司教さま。私の眼差しは呪われています。どうか私を、死なせてください。



++Loreley++



この世界に生まれてきた人間は、誰だって幸せになれる。


と最初に教えてくれたのは小学校の先生で、その言葉に頷くふりをして俺はと言えば、内心それは嘘だな、と感づいていた。自らの根拠を立証する要件は何処にもない。けれど、いくら幼い頃だからといって、それはないだろう、という直感は馬鹿にも出来なかった。


先生は、またこうも言った。


他人と自分のことを比べるのは愚かなことで、比較し続けるという人生は人を不幸にする。


それは一理あるなと思いつつも、でも結局先生のお言葉は嘘だなと結論づけた。子供の算数宜しく、例えば俺はある人からりんごを受け取って、友達はいちごを受け取ったとする。けれどもし二人共大好きな果物がいちご一択だとしたのなら?俺は、いちごを貰った友達を狡いと思うだろう。自分だってそっちの果物の方が良かったのに、と不満を抱く。先生は、つまり不幸とはそういうところから生まれるのだと教えてくれているのだ。


例え自分が自分の望むものを与えていられなくても、何も得ていない訳じゃない。自分が持っていないものを“持っている他人”と比べてしまえば、そこから嫉妬心が沸き起こる。負の感情を自ら生み出すのは愚かなことで、だから先生は他人と比較するのは止めなさいと教えてくれる。先生の言うことさえ聞けば、誰だって幸せになれると。


けれど、人と比較しない人生なんか有り得る訳がない。


幼少期の頃の子供の反抗期が、何故起こるかを先生は知っているのだろうか?生まれたばかりの赤ちゃんというのは、母親と一心同体であると認識しているのだ。自分も、母親も同一の人間であるという錯覚は、自我の目覚めによって崩壊する。母親と自分は違う人間なのだと。だから母親の伝える言葉をなんでも嫌がるようになるのだ。親の言いなりになってしまえば、自分が親と同じ人間であることを認めてしまうようなものだ。だから、否定する。そうやって自分は自分であることを理解していくのだ。


そしてそれは何も幼い頃だけに限らない。主観というものが客観という第三者と比較して初めて認められるように、人間の個体とは周囲の状況なくして存在は出来ない。周りの人間によって初めて自分の立ち位置が分かる。評価を知る。与えられた役割に気づく。無意識のレベルでそれらを汲み取り、人は人という立場を演じ始めるようになる。それは大人になっても同じこと。だから、人間が人と比べない人生を過ごすということは絶対に有り得ない。


ならば、私達が幸せになれる方法は何処にある?


よく言うだろう。鰯の頭も信心から。つまり先生の有難いお言葉を何の疑いもなく信じられる人間が、幸せになる可能性を持っているのだ。自分達が幸せになれると疑わない。他人と比較しない人生が本当にあるのだと信じる人。知らぬが仏。事実を知ることは素晴らしいことではあるけれど、だからといって追求した故にみつけた真実が必ずしも人を幸せにしてくれるとは限らない。


信じなかった。先生の言葉は勿論疑った。


真実を知っていた俺は、もうとっくに不幸側の人間だったのだ。




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