胸に唐突な痛みを感じて何事かと思い瞼を持ち上げれば、ミオが仰向けの体に正座をしながら俺の顔を覗き込んでいた。もう起きたから。重い、どけ。という合図を視線で送れば、彼女は嬉しそうに空へ浮かんだ。途端、胸の辺りにあった圧迫感が嘘みたいに消えていく。直後、無駄に悪寒を感じたせいで汗だくになったパジャマを脱ぎ捨てた。


「ショウ、起きるの遅い!今日は出かける日でしょ?」
「………分かってるよ」


全く。大分慣れたとはいえ、こういう起こされ方をするのは本当に心臓に悪い。未だ胸は早い鼓動を刻んでいるし、ぶわりと逆だった鳥肌が止まらない。落ち着け。落ち着くんだ俺の体。あれは悪霊には違いないけれど、その正体はミオだ。あれだけ起こすときは目覚ましを鳴らすなりしろと忠告したのに、三歩歩けば忘れる鳥頭な幽霊だ。役に立つようで役に立たない、百害もないし一利もない。いてもいなくてもどうでもいい存在なのだ、彼女は。と自己暗示を繰り返したところで、やっと体がいつもの状態に落ち着き、ほっと胸をなで下ろした。


こういう時、人間の第六感というものは厄介だなと思う。意識が覚醒している間は何とかミオがそこに“いるもの”だと認識出来るが、眠りから目覚めた時のように気が抜けた瞬間では、そのことを忘れて無意識に彼女を“恐怖の対象”だと思ってしまう。理性を無視して、体が勝手に反応してしまうのだ。だから起き抜けの際はいつもにも増して、ぶっきらぼうな言葉使いになってしまうのだが。ミオはそんなことなど全く気にもしないで、どうせ映りやしないのに、鏡の前で丁寧に髪を梳かしていた。


時計を見る。丁度朝の八時を過ぎた頃だ。休日の目覚めにしてはやや早い時間帯のような気もするが、汗まみれの体をシャワーで流して、出かける準備をするとなるとこれくらいで丁度良いのだろう。出発する時間まで大人しく待っていろ、と声をかければミオは微笑みながら素直にこくりと頷いた。


「さて、出かけるか」
「うん。私も準備万端だよ!」


こんな彼女とのやり取りも、外に出てしまえば単なる俺の独りごとだ。家にいるときはまだしも、ミオと一緒に外に出る時は酷く厄介で。黙れと言っても彼女は小鳥のようにぴーちくぱーちく話しかけてくるのだ。なので基本、外では彼女の発した言葉には頷かない。それがルールだった。


どういう理屈かは知らないが、隣に歩く彼女は俺と同じように厚手の白いコートと茶色のブーツを着込んでいる。普通の幽霊は所謂白装束を着ていそうなイメージだが、ミオの場合は自由自在に服を着替えることが出来るらしい。「だって私は魔法使いだし!」というのが彼女の口癖で、詳しいことは教えて貰えなかったが、たいして興味があった訳でもないのでそれ以上追求はしなかった。ちなみに、部屋にいる時は白いワンピースがデフォルトだ。自宅にいる時くらいは素の自分でいたい、とまるで少女のようなことを主張する彼女には、お前のいる場所は俺の部屋だと毎度毎度心の中で突っ込みを入れている。


ミオの姿は俺にしか見えない。なら、着替えても着替えなくても同じような気もするが、生憎その部分には微妙な乙女心というものが関係しているのだ。


家を出たのは九時半少し前。駅までの道を歩き、いくつかの電車を乗りつぐ。空を飛べるはずの彼女は、目的地へとひとっ飛び出来るのに、俺と一緒に電車に乗り込む。堂々と無賃乗車か?とからかい混じりに小声で言えば、むしろ私みたいな美女に乗ってもらったのだから、お金を取りたいくらいだわ!と傲慢な切り返しをしてくる。……世間的に見て美女なのは認めるけど、幽霊に金を払ってもお前使えないだろうという言葉は、くすりとした笑い声と一緒に消え去った。


駅を出てからしばらくは大きな道を真っ直ぐに歩く。三つ目の信号機で右に曲がって、さらに入り組んだ細道へと向かって足を進めた。緩い坂道の両脇には、ずらりと住宅地が並んでいる。塀を乗り越える形の裸の木々が、冷たい空気に晒されて随分と寒そうだ。見上げた空は深い鼠色。この空模様だと、もしかすると午後には雪が降るのかもしれない。


坂道を登りきったところに、目的の家はあった。和風の家が立ち並ぶ中、洋風のこじんまりとしたレンガ調の館は、年季が入っているせいかどっしりとした貫禄を何処かに感じる。檻の様な頑丈な門を手馴れた手つきで開錠し、小さな階段を昇っていった。アンティーク仕様のインターフォンを鳴らすと同時に、ミオが俺に向かって「終わるまで外で待ってるね?」と声をかけた。それに一つ頷くと、タイミングを見計らったように重量のある扉が開かれた。


「やあ。いらっしゃい」
「お早うございます。先生」
「外は寒かっただろう。さあ、中にお入りなさい」
「はい」


屋敷の中から出てきたのは、白髪頭の老人だ。今日はいつもより肌寒かったせいか、厚手のセーターを着込んでいる。何か飲み物を準備しよう。コーヒーでいいかね?と優しげな声で尋ねてくる男に、こくりと頷いた。部屋の中へと案内され、ぼすりとソファーの上に座っていると、途端コーヒーメーカーからあの香ばしい匂いが流れ出た。こぽこぽとカップにコーヒーを注ぐ。ただそれだけの行為なのに、先生がやるとえらく優雅だよな、といつも思う。七十代にしては肉付きのいい体。それに反して顔や手に深く刻まれた皺。けれどその男が見せる笑顔は朗らかで、時たまこの男の年齢をうっかり忘れてしまいそうになる。例えるならば、ついこの間まで小学校の校長先生でもしていたような、そんな物腰の柔らかな人だった。


「先生は、お仕事ですか?」
「ええ。今日は随分調子が良くて。すらすらと筆が進みます」
「あ、お邪魔してすみません。俺、大人しくしているので。先生はどうかお仕事をなさってください」
「そうかい?何のおもてなしも出来なくて悪いね。飲み物とお菓子は用意してあるから、適当に摘んでくれ。何かあったら直ぐに私を呼ぶこと。いいね?」


俺だって一応はいい大人なのに、話し方がまるで子供に告げるようなそれだった。居間の一番奥に通じる扉の中に、先生の姿が消える。そして少しすると、彼のお気に入りであろうオルゴールの曲が遠くに聞こえた。その旋律を自らも辿って、ソファーの上にごろりと寝転ぶ。高い天井には大きな天井扇が風もないのにくるくると回っていた。


聞き慣れたあの曲に勝手に歌詞をなぞらえ、背中を丸めて机に向かうだろう先生の姿を瞼の裏に見る。しばらくの間は本でも読んでいようかと思ったけれど、この家独特の穏やかな空気のせいで、眠くて眠くて仕方がない。


ま、いっか。少しくらい眠っていても。


そう思って、潔く目を閉じた。相変わらず耳に届くは、何処までも優しげなメロディ。曲名は先生に教えてもらった。La Loreley―親愛なるローレライ―という、俺と先生の二人だけが知る世界に一つしかないオリジナルの歌だった。



「ローレライ」は古くからドイツ地方にて信仰されている魔女伝説の一つだ。



その伝説は、人魚のモデルとなったギリシャ神話のセイレーンとよく混同視されているが、実際両者が生み出された背景というものは瓜二つなのだ。ただ、語り継がれた場所が異なる故に、各々がそれぞれに物語を派生させていったというだけの話。なのだが、それが中々に面白い。先生からわざわざ曲名を尋ねたをきっかけに、珍しく自分からその両者について詳細に調べてしまった。


まずは川。或いは海をイメージしてくれても良い。その場所は陸と水面との境界にあって、むき出しの岩石の上には高い崖がそびえ立っている。水の流れがその岩の壁に白い飛沫を撒き散らしながらぶつかり、それぞれの水流が混じり合うことによって渦が生まれる。その水上を渡ろうとしていた一隻の船は、無残にも濁流に飲み込まれて波の底へと沈む。


と、こんなふうに今の科学ではそのメカニズムが簡単に理解出来るものの、昔々の当時の人々にそんな知恵は無く、つまりそれが原因となってローレライやセイレーン伝説という類の逸話が真しやかに囁かれるようになったのだ。あの場所では度々船が沈む。だからそれはきっと魔女や妖怪の仕業に違いない、と。伝承とは、結局こういうところから生まれていくのだ。


一般的に、夜の海に美しい声で歌を奏で、船乗りを眠らせて船ごと沈ませてしまうのは、ローレライだと勘違いされている。が、それはセイレーンの方だ。人魚姫の物語で、足を手に入れる代わりに声を失ったのも、セイレーンの歌があまりにも人を魅了し、狂わせてしまうから。それならば、その声音さえ聞かなければ無事なのかと思うだろうが、実はその通りだ。単純な話で、耳栓をつけることによってセイレーンの魔の手は充分に追い払えてしまう。それを裏付ける物語この世界には存在している。


一方ローレライと言えば、彼女は歌わない。何かを語ることもなければ、眠りを誘うこともない。誰もいない崖の上で、ただ一人で静かに佇んでいるだけ。けれどその姿が途方もなく美しく、人々を惹きつけてやまないのだ。彼女の姿を一旦目に映してしまえば、心臓を掴まれて囚われ、一切身動きが取れなくなる。そうして舵を取ることすら出来なかった船は、荒波に揉まれて静かに海へと飲み込まれていく。


セイレーンとローレライの違いは、要するにこんなところだ。元々は同じところから囁かれ始めた伝説は、けれどもう一つだけ両者に決定的な違いを与えている。


セイレーンは、つまりは妖怪の一種だ。生まれた時から人魚で、その一生と運命は覆しようがない。けれどローレライは、魔女なのだ。魔女とは、生まれた時点が人間だとしても、“なる”ことが出来る。ここまで教えてしまえば予想はもうつくだろう。


ローレライという魔女は、元々は人間だったのだ。


有名なローレライの物語とはこういうものだ。愛する恋人に裏切られて、魔女にその身を変えた人間が、心を傷つけられた恨み妬みで何の罪もない人達を次々と水底に引き込んで殺してゆく。残忍で末恐ろしい話。


この一連の物語を語る際、必ずといって一緒に住んでいる自称魔女の存在を思い浮かべるが、自分の中であれは次元が違うものだと認識している。大体、大好きなお菓子はマドレーヌ!とか言っている時点で、自分達と同類だ。大体あんな阿呆な魔法使いがいてたまるかよ、といつも鼻で笑ってしまう。


でももし、恋人に傷つけられた痛みで、自分が自分ではないものになれるとしたならば。


それが、どれほどの救いになるだろうか?考えずにはいられなかった。



うだうだと考えているうちに睡魔があっという間に全身を覆い、意識が次第に薄れていくのを感じた。そうだね。この後のことは夢の中で語ろう。どうせそんなにたいして面白いものでもないし、起きている時にわざわざ思い出すのも馬鹿らしい。


もう、三年も前になる話だ。


俺がこの世界で一番に美しいと思える青年と恋に落ち、愛し合った後に手酷い裏切りを受けたのは。






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