電車からホームへ降り立つと、ひゅうと冷たい北風がすり抜けていった。思わずぶるりと体を震わせて、一瞬目を閉じる。ばたばたと人が降り立つと同時に、サイレンのような音を立てて電車が過ぎ去っていく。ごおおという地鳴りのような響きを聞きながら、止めていた足を進めた。


本日の天気は晴れ。ただしかし今は夜の時間なので、生憎見えたのは夜空にぽっかりと浮かぶ月だけだ。改札口を抜けて直ぐに出た外の世界は、ひたすらに寒い。首に巻いていたマフラーを引き寄せながら息を吐けば、白いもやが出来て直ぐに消えていった。朝、テレビで聞いた天気予報では、今日の気温は例年並。…いつも思うことだが、例年並と言われても去年おととしの気温がどうだったかという記憶は全くないので、今一ぴんとこない。とりあえず、この瞬間が寒いのなら間違いなく寒いんだと自分に言い聞かせて、足早に道を歩いた。


電車という暖かな暖房箱に比べれば、今の状況というのは劣悪だ。雪が降らないだけまだマシなのかも知れないが、この寒さは三十路の体に割と響く、様な気がする。語尾を濁したのは、勿論自分でそれを認めたくない気持ちから。


今日はうまい具合に仕事が片付いてくれた。普段なら一仕事を終えてさあ帰ろう、という段階になって、タイミングを見計らったようにトラブルが起こってくれる。その対応をしているうちにあれよあれよと就業時間は順調に伸びて、結局帰宅が午前様近いという状況は、編集者という仕事柄何も珍しいことじゃない。逆にこうやって普通に帰ると何だか後ろめたい気持ちになる。急に仕事の電話が来たりしないかとひやひやものだ。ま、でも、今のところ全く連絡が来る気配がないので、今回はきっと大丈夫なのだろう。


夕食はどうするかな?…外食という手もあるけれど、寒いので家に早く帰りたいという方向に気持ちが傾く。だとすればスーパーやコンビニで夕御飯なるものを買って帰ろうか?と考えた。直ぐにふるふると首を振った。多分、俺の予想では家に帰れば何かかしら食事の用意が出来ているだろう。そう気づいて、深く深くため息をついた。…仕方ないから大人しく帰るか、と結論を迷いながらも下す。


わざわざ今日は早く帰れるよ、なんていう連絡はしない。する必要もない。どうせ奴は俺の帰宅時間が早かろうと遅かろうと、勝手に食事を作って勝手に待っているのだから。


途中、久し振りに馴染みの和菓子店に立ち寄って、店に残っていたどら焼きを買い漁った。紙袋に押し詰められた大量のお菓子は、自分のおやつでもあり、職場の同僚へのおすそ分けでもあり。けれど本当の目的はと言えば、勿論奴への復讐の為だった。


ドアノブに鍵を差し込んで、ひんやりと感触の残る扉をゆっくりと開けた。つい、いつものくせで「ただいま」という言葉を漏らしてしまう。部屋の奥からぱたぱたと人の走る音が聞こえた。途端、ずしりとした岩石のような重みが体にのしかかる。


「あーん、ショウ!お帰り!今日は早かったんだねえ!」
「…っちょ、くる…!苦しいって、ミオ!」
「あっ、いっけない!……ごめんね?」


ぎゅうぎゅうに締め付けていた彼女の腕を解いて、何とか拘束を免れる。ほ、と息をついて安堵していると、腰まで長い亜麻色のウェーブの髪と冬にしては見た目寒すぎる白の長袖のワンピースを翻しながら、ミオはおどおどとした表情で俺の様子を伺っている。


「お前、俺と約束しただろ?ミオの抱擁はある意味凶器だから、俺には抱きつかないこと。もしくは、手加減すること。この間決めたことをもう忘れたのか?」
「…それは覚えているけど。でも、ショウの顔を見たら、つい…」
「つい、じゃない。こう破られてばかりじゃ約束の意味がないだろ」


語尾をやや強めに発言すると、ミオは涙目になりながら縮こまった。でも、だって、を繰り返しながら恨みがましそうな目で見つめてくるが、俺に女の涙が通用するわけないだろ?と言い返せば、それもそうよねー、と答えてあっさりと彼女は嘘泣きを止めた。


コートとマフラーをその場で脱いで、それを彼女が受け止める。ああ、外は寒かった、と気を取り直して部屋に入ると、暖かな空気が自分の体を優しく包んでくれた。……と同時に、鼻を突き抜けていく強烈な異臭を感じて、思わず掌で口を覆ってしまった。


「……ミオ、お前一体何をした?」
「えー?ショウの為に夕御飯作ってあげただけだよー?」
「……ちなみに、そのメニューの名前は?」
「グリーンカレー!」


成程、この強烈な刺激臭はつまりはスパイスのせいなのだろう。にっこりと無垢に笑うミオに軽く殺意を覚える。俺、グリーンカレー苦手だって前も言っただろ?だから絶対に作るなって伝えたことも忘れたな?このあんぽんたん!…と今にもぶん殴りたくなる衝動を必死に堪えた。


当のミオはといえば「今、ご飯の用意するからちょっと待っててねー?」と言葉を残してキッチンへと消えていく。……どうしよう。死ぬほど食べたくないけれど、食べ物を粗末にするのいけないと散々教えられた世代でもあるし、何より一応は自分の為に作ってくれたということがネックになって、結局は渋々と自分の定位置に座った。まるで死刑台に向かう囚人の様な気分だ。


キッチンから、彼女の鼻歌が聞こえる。…ああ、恐ろしい。俺、夕食の後に生きていられるかな?と不安で不安で仕方ない。くそう、やっぱり自分の分だけでも、食事になりそうなものを買ってくれば良かった。というかそもそも彼女に作らせたことが問題だった。この部屋に居座ることを許した俺にも、だから原因があるという訳だ。


ちなみに。ちなみにだ。俺と彼女との間に深い関係は一切無い。神に誓って、一片の愛情も義理もありはしない。告白すると、俺は昔から好きになる人は自分と同性の男のみ、という生粋のホモだ。間違っても、自分が女を好きになることはない。何かのきっかけに己の異常性癖が消え失せたとしても、絶対にミオだけは選ばないと断言出来る。…では、何故一緒に同棲のような真似事をしているんだって?そこには色々とのっぴきならない事情があるのだ。より詳細な経緯は、追々に説明していくつもりではあるが。


兎に角、俺と彼女に何かがあるだとするのなら、それは友情の類だ。俺は、彼女のことなんて何とも思っていな…。い、訳でもないかな、とふと冷静になって考えた。


そうこうしているうちに、あのおぞましい色をしたカレーが目の前に出された。正直、もう泣きそうだ。カレーなのに、何故そこにココナッツミルクを入れるんだ畜生!と心の中で叫び、銀色のスプーンでひと匙を掬う。ミオはと言えば俺の目の前に座って、両手で頬を支えながらにこにこと笑っている。唇を震わせながら勢いのままに飲み込んだ。オッケー。くそまずい。


あまりの独特の味に顔を歪めて悶絶していると、ミオはそんな俺の様子を見てけらけらと音を立てて笑い始めた。人ごとだと思いやがって。お前も食べてみろ!と言いそうになって、思わず口を噤んだ。彼女は自分が作ったものを一切口にしないのだ。否、出来ないといったほうが正しいのか。だから結局、このゲテモノ料理は自分の腹の中に処分するしかない。


そんなミオが、ふと和菓子店で買ってきた紙袋をようやく見つけたようで、明からさまに不機嫌そうな顔になった。


「ね?ショウ。あれ、何?」
「何って、見たらわかるだろ。どら焼き」
「えー!またどら焼き買ってきたの?私はマドレーヌの方が好きって、あれだけ言ってあったのに!」
「アホか。毎日毎日マドレーヌなんて食ってられないだろ。あんな甘ったるいもの」
「どら焼きだって甘いじゃない!」
「普通のお菓子とどら焼きを一緒にするなよ!」
「何その屁理屈。納得いかなーい!」


唇を尖らせるミオの表情を流し目て、溜飲が下がる。ざまあみろ。毎日毎日好みでもない料理と洋菓子を食わせられている俺からのささやかな復讐だ、という顔を作ると、ミオが年甲斐もなくいーだ!と口にしながら真っ白な歯を俺に見せた。


「ショウがそういうつもりなら、私だって手加減しないもん!」
「はあ?どういう意味だよ」
「直ぐに分かるわよ」


彼女が含みのある表情で、ふふと笑う。嫌な予感が胸をよぎると同時に、インターフォンの音が部屋に響いた。スプーンを皿に置いた後、立ち上がって玄関に向かう。何の気まぐれかは知らないが、玄関に向かう俺の後をのそのそと追ってきた。


玄関前に居たのはいかにもという制服を来た宅配業者で、木佐翔太さんのお宅ですか?と丁寧な言葉で尋ねてきた。そうですけど、と普段通りに答えれば、お届けものです、という返事が戻る。…届け物?俺、何か配達が必要な物を注文していたっけ?と疑問に思いながら箱をちらりと覗くと、そこにはこんな文字が表記されていた。


『高級マドレーヌ:三箱分』


俺の背後で、ミオが小さくガッツポーズを作っている。…こいつ、もしかしなくても勝手にこんなもの買いやがったな!?しかも、どう考えても俺の金が出処だろうこれは。そう考えたら、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。


「だってー、毎日あれだけの量じゃ少ないと思ったから。…ネッ!」
「お前…ふざけんなよ」


と低い声音で彼女に言い返した途端、俺のすぐ前にいた業者が驚いたように目を見張っていた。あ、しまった。と思いながら、取り繕うように今手持ちの印鑑がないのでサインでも良いですか?と作り笑顔で対応する。箱を受け取りながらご苦労さまと伝えて配達員を追い出すと、はあ、と深い息が出た。うん、今のはまずかった。久し振りにやらかしてしまった。あーあー、絶対誤解されたよなあ、と落ち込んでいると、その根本の原因を作ったミオは俺からひったくったダンボール箱を胸に抱いて、嬉しそうにくるくると回っている。仕返しをしてやったりと思ったのは一瞬で、実は彼女の方が一枚上手だったことも、もやもやとした感情に拍車をかけた。


「お前のせいでまた俺が変な目で見られるじゃないか」
「気にしない気にしない!ちょっと独りごとが多い人だなって思われるだけだから、全然平気」
「俺は平気じゃないっての」


軽い口喧嘩をしつつも、二人で並びながら部屋へと戻る。途中、部屋の隅に置いてあった姿見が何気なく目に入った。


「じゃあ、私が何とかしてあげようか?」
「……へえ。どうやって?」


気の抜けた返事をすると、ミオがむっとした表情で俺を見上げる。けれど、鏡の中の世界では、空中にふよふよとダンボールが浮かんでいる光景だけが映っている。俺の姿はあっても、そこに彼女の姿は無く、部屋の中の様が有り有りと刻まれているだけだ。


「何でも出来るよ〜!任せて!」


えへん!と胸を張る彼女の姿は、残念ながら俺にしか見えない。


ミオの透き通るような美しい声も、自分にしか聞こえない。だから先ほどの宅配業者の目には、唐突に俺が危ない独りごとと言った奴としか認識されていない訳だ。


「だって私、魔法使いだし!」


調理方法はポルターガイストの寄せ集め。彼女の抱擁はつまり金縛り。だから、俺と彼女の間には本当に何もないのだ。むしろ、そこに何かある方が恐ろしい。



自称魔女と言い張る彼女を俺は、悪霊だと、思っている。





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