうやって此処までやってきたのかすら覚えておらず、ただ途切れ途切れに聞こる自分の呼吸音がやけに耳障りだった。


ポケットの中からひんやりとした冷たい鍵を取り出した。雪名の部屋のものだった。少し前に自分の合鍵を渡すと同時に、彼自身から受け取ったもの。今まで一度だって使いはしなかったその鍵。その相手が雪名だとはいえ、勝手に人の部屋に入ることに罪悪感は拭えないが、その程度のことで躊躇っている場合でもない。大きな扉の前にしばらく佇んだ後、意を決して鍵を差し込んだ。カチリと開錠する音が聞こえ、ゆっくりとそのドアを開く。


声が出なかった。


部屋の中に、雪名はいなかった。否、彼という人間どころか、その部屋には何もなかった。冷蔵庫も、洗濯機も、ベッドもテーブルもなく、あれだけ敷き詰めるようにして置いてあった画材道具すら無くなっていた。飼い鳥が羽ばたいたあとに残った鳥かごの如く、広がる虚無と伽藍堂。大きな窓にかけられていたカーテンすらも取り外され、光があちらこちらに散りばめられているというのに、隠れる所など何処にもないというのに、雪名がいない。存在していたという痕跡すら残さずに。


あの人は消えてしまった。





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