雪名との関係は概ね良好なものだった。唯一の悩みだった体の相性も問題なく、見せる均整のとれた筋肉だとか肉質は、自分が今まで目にしてきたものと比べれば最高クラスだ。いささか年齢が離れすぎているきらいがあったけれど、それほどの心配ではない。体を繋ぐだけの関係なら、互いのジェネレーションギャップが鮮明になるピロートークなんて適当に相槌を打てばいい。人は誰しも、潜在的に自分のことを語りたいものだ。それに耳を貸したふりをしてやれば、自分が相手に認められると認識してくれる。何とも便利な生き物。雪名が自分より大分年下の未成年であることも俺にしてみれば幸いだった。行為のみに関わらず、妙な背徳感とか珍しく敬語で自分を呼ばれることにぞくぞくとした征服感が煽られて、たまらない。


良い男を捕まえたとその時は思った。実際捕らえられたのは自分の方であるとも知らずに。


今までに出会った男の中で、一番の男だ。そうして、俺はいつしか雪名に夢中になっていった。


雪名は若い。その若さ故に、わざわざ引いておいた他人とのラインをあっさりと飛び越えてしまう。自分くらいの年代になると、誰にも心を開いた付き合いなんて出来るわけもなく、だからこそ自分の内心を、弱さを見せまいとして他の人間との間に境界を作るものだ。自分の許可なしに踏み込もうとする輩にはやんわりと牽制するし、もし無理にでも踏み込もうとしたのなら容赦なく叩き落とす。それこそ、何の遠慮も思慮もなく。下種な好奇心とプライドを踏み潰してやる。そうして二度と自分には近づかないようにと脅しをかける。けれど雪名に関しては、気つけばいつの間にか己の隣にいたという感覚だった。線引きした部分に近寄ってくる気配すら見せていないのに、まるで瞬間移動をしたか如く俺のすぐ傍でにこにこと朗らかに笑っているのだ。


大体は雪名の部屋で会うのが暗黙の了解であったはずなのに、ある日彼が「木佐さんの家にも遊びに行ってみたい」と言いだした。勿論最初は断った。単なるセフレ相手に自分の内面に踏み込まれたくはない。出した答えは、正しかったはずだ。すると俺の返事を聞いた雪名が、心底不思議そうな表情を浮かべて俺に尋ねた。


「何で駄目なんですか?あ、部屋が人に見せられない状態、とか?だったら俺、部屋のお掃除お手伝いしますよ」
「結構です。それなりに綺麗にはしてるから、お前に心配してもらう程じゃない」
「それなら、今度の休みの日に伺いますね」
「……なんでそんなに俺の部屋に来たいの?」
「なんでって、自分の恋人の部屋に行きたいのは自然な考えでしょう?」


そう返事を戻したきり、雪名はさも可笑しそうにくすくすと笑った。てっきり場所を変えて体を重ねたいという理由しか想定していなかったから、無邪気に微笑む雪名の表情を見て、あれ?と思った。……恋人?俺と雪名との関係が?あれ?この関係って、お互いの欲求を満たすのみのギブアンドテイクな関係で、だからお互いのプライベートには踏み込まないのがつまりは条件で。なのに、今雪名がしようとしていることは一体何なのだろう。不思議には思ったが、結局本質的な部分は全く理解出来ないままに。勝手に結ばれてしまった小指は、異様にあたたかかった。


お互いを高めあった後に雪名は力尽きたように眠って、うつぶせの体勢でいた自分は、両手をぐっと前に押し出しながら指先をめいっぱい開いた。右手の小指だけ、じんじんと熱を持ったように熱い。何だこれ?と思った。唐突に雪名が寝言か分からない言葉を掠れた声で呟いた。ふと、零してしまった笑みを掌で隠すように覆った。


こんなのはおかしい。


結局なんだかんだとほだされて、その直後に自分の家に雪名を招く羽目になった。一度やってしまったら、二度目も同じ。二度やってしまったのなら、三度目以降は数える必要もなく、いちいち「木佐さんの家に行ってもいいですか?」とお伺いを立てられるのも面倒で、渋々と合鍵を渡してしまった。彼は取り敢えず分別をそれなりにわきまえているし、一人暮らしをしているからか割と家事も手伝ってくれる。一緒に俺の部屋で寝泊りをして雪名の方が早く出かけるときなど、あの子綺麗でさわやかな笑顔をふりまきながら片手には燃えるゴミ袋なんか持っていたりする。そのギャップが妙に可笑しくて馬鹿笑いしていると、その仕返しとばかりに額に口付けを落とされる。早く行ってしまえと軽く蹴りを入れて、雪名の背中が扉の奥に消えた瞬間に思う。………まるで、新婚夫婦みたい。


変化の兆しはもう既に存在していたのだ。ただ、俺自身が認めようとしなかっただけで。


その日は久し振りに早く自宅に帰れそうな日で、事前にその旨を雪名に伝えれば「それなら木佐さんの部屋で待っています」という返事が携帯に届いた。今日は雪名に会えるんだ、と思うと何故だか胸が高まる。けれどその勢いのままに仕事が順調に片付いたのは午前中だけで、後はお約束の展開すぎて語る気力もない。「ごめん、今日中には帰れそうにもない」と文字を打つ手は疲労の為に震えていたし、あんまりにも目を酷使したせいで画面がぼやけていたくらいだ。あーあ、雪名に会えないんだ。とそんな台詞を無意識にぽつりと零していた自分自身に少し驚いた。


そして結局自分が自宅に戻れたのは次の日の早朝だ。辛うじて今日という日は全国統一の祝日であった為に、とりあえず家にたどり着いたらベッドに突撃で即死だな、と崩壊した日本語を弄びながら、鍵を差し込む。そうして部屋の中の様子を視界に映した途端、目を見開いた。とうに帰っていたはずと思い込んでいた雪名の姿が、そこにあったから。


驚愕に口を開けてしまった理由は、勿論それだけじゃない。殺風景だったはずの自分の部屋が、周期明けのエメラルド編集部のようにファンシーな空間に変貌していた。何処から連れてきたんだか、ベッドの周りには可愛らしい人形が置かれているし、先週買ったばかりのクッションのカバーがピンク色になっている。なんだこれは、と若干引きつっていると、雪名が俺の帰宅に気づいたらしく、くまのぬいぐるみを片手に音を立てて歩み寄ってくる。


「木佐さん、お帰りなさい!」
「……ただいま。…てか、お前は何をやってんの?」
「飾り付けです」
「誕生日でもないのに?」
「…木佐さんがいつ帰ってくるか分かりませんでしたから。本当は俺がずっと待っていたかったんですけれど、流石に数日間となるとそうもいきませんし。だからせめてこの部屋に帰ってきた木佐さんが、少しでも寂しくないようにと思って」


……こいつ、本気で馬鹿じゃないの?俺、一人暮らしを始めてもう何年になると思ってるんだよ。誰もいない空間に一人でいることなんてもう慣れっこで、だから今更寂しいと考える訳がないだろう、と言い返そうとした。それなのに、何一つ言葉が出てこない。


孤独であることを寂しいなんて感じたことは一度もない。でも、雪名がこんなふうに自分のことを考えてくれたことが、素直に嬉しいと思った。


「お前、何で俺の為にこんなことまでしてくれるの?」


尋ねた声はきっと震えていたに違いない。


「………?だって、俺は木佐さんのことが好きなんですよ?自分の好きな人の為にはなんでもしてあげたいじゃないですか」


きっと出会ったばかりの頃なら絶対に嘘だと決めつけていたはずの言葉も、今なら信じられた。ぽかん、と口を開けたまま、でもその台詞が水面に投じられた小石のように緩やかな波紋を作っていく。……そっか、雪名は。本当に俺のことが好きだったんだ、と。今更ながらに納得した途端、全身がカッと熱くなった。


結んだ指先のあたたかさが一瞬にして全身に広がり、体内を巡る血液が沸騰しているような感覚だ。なんだこれなんだこれなんだこれ!と思いっきり動揺していると、その様子を眺めていた雪名が「木佐さん、もしかして照れているんですか?」と笑った。ひとしきり笑った雪名は、遂には可愛い可愛いと繰り返しながらぎゅうぎゅうに俺の体を抱き締めて。


まあ、その後と言えば結局二人でベッドの上でまさぐりあった訳だが、そりゃあもう死ぬほど恥ずかしかった。雪名の本音を知った途端、自分が雪名のことを大分好きなのだと自覚したのだから、今までみたいに体だけの関係などとは切り離せずに。見上げた先にある雪名の俺を見る熱い眼差しだとかが耐えられなくて思わず腕で顔を隠そうにも、やんわりとそれを解かれて、結局はお互いの呼吸が絡み合う位置で凝視された。そうやって羞恥心を散々に嬲られた精神とは裏腹に、今までにないくらい…、つまりは感じた。


次に目覚めた時に最初に瞳に映ったのは、人形のように美しい青年の笑顔だった。


でも、彼自身はおもちゃではなかったのだ。


並べ立てられた人形には何の興味も抱かないのに、雪名の表情を見るだけでふと笑みが溢れるのだもの。そう理解した瞬間に、彼は俺の本当の恋人になったのだ。


俺は雪名を愛していた。それだけは本当だった。




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